盗み聞きの様に
盗み聞きの様に聞いてしまったココの言葉。−−不謹慎じゃないか。構っている、うつつを抜かしている暇は無い。
「その……思えば確かにその通り、ですから。電話で、こちらに居る間は会いません。とお伝えして、」
やがて、ココに伝えた自分の決意。ただココから言われた約束は、恥ずかしくてクラルは言えなかった。
「なのに会場で、目が合ってしまって…。気づいたら、足が……」
それでも、出来る限りの話はした。
「逃げたかった訳では、ありません。ただ…」
小松はただクラルを見つめ、静かに聞いていた。始めこそ、ココさんがそんな事を…?と、目を白黒とさせたのに不意に、真顔になって、クラルの言葉をその瞳だけで促している。
不思議、と。クラルは思った。マリアにさえ、言い淀んでしまったのに小松さんには…何でも話せてしまいそう。
ココと一緒に居る時とは異なった安堵感に、クラルの肩から力が抜けて行く。
「…彼に、お会いしにくくて……」
それでも、クラルの言葉は淀んだ。小松に向けていた視線を大理石の床へと落とし、まごつきかけた唇を結ぶ。少し早い鼓動の場所でクラッチを握り込む。
その時を待っていた様に小松は、
「クラルさん」
静かに、口を開いた。
「ショックだったんですね」
その言葉にクラルは少し、息を飲んだ。唇を小さく戦慄かせ、小松へと視線を戻す。ショック、だったんですね。小松の言葉を体の内側で復唱する。ショック…そう、ね。ショックだったわ…。その時の感情を思い出したと同時に、頷いた。
「……はい」
小さな声で肯定する、クラルを見つめて小松は、思い出していた。
「だからココさんに会うのが、不安なんですね」
目の前の女性に、初めて会った日の、エレベーターホール前の出来事。今、小松の言葉に瞳を瞬かせるクラルはその時、沢山のワインで熱せられた頬でくすくすと幸せそうに、小松に教えてくれた。彼女が想う彼の、過去も未来も全部、愛している、と。その言葉に幸福を感じて破顔したココを仰いで、忍び笑いを零し合いながらお互いに顔を寄せ合って何かを、囁き合っていた。
「拒絶されるかもしれないって、怖かったんですよね」
小松の言葉に、クラルの瞳が僅かに揺れる。深いアジアの虹彩が、長い睫毛の下で小松の言葉を受け止めるように、広がる。
「だから、自分から会わないって、決めちゃったんですね」
やがて、見開いた目を瞬かせてクラルは、クラッチを更に抱き込んだ。小松の言葉を声に出さず復唱する。
それはクラル自身驚く程自然に、胸の奥へと落ちて来た。――ああ、そう、ね。私……。記憶のフィルムが旋回していく。マリアの言葉が鼓膜の奥に宿る。どうしちゃったの。あんた、変よ。それは、長い付き合いだけあって彼女の言う通りで、以前のクラルだったらココに詰め寄っていた。あんなお行儀の良い、聞き分けの良い事なんてしなかった。サニーの存在があったとしても、モバイルを探している最中だろうが構う事無く、訊いた筈だ。始めは失礼を詫びて、きっと挨拶もなおざりに、それはどう言う意味でしょう……?と、詰め寄った。でも出来なかった。
クラルは、肩を強張らせる。あれはつまり、どんな返答でも受け止める自信が、無かったと言う事。小松の言葉が胸の空いた部分に落ちる。掌にじくじくとした、刺を思わせる痛みが籠る。拒絶を受けたあの、死ぬよりも辛い恐怖。――私、怖かったんだわ。彼に、必要とされなくなるのが…怖くて、恐ろしい。
言葉での確認は、必要なかった。瞳だけは真っすぐに小松を見つめているけれど、少し悲し気なそれが彼の推測の正確さを示唆していて小松は、少し胸が痛んだ。
暴いてはいけない感情を、ボクは暴こうとしているのかもしれない。クラルさんが目を反らそうとしている部分なのかもしれない。けれど、小松は続けた。
「当然ですよ。好きな人からそんなの聞いちゃったら、誰だって悲しくて、どうしたら良いか分からなくなります。分からなくて、会うの、怖くなっちゃいますよ」
「…小松さん……」
クラルの虹彩が薄く潤んだ。本人にも気づかない変化だったのか、咄嗟に顔を背いて「すみません」「いえ…」指先でその目頭を押さえる。小松は、
「ただ、ボクは……ココさんが考えてる事も何となく、わかります」
クラルの動きが、僅かに止まる。小松へと再び向けられた瞳は濡れたまま、その言葉に驚いて、その先を知りたがっている。
クラルさんって、思っていたよりも分かりやすい人なんだな。小松は、少し苦笑した。こう言う所、何となくココさんと似てる。
「女性だから、とか、スキルアップの邪魔。とかじゃ無くて……好きだからこそ、っていうか…その、」
小松はふと、言葉を詰まらせた。
ただ、もし本当にこの予測通りだとして……−−そもそもココさんが、クラルさんの事を邪険に扱うかな…? 小松が知っている限りの彼は完璧な紳士だ。皮膚に毒腺を持ち、体液を劇薬に変換して対象へ狙撃する事の出来る体質で、毒舌家でもあるけれどその人格の根本は、どこ迄も紳士的だ。体躯や容姿も相まって男でもころっといきそうな色男、と言う部分はさておいて、ジェントルマンだ。そして、周囲が辟易する程、恋人に惚れている。
とてもじゃないが陰で非難を言うタイプには見えない。寧ろ小松に、自分では補えない部分で彼女のケアを頼むし、馴初めを聞いたら照れくさそうにでも嬉しそうに、教えてくれた事もあった。
「クラルさん……」
だからといって、目の前の女性が嘘をついている様にも見えない。
「はい。なんで…しょうか?」
小松は、クラルの言葉を思い出して考えた。明け透けで、陰日なたなく普段から人に対して、ストレートな感想を臆面も無く口にするのは……
「その、クラルさんが聞いた言葉…本当に全部、ココさんがいったんですか?」
「え……?」
クラルの眉根が僅かによって、何かを思案する。
「その、ココさんは…目的が目的なので女性同伴は不謹慎、と…ですから私の事は誘えなかったとも仰って……そうしたら、後はサニーさんが……」
やがて、その目を見開いた。
小松は、あー…と、頬を掻いた。
やっぱり。そう言うこと言いそうなのって、どっちかと言うとサニーさんだよなあ。毒だの土管だの、言っちゃうし。そう言えばあのお二人、お昼時ちょっと険悪だった。ココさんはずっと何かを気にしてたし、ちょっとサニーさんの事睨んでいたし。
となればその前文も小松は気になるが、今は深い話をしていられない。していられなくとも、何となく想像がつく。だってココさんが、クラルさんを邪険に扱う筈が無いもん。
もし、そうならさっき小松がみたココの姿の説明がつかない。まるで、彼が死にかけた時に駆けつけてくれた時みたいな焦り方。
小松は静かに納得した。
「なら、ココさんが言った不謹慎はクラルさんを指してじゃなくて、ただの大衆論ですよ。そう思う人たちの視線に、大事な彼女を晒して、クラルさんに変な気遣いをさせたくなかったんですね」
小松は言い切ってすぐに、きっと。と、念押して更に、続けた。
「じゃ無かったら、いま、クラルさんのこと追いかけたりしないでしょう」
クラルの口元が、きゅっと結ばれる。不安げな瞳はまだ少し潤んでいたけれど、目尻はほんのり恥じらいに染まり始めていた。小松は自分の言葉を後押しする様に、クラルに向って微笑んだ。つられたのか、クラルの表情もほんの少し緩む。
感情のまま傍に連れて、お人形の様に可愛がるだけが愛情の証明じゃない。そもそもクラルが、ココとそんな関係を望む様にも、小松には見えない。ココ自身も、そんな可愛がり方はしないだろう。占い師であり美食屋でもある彼は多忙を極めるから、ある程度は自立性のある女性を選びそうだ。
それに、と。小松は思う。
彼女をひとりの女性として尊重して、大切にしているからこそココさんはボクにあんな事が言えたんじゃないか。大切にしているから、さっきも酷い剣幕で飛び出して来たんじゃないか……。ココさんにとって、クラルさんはその位大事な人なんだ。ココに言われたいつかの願いを思い出して、小松は、ふと気になった。
そう言えば、ココさん…結局あのまま向こうに行っちゃったのかな?
「……小松さん?」
やにわ自分から顔を背け、廊下側を伺いだした小松に、クラルが声を掛ける。
「どうなさいました…?」
「いえ…」
言葉を背中に受けたまま、小松はそっと下の方から角の向こうを覗き込んだ。しゃがみ込んだのは無意識だった。ただ、貸衣装の膝を付いてゆっくりと顔を出した、と思ったらその表情を引きつらせて直ぐに引っ込めた。ぱっと、背中に壁をくっつける。
まずい。
「クラルさん」
「……はい」
クラルは、聡いと言われる部類の人間だ。そして小松は自分でも自覚している程、顔に出やすくて分かりやすい。小松の横で、クラルの顔がさっと血の気を引かす。「まさか、あの…、」呟きかけた言葉よりも先に。小松が口を開いた。
「ココさん、こっち向ってます」
息を飲んだクラルを仰いで小松はしゃがんだまま「さすが、ココさん…」呟いた言葉にクラルも「そう、ですね…」お互い動揺しつつ、彼を賛辞した。が、このままじゃいけない。目こそ合わなかったがココは間違いなくこちらへ辿り着いてしまう。小松は立ち上がった。さっき一瞬だけ見えた彼の位置はまだ距離があったけれど、安穏としていられる状況じゃない。
「えっと、大丈夫ですか?クラルさん…ココさんと、話せますか?」
「それは……」
クラルの足が一歩引いた。本人は無意識だったのか、咄嗟にその差を整えたけれど小松には、気づいた。ああ、まだ心の整理が付いていないんだ。
だから彼は、決意を固める。ボクだって、男だし。それ以前に困っている人、見過ごせないよなあ。だったら小松は小さくとも腹を括る。
「あの、ボク、ココさん足止めしてみます」
「そんな、」
小松の意思に、クラルは咄嗟に言葉をかぶせた。
「そこ迄していただかなくても」
「だってクラルさん、まだ気持ちの準備できてないでしょ?」
それでも小松が笑ってみせれば、クラルの言葉が止まる。
「無理、しすぎちゃだめですよ」
「小松さん……」
「クラルさんは隠れていて下さい…ボクじゃ、頼りないかもしれませんが…」
「いえ……」
苦笑してみせる小松の前で、クラルは少し逡巡した。
小松は、ココの友人と言ってもクラルはまだ、数える程しか会っていない。そうであればこんな、痴話喧嘩と言って遜色の無い事に巻き込むなんて、大変な失礼だと彼女は思うのに。クラルは、小松に対して不思議な安心感を持ち始めていた。それはココへの想いとはまた別の感情だけれど、異性に対してはココ以外に持った事が無い。甘えても良いかしら……この方、には。ココさん程と、いかなくても、せめて、今だけでも。
小さな自我が発芽して、クラルはその手に力を込める。
「……ありがとうございます」
「いいえ。でも、気持ちが落ち着いたら、ココさんにちゃんと話してあげて下さいね」
そうして、小松の言葉を受け止めてやがて、破顔した。
「はい」
それじゃあ。と、背を向け歩み出した小松に目を細める。燕尾服に包まれた背中は小さくて、普段見慣れた男の体躯に比べたら幾分も頼りないのにどこか、頼もしい。クラルは不思議な心持ちを胸に転がした。恋とも愛とも違う、純真の好意が芽生える。――ココさんが、小松さんを良くお褒めになるのは、こう言う所なのかしら…。私も、小松さんとご友人に…なれるかしら。
ふと、いつかのココの言葉が蘇る。
『面白い子だったんだ』
ココの家のキッチンで、温めたティーポットにリーフを落したココは笑った。
『ちょっと騒がし過ぎる所もあるが、素直でさ……きっと、君も彼を気に入ると思う』
言葉を重ねながら沸き立てのお湯を注意深く、ティーポットの注ぎ口から高い位置へと真っ直ぐ注いだ彼は、やがて陶器製の白いそれにコジーを被せて、クラルへ向かい優しく顔を綻ばせた。
さっぱりとした黒髪を陽光に透かせて、耳を飾るアクセサリーを光らせて、
『だから次の休みに、彼のレストランで一緒に食事をしよう。彼に、君を紹介したい』
糊のきいた白いシャツの襟元や捲り上げた袖から、逞しい胸元と腕とをその場に晒し、様々なスグリの実をつかったパイをお皿へと移し終えたクラルの腰を抱き寄せ、優しく告げた。私をですか?と、言葉を返したクラルは頬を温かく感じながら喉を鳴らした。腰を屈ませたココの額の質感や微熱を、自分の同じ場所で受け止めたあの日を、昨日のように思う。もう、何ヶ月も前の話なのに。
『ああ。僕の大切な女性だ、ってさ』
そうしてふたり、照れ臭さにくすくすと笑った。言った本人でさえ、……気障かな? なんて言っていてクラルはそれに、そうですね…少しだけ。 と。こんがり温められたスグリの実が甘酸っぱく香る中で、笑い合う唇をくっ付けた。
それは清潔で甘い、満ち足りた午後の記憶。
クラルは思い出し、胸に、罪悪感を抱いた。