プールサイドから
プールサイドから歓声が上がった。きゃーきゃーと張りのある黄色い声は客馬内によく響くけれど、ココにそれはとても遠くの場所で起こった事に聞こえた。
聴覚を司る神経の全てが、電子端末に集中する。
『……すみません、あの、』
「クラル……?」
小さく呟いた名前に思わず疑問符が付いたのは、確認の為じゃない。ココにはそんな事必要無い。たった一語であっても声を聞くだけで直ぐに分かったし、確信した。それでもつい、尋ねてしまったのは、信じられなかったからだ。文明の利器唯一の欠点だ。番号を登録しているお陰で、先入観に支配されるから、予想外に戸惑う。
耳元で、柔らかい声が戸惑いがちに、はい。と、そしてすっきり答える。
『すみません。……混乱、させてしまいましたよね』
「いや、それは全く。かまわない」
それを告げた途端、ココは通話口に手を置き、小松に向って断りを入れ、喧噪の少ない場所へと向かった。
クラル、クラル。――クラル、だ。
その、特別な固有名詞。何度も呼び、何度も抱きしめたその最愛の名前を繰り返すだけで、ココは自分でも分かるくらい声が浮かれ、心がゆったりと幸福を染み出してくる。幸せだ。と、思う。そしてそれと同じ位、ココの脳裏にクラルへの疑問が浮かんだ。今、どこに居るのか。何を、していたのか。そもそも何故、
「でも何故、マリアちゃんの端末から連絡してきたんだい?」
その中で、最も新しく浮かんだ疑問を、口にした。
ココは少し前に黙視したティスプレイ画面を思い起こしていた。手の中で震える端末は着信の存在を知らせていたけれど、その画面に浮かんでいたのは自分にとって最も好ましく愛しい女性の名前ではなく、今、恐らくその彼女と一緒にいる彼女の古い友人だったのだ。
背後の喧噪、人の数が次第に疎らになる。そこから更に歩を進め、ココは手近にあった柵に手を置く。ぽかんと空いた吹き抜けとなっているその場は、構造上日差しを遮るものが無い為に人も少ない。「もしかして、……充電し忘れた?」ココは柵の向こう側に広がる大海原へ目を細めて思ったまま声にした。ぴったりと床と接合された柵は、ココ程の長身で強靭な体躯の男性が力を込めて握ってもびくともしない。
『いえ、その…それ…が……』
クラルはちょっと歯切れ悪く、その問いに答える。
「……クラル?」
彼女にしては珍しい声色だな……。ココは訝しみ、名前を呼ぶ。その時、
『モバイルを、落としてしまいまして……』
「、は?」
潮風が吹き抜けた。呆気にとられたココの、頭に巻いているダークグリーンの薄いターバンから溢れる髪の一房が、びょうと揺れる。
「落とした…?」
『……はい』
「君、が?」
『はい。私が…その、気づいたら』
ココは二度、三度瞬きをして、
「また……どこに?」
『……部屋の、ベランダから…真下へ』それからクラルは僅かに呼吸を置いて、ココが口を挟む前に『今、もう、チェックインしていましてその、貴方へご連絡をとテラスに出たその時にうっかり、手から落としてしまったら……あっという間に、柵を抜けて真下へ。……スタッフの方にもお手伝い頂き探したのですが、見つからなくて…』
その、落胆が滲む声色にココは
「……そう、か」
『すみません』
「いや、謝る事じゃない……」
『……すみ…ません』
苦笑して、額に手を当てる。
「そうなら、もう仕方ない。データのバックアップはとっていたよね?」
『はい。それは、きちんと』
「なら大丈夫だよ。あまり気落ちしないで。マリアちゃんの事だからきっと部屋も、高層階だろ?クラルが落ちたわけじゃなくて、良かったよ」
『ココさん……』
ココは言って、笑い、クラルの呆れを誘った。怖い事を仰らないで下さいな…。との言葉には、カジュアルに謝罪を返したその裏で、畜生。と、伝えきれない言葉を飲み込む。
僕が傍にいたなら、どこにあるか直ぐに見つけられる。クラルの電磁波を読み取って、彼女の持ち物とつなぐ事ができる。なのに、受話器越しではままならない。畜生。近くにいない事が煩わしい。
最も近くにいたなら、そもそもモバイル自体落とすことも、紛失させたりもしないけど。
『あの、それで……』
不意に、クラルが声を上げた。ココはそれに、「何?」先を促す。
『そういう訳ですので、しばらくご連絡が難しくなります……。少なくとも、IGOへ戻るまでは』
「…………」
そうして、絶句した。
『すみません……』
「あ、いや……」
『マリアのモバイルを借り続けるのも気が引けますし』
「そう、だな……」
そうだ。いや、そうか……。そういう事に、なるのか。ココは思わず、奥歯を噛み締めた。眉間にしわが寄る。額に置いていた手にも、モバイルを握り込む掌にも力が、冷や汗が籠る。自然と項垂れて、でも
「気にしないでくれ。今回は、仕方ない。それに僕も、忙しくなるから」
絞り出した返答は、殆ど、虚栄の言葉だった。柵に背を向ける。腰を預けて、唸りだしたくなる心の代わりに、前髪を掻き上げて握り込んだ。ターバンが僅かにズレたが、おかまいなしだ。
不意に、クラルが微笑んだ雰囲気を、ココは感じ取った。ココの見栄に気づいたのか、それか、ただの相槌代わりかなんて表情が伺えない今、ココには分からない。ただ、出来れば見栄には今は、気づいて欲しくない。
『修行……』ふと、クラルの声が呟くように『頑張って下さい。ココさんならきっと、成功なさいます』
「うん。…ありがとう」
前髪を握っていた手の力を緩めた。囁きはゆったりとしてでもすっきりと、滑舌が良い。柔らかさが耳に心地よい。まあ、どちらでも良いか。ココはそっと苦笑して、ずれたターバンを巻き直す為に頭から外す。
「ところで、もう一つ聞きたい事が有るんだが…」
『はい。……何でしょう?』
ターバンを外した髪はさっき小松に指摘された通り、いつもよりうんと長く、風が通る度に顔にかかる。
確かに、かなり伸びたかもしれない。
鬱陶しげに前髪を掻き上げる。
「結局、どこへ連れて行かれたんだい?」
『あ……』
その問いにクラルは、僅かに息を飲んだ。
「その、こちらは……」
座りの良い1人用のチェアに、いつものようにすっきりと正した姿勢で腰掛けてでも、僅かに肩を緊張させた。
マリアに断って、端末を借り、通話と共に割り当てられた部屋へ向かった数分前。その時からずっと、この問い掛けを与えられることは分かっていた。だから、返答を考えていた。きちんと、ちゃんと。
耳に当てるモバイルをぎゅう、と握る。逆手の平を胸の前で強く握り込む。目の前には、日が射し始めた西向きの部屋。頬には開け放たれた窓から吹き込む風が触れ、視界の端に映るカーテンはゆらゆら揺れて、いつかにココと2人で行った南国のヴィラコテージを思い出させる調度品はでも、いつかに数日を過ごした部屋よりは、素っ気ない。
『クラル……?』
スピーカー越しにココが訝しみ始める。名前を呼ばれることなんて、いつもは嬉しさに頬を染める事が、今のクラルにはただ辛い。
ココは、いつも通りだった。クラルの想像よりずっと、いつも通りココの声は相変わらず柔らかく、落ち着きに溢れている。喜びを隠さない響きを持っている。初めにはクラルの着信が嬉しくて、不安を感じ始めていた心が落ち着くと伝えてきた。だからその、声に出さない訴えが言葉よりも鋭利に、クラルを責める。……あれは、幻聴だった?「あの……、」彷徨わせる言葉の裏側でつい、数時間前の午后を思い出す。
高い日差しを遮る場所の、柱の裏。聞こえて来た男の声、呼ばれた名前は、間違いなく、ココだった。
『どうしたんだい?何かあった、』
「ココさん」
ーーココさん、だったわ。クラルは思ってココの声を遮り、「その、余り驚かないで下さいね」『あ、ああ……』ひと呼吸起き、
「私、今……貴方と同じ所にいます」
拍動に震えそうな声を押して勤めていつも通りに、言った。