遠くから
遠くからその一部始終を眺めていたトリコが、ぽつん。と、呟く。
「何やってんだ?サニーの奴……」
その横で小松は苦笑して、頬を掻いた。
「相変わらず、賑やかですよね。サニーさん」
それは小松には言われたくない事じゃないか。トリコはふと思ったけれど、口にはしなかった。だってこの場でならきっとそれを口にするのに相応しい相手が居る。
トリコの、2つ年上の青年。
小松と談話していたその、兄貴分とも言える青年は、その見た目や声質とは裏腹に、さらりと舌から毒を出す。
けれど、一拍どころか、二拍、三拍と待っても何も返って来なかった。
トリコは、不思議に思って横を見た。おかしい。そう言えば、彼が持つ匂いも薄い。
「あ?」
ストローから離した口が、短い疑問符を吐く。
「ココの奴、何処行ったんだ?」
ずっと小松を挟んだ左側で、小松と談笑していたと思っていた青年が、そこにいなかった。
自身の腰位しか身長の無い小松の向こうにはただ、デッキ上で思い思いの時間を過ごす観光客の姿や、抜ける程の青空が広がっている。
「ココさんならさっき、あっちに行きましたよ」
あっけらかんとした声が肩の下の下から返って来た。
「……あ、そ」
あっちって何処だよ。と、思ったがそれは口にはしなかった。思春期の学生じゃあるまいし、連れの一人が勝手に何処かへ行こうとさして気にしない。トリコはただ、カップの中に満ちていたクラッシュアイスを口に流し込む。
「なんか携帯を耳に当てるなり、すまないちょっと。って。向こうに」
小松が指で促した先は喧噪とは対極の、静けさを持つ日陰へ続いていた。柱の裏かそれか、船尾迄行ったのか。ココの姿は見えない。
「ほーか」
氷を噛み砕いての返答は何処か間抜けだ。
「なんかあったんですかね」
けれど小松は、そんな事は気にも留めずに喋る。
「すっごい慌てた様子だったんですよ。ココさんにしては珍しいぐらい。大股で向って行ったから、姿も直ぐ消えちゃって」
良く、喋る。だからトリコはわざわざ訊く事をしなかった。そんな事をしなくても小松は全て教えてくれるのだ。
「……大丈夫かなあ」
ばりぼり。口一杯の氷を咀嚼するトリコの横で、ココにまつわる一部始終を喋り終えた小松は、何故かココの心配をする。
トリコは何も言わず、ただ口の中で小さくなった氷の粒をゴクンと飲み込む。
小松はこと、ココに関してはいつもこうだ。
下手をしたらコンビであるトリコより懐いているかもしれないと思える行動を取るし、今の様に些細な事で彼を気にする。
小松がココに心を砕くのは、小松の性格を鑑みれば有り得ておかしな事等無いし、ココ自身も人の気を無意識に引いてしまう所があるからトリコにとっては今更だ。今更だけれど、何だか、釈然としない。と言うか、トリコには理解し難かった。お前はココのオカンかよ。と、つい思う。思ったら口から出そうになったが、今、トリコの口は次に流し込んだ氷を砕く事に専念されていた。だから、
「あー……どうせ女だろ」
適度に溶けて砕けた氷をまた、一気に飲み込んだ後に言ったのは、その次に思った事だった。
「へ?」
素っ頓狂な声を上げた小松がトリコを見上げる。
「嬢ちゃん」
トリコは、そんな小松に向って小指を立てた。呆けている小松に、クラルだよ。と、滅多に口にしない名前を出す。
最近、ココとは昔のように接する機会が増えたが、その彼女であるクラルとも交流があるかと言えばそうではない。トリコにとってクラルはあくまで、ココの女だ。旧友の、それもココの彼女だと思うと、親しげに名前を呼ぶ事はなんとなく控えてしまう。
だから、なんだかなんだか新鮮だ。例え、本人に向けてであってもトリコはなんとなく呼べずにいるのだ。(別にココの目が怖いとかじゃない。確かにトリコがクラルと会う時は常にクラルがココと居る時だが。なんとなく、呼びにくいだけだ。)
「あいつ、こっち来てからずっと連絡待ってたろ。なーんか不機嫌だったしよ」
トリコは、まったく仕方ねーよなあ。と、呆れ笑った。
暫くトリコを見上げていた小松が、ああ。と、言葉の意味を理解してそれから苦笑した時、「あのお二人って……本当に、仲良いですよね」まるで二人の関係が羨ましいと言わんばかりのアンニュイ声を出したから、トリコは思わず吹き出した。
「なんだお前!好きな奴を他の子に取られた中坊みたいになってんぞ!」
「は、はぁあああ!?と、トリコさん何言って……!」
「諦めろ。ココはな、たまーに勘違いされるが、正真正銘、ノンケだ」
「そっち!?てか僕だってそうですよ!気色悪い事言わないで下さい!!」
「まえらウッセーし!!」
サニーが投げたモバイルがトリコの額に命中しても、トリコはひーひー腹を抱えて笑っていた。
数十分前。
小松と談笑していたココは、しきりにサニーを伺った。
10.0の視力は便利だ、と、ココは思う。離れた場所で、見ようによってはふてくされているサニーの表情さえよく見える。だから中々ココが言った通りに電話しようとしないサニーの行動も、よく視えた。
プライドが邪魔をしているのか、さっきからモバイルと睨めっこしていると思えばいきなり、デッキチェアに寝転んだ。
ココのこめかみが、笑顔のままぴくんと動く。
――あいつ……。
諦めたのかそれとも本格的に不貞腐れたのか見ただけでは分からないがそれでも、一時放棄の姿勢を見せるサニーにココは僅かに苛立った。
あれから後も、クラルからの連絡はない。気になって数度鳴らしたが、数回のコール音の後直ぐに留守番センターに繋がった。勿論ココはメッセージを残した。けれど、折り返しが来る気配はない。
クラルはココの性格――心配性な所や、独占欲が強い所――をすっかり熟知している筈なのに、時計の音は響けども着信音コールだけが鳴らない。おかしい……つーか、変だ。小松との会話の合間にドリンクを啜りながら、そしてサニーを伺いながら、ココは思う。
クラルがココの性格を熟知しているのならば勿論ココも、クラルの性格を把握していた。
クラルは、どちらかと言うとマイペースな方だ。
勿論、社会に出てもう数年が経っているのだから状況に応じて動く術を身に付けている。けれど、元々がそうなのか、仕事を離れるや否や忽ち、状況如何ではなく、彼女の中で大切だと思った事が優先される。
けれど、だからこそココがクラルと付き合ってから一番始めに行ったのは、自分を常にクラルが持つヒエラルキーの頂点に置く事だった。
これには慎重に、長い時間をかけた。
勘の良いクラルに気付かれない様に、クラル自身を教育するのは骨が折れたがその甲斐あって、今では普段であれば何に置いてもココとの約束を優先させてくれる様にはなっている。
始めは、逢う約束が友人と重複しよう物なら『先に約束してしまったので……』と、後回しにされてしまっていた事も、今では3回あれば内2回は『調整してみます』と、ココを優先してくれる。(話を聞いてきたトリコには「こえー男だな…」と苦笑されたが、ココは開き直った。それがどうした。その分、ココのヒエラルキーの頂点もクラルなのだからお相子だ。)
それでも、マリアが絡むとなると違ってくる。
マリアが絡むとココは二の次になってしまう。
だって付き合う前からもずっとココに嘘や隠し事をしなかったクラルが、初めてココに対して吐いた嘘が、マリアの尊厳を守る為だったのだから。
だから、クラルがココに中々連絡をして来ない可能性として考えられるのは、彼女と一緒に居る親友、つまりサニーの彼女であるマリアが何かしらをクラルにお願いしているという事だ。
絶賛喧嘩中の二人組のその片割れが、恐らくクラルからココとサニーが今一緒に居るという事を聞いて、連絡しない様に頼み込んでいる。
つまりそれなら、原因となっている二人が元の鞘に収まれば自然と、クラルは解放されるのではないか。
――愚痴に付き合わされているのか、もしくは情に訴えられてモバイルを取り上げられたか分からないが……マリアちゃん、クラルには全く遠慮しないからなあ。
クラルでなくてもマリアは遠慮しないが、ココはクラルと一緒に居る時のマリアとしか交流がない。それを知っているのはサニーだけだ。
ココは、手を突っ込んでいるジャケットのポケットに意識を移した。
掌には自身のモバイルが握られている。
端末はマナーモードに切り替えていた。
お陰でいつかのおやすみ前に、クラルが何処か楽しそうに設定してくれたメロディーコールは鳴らないが、手の中に確りと納めているので僅かなバイブレーションでも気付く事が出来るだろう。
「それで、こーんな大きなゴリラみたいな生き物がですね…!」
わーっと、小松が横で両手を大きく回した。ジャスチャーの後、困ったように小松が笑う。そのタイミングで、ココも同じ様に笑う。
「小松君も大変だね」
「いやー……これでも以前よりは慣れて来たんで」
「確かに成長しているみたいだ。特に、以前よりずっと図太さが増したよね」
「……それ、褒めてませんよね」
「あはは、」
目に見える程落胆を露にした、その切り替えがおかしくてココは声を上げて笑った。が、直ぐにほんの僅かだけ、意識が逸れた。
ポケットの中で、モバイルが震える。
――来た。
手が振動を感じると同時に、閃きの様に、頭が掌が受けた感触の意味を手繰った。今度こそ、勘違いじゃない。ファントムバイブレーションシンドロームじゃない。端末は規則的に、正しく震えている。
「小松君。ちょっとごめんね」
ココはごく自然にそして、焦り等微塵も感じさせない仕草でモバイルを取り出した。
「あ、電話ですか?」
「まあね……」
来た。やっと来た。
表面上では小松の疑問に、すまないね。なんて顔を作って肯定しながらも、気持ちは逸るままだった。けれど、
「………………」
ディスプレイを眼前に晒し、通話を繋げようとしたココの親指はタップ手前で止まった。
「どうかしたんですか?」
「いや……」
煌煌と光りながらも小さく震えるディスプレイ。規則的に身体を揺らす緑色のロボットのその横に映し出された名前は、ココが待ち望んでいる相手の名前では無かった。
『マリアちゃん』
何度、見直してもそうとしか読めないその名前に、ココは少し、サニーに向って殺意を沸かせた。
直接マリアに向けられていないのは、彼女が女性だから。
ついでに、待ち人ではなかったとしても通話を繋いだのは、マリアが一応は知人女性だったからでも、下から見上げて来る小松の視線に耐えかねたからでも無く、ただ、相手が最愛の彼女の親友だったから。
キーをスライドさせたその一瞬だけ、クラルに何かあったのか。と、不吉な想像が頭を過った。直ぐに余計な心配だと内心で否定したが、心は晴れないまま、スピーカーを耳に当てる。
「やあ、マリアちゃん。どうしたんだい?君がかけて来るなんて珍しい、」
『あ、』
けれど、スピーカーの向こう側で相手が小さく息を飲んだ時、ココも、息を飲み込んだ。