コールミー・コールミー-2
あの日のキスは甘いかどうかと言ったら、それは確かにとても苦かった。
喉に下した感覚は幼い頃に一度だけ飲んでみたシロップのそれだったのに、味蕾が得た情報はいつかについ舐めてしまった粉薬の味わいを思い起こさせてでも、それは今迄で一番、幸せなキスだった。
だから唇が離れて暫く後、大人しくなって行く痛みの感覚に、クラルはココに向かって素直に微笑めた。(思い出せばあの日の自分は額に脂汗を浮かべていたし、親友曰く、髪に血の固まりが付いていたらしいから……凄い醜態だった気がするけれど)心配そうに顔を覗き込んでいたココも、そんなクラルを認めると僅かに、安堵の顔を覗かせた。
ただココは、まだ切なそうに、辛そうに、眉を顰めていたけれど。それでも温かい腕の中に抱いていてくれた。
あの薄暗い病室の、ひんやりとした中で。
『君は、馬鹿だ……』
呟いた声も顔も、ココは今にも泣きそうだったけれど。
耐えきれない痛みに崩れ落ちたクラルを抱いて支えてくれた、懐抱を与えてくれた腕に力を込めて、そっと胸に抱えてくれた。
クラルは胸に負った裂傷がそれでもまだ微かに痛くてじくじくした。でも、だからこそ、愛する人の慣れ親しんだ体温や匂いが何より愛しくて。ココに縋り付きココの首元に額を擦り付ける様に甘えた。ココの名前を呟く唇と声に多幸感を噛み締めたまま、馬鹿だ、…馬鹿だ。君は、僕は…と、呟き続けるココの代わりに、静かに泣いた。
そう。私は貴方が思っていた程賢い子じゃ無いの。馬鹿なの、だから他の誰でもない、ココさんの傍に、ずっと居させて。『ずっと、ココさんだけの私でいさせて……』
もしかしたらあの時、ココも泣いていたのかもしれない。とクラルは思う。
優しく、けれど強く抱き寄せたクラルの肩に額を寄せたまま決して顔を見せたがらないココを尊重して、覗き込む事はしなかったし、何よりもう一度ココに抱き締めて貰えて、再び与えてくれたキスの堪らない幸福感に、ココとまた一緒に居られる未来の喜びに、自分も、微笑っていながらも顔をくしゃけて泣いていたから。
でも、肩に時折染み渡る、冷たい潤いは、今も思い出せる位に愛しかった。
思い出すとどうしようも無くなる。辛かったあの時間より、その後に訪れた多幸の日々が鮮明に浮かび、会いたくなる。
会いたい気持ちが膨らんで、離れたく無いと思った時に、男と女は結婚を考える。と、書いてあった本は何だったか。言ったのは誰だったか。クラルは上手く思い出せなかった。
思い出せない事はいつも酷い焦燥感を招くのに、今はそんな事どうでも良かった。
それよりも会いたい気持ちはお互いに確認し合っているのに現実には思う様に会えないこのもどかしさに、胸が焼ける。息が苦しくて、身の内が痛い。退勤スキャンにIDをスキャンニングさせた後だというのに、勤務表が書かれたボードに向かって、溜息を吐いてしまう。
あの電話から一週間。一回だけ休みを挟んだけれど、運悪く会う事は出来なかった。
切ない。もう、かれこれ一ヶ月会っていない気がして来た。ちょっと前迄一日ずっと一緒に居たのにと思うと、クラルはやりきれない。かなり切ない。
だって今クラルは、もう一度ココに恋をしているも同然だから。すっごく会いたい。
「すっごい溜息なんですけど」
「きゃ!」
真後ろから声をかけられ、思いっきり背中が跳ねた。つい、勢い良く振り返る。
「リ、リンちゃん!」
「やっほークラル。お疲れだしー!」
眼と鼻の距離だった場所からいつの間にか一歩引いて快活に手を挙げたのは、この場所でクラルと一番仲の良いリンだった。いつもの赤い生地に緑のパイピングが付いた良く見かける服に、今日は白衣を身に着けている。
「あーんま溜息つくと幸せ逃げってちゃうよー?」
そして、テンションが異様に高かった。て、そんなの見えないけど。と、自分で言った言葉に自分で笑い出す。
何か良い事でもあったのか。最高潮だ。でもにししと笑って冗談を飛ばして来る彼女には、呆れより先に口元が緩んできてしまう。
「お生憎様です。今出したのは陰鬱な気持ちだけですから。まだ幸せゲージは満タンですよ」
だからちょっと、調子が戻って来た気もする。わざと芝居がかった口調で冗談だって飛ばしてみる。ココと会えないのはとても寂しいし、切ないけれどでも、リンが居る。
リンは名前の通り快活で明るい子だ。
療養期間を終えてココの家から戻って来たクラルをいの一番に出迎えてくれたのも、待ってたしー!と、クラル居なくてちょーさみしかったしー!と、抱きついて、一緒に来てくれたココを苦笑させる程の熱烈歓迎で出迎えてくれた。
そう思うと、それはそれで、楽しい日常だ。
「ふーん」
不意に、意味深な音を混ぜてリンがニヤリと笑った。
てっきり、さっきの言葉に、はいはい。ごちそーさまだし。と、いつも見たく返されると思っていたのに。目の前のリンはどこかそわそわと、そう、悪戯な笑みを浮かべてクラルを覗き込んでいる。
「リンちゃん…?」
「今から、そのゲージ振り切ってあげるし」
にやにやにや。にやつき続けるリンに、何のゲージ?と一瞬首を傾げたけれど直ぐに今さっき自分が口に出した言葉だと合点した。
でも、振り切る…?そこにクラルは首をまた傾げる。リンはんふふーと、体を揺らしている。
「リンちゃん。もう、なあに?」
良く分からないが勿体ぶられているのだけは良く分かった。それなら、クラルはリンをつつく。
リンは暫く、ふふーん。とか、何だとおもうしー?とか言っていたけれどクラルが、もう。とか、何ですか?とせっつくとこれまた態とらしく手招きして、クラルに耳に手を当て、言った。
「今ハゲんとこに、ココ来てるしー」
教えられた事実に一瞬、思考が追いつかなかった。
「……うそ」
「ほーんと」
「それ、ココさん?本当に?」
「だからホントだって言ってるしー」
「似た別人では?」
「ウチがココ見間違えるわけねーし。ってか、ココくらいの身長の奴、そうそう居ねーし!」
確かに。
「それも、そうですね……」
そう説明させると言葉が信憑性を持ち始めて来た。それに、リンはクラルにこんな嘘は吐かない。と、なると、。
うそ。口の中でクラルはもう一度呟いた。
嘘。だって、だって……。
「でも私、何も聞いてません」
「そりゃそーだし。今日いきなりハゲが緊急だっつって、呼び出してたんだし」
アポ無しの招集。その言葉がぽんと浮かんだ。思わずココに同情する。きっと占い師の仕事を休んだと思う。休んでそして、
「それじゃあココさん今、所長室にいらっしゃるの?」
「だからそう言ったしー」
やっとクラルの中で状況が飲み込めて来た。
どう言う経緯か分からないけれどココが居る。この、同じ場所に。ココさんがいる。ココさんが…。納得したら次は、そわそわとしてきた。ハゲこと、所長のマンサムがココを呼び出した理由は何か分からないし、ココからそれらしい連絡は無かったからもしかした用事が用事で、会える程ではないのかもしれない。そう、完全に仕事なのだとしたらこんな浮つきは失礼だろう。幾ら恋人と言っても公私混合は頂けない。クラルは忙しない胸に手を当てた。思ったより早く脈打っていてそれは凄く忙しない。
一瞬、治った筈の傷が痛みを思い出してつきんとしたけれど、深呼吸で抑えた。落ち着いて、クラル。落ち着くの。ココさんはお仕事よ。お仕事で来たの。だから……。クラルは自身に言い聞かす。
浮ついては駄目。駄目よ、クラル。
「クラルー?」
「……リンちゃん、あのね、」
クラルはそっと、リンに向き直った。
「今、ココさんに連絡しても大丈夫かしら…?」
「連絡?どーだろ。…メールなら、」
「もしかしてまだ所長とお話中でした?やっぱりお忙しいの?私、邪魔しない方が……でも、それより今日実験で、白衣は汚れて…、会えるとしたら着替える時間はあるかしら?直ぐ帰ったりしませんよね?こんな薬品まみれの格好は仮にお会いできたとしても…!リンちゃんどうしましょう!」
「……寧ろうち、今のクラルをココにちょー見せてやりたいってゆーか…取り敢えず、落ち着けし」
でも人間。駄目だと思えば思う程、自分の欲求を抑えきれないものなのだ。
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