ラララ | ナノ

ラララ


 その嘲笑が只の強がりだったとココが気付くのに、時間は必要無かった。


 ココはベッドで眠れなくなった。
 シーツに潜りマットレスに体を沈めると、その隙間によいしょと入り込んで来るクラルの記憶を見た。ココのベッドは既製品だが大きいのでクラルはいつも四つん這い、或は膝立ちのすり足でココの近く迄やって来る。お邪魔します。と、照れ臭そうに頬を染めて笑って、ココが腕を投げ出すと腕と顔を交互に見た後、おずおずと頭を預けて来る。


『なんだか、照れますね』


 そう言ってシーツから顔を覗かせて笑うクラルを、ココはくるんと抱き寄せてくすくす笑う唇に習慣のキスをする所で、


『……ココさん、』


 飛び起きた。
 寝汗で全身を濡らして飛び起きたココの耳に歪な声、そして目蓋の裏には心根を射抜く様に真っ直ぐココを見つめる、クラルの姿が宿る。


『また、私を殺めるおつもりですか?』


 そんな事を現実のクラルはココに言った事は無い。

 IGO寮施設で唯一寮生でなくても入れるイーストエリアのパーソナルブースで、成人男性には似つかわしくない感情任せのキスで、クラルに対して初めて害を与える毒人間と成ってしまったあの時でも、クラルはココに対して非難も激昂もしなかった。そもそもクラルは生きている。死んでない。しかし、馬鹿げていると、一笑に伏せない。
 ココには幻想でも充分だった。

 ソファで寝付いてやっと、すまない。と、幻想に向かって呟く回数が減った。 


 ココはダイニングで食事を摂れなくなった。
 パンを齧りつつ新聞を開いて眺める、珈琲をお供に仕事の帳簿を付ける、一杯の紅茶や茶菓子と共に本を読む、その向こうに時折、クラルの姿を見た。
 それは朝、ココがクラルの為に揃えた大振りのマグカップで何かを飲んでいた。それは昼下がり、頭を少し傾けて(聞こえないハミングが聞こえた気がココにはした)何かを繕っていた(きっと、刺繍だ。と、ココは後に思考した。クラルは手が空くと、ハンカチやタオル、ガーゼに、COCOと刺繍してくれた)それは床に着く前、頬杖を突いて幸せそうにココを眺めていた。何?と聞けば今にも、何でもありません。と、返って来ても不思議は無かった。 
 けれどそれは全て、ココが顔を上げると消えた。
 ココはダイニングを捨てここでもソファの上でしか食事を摂らなくなった。


 まるで亡霊だ。クラルの、亡霊がいる。そう思ったのにでも、ココにそれから逃れる術は無かった。ソファに居ても、自室にこもってもココの視界にはクラルの存在が過った。
 ココとクラルが親しくなって成って約2年。関係を築いてこの家に頻繁に招く様になって、約1年。ココがクラルを捨てきれないのに、クラルに馴染み始めた家が、クラルを消そう筈が無い。

 それを、少しづつココは受け入れ始めた。

 心の奥には、安堵があった。
 キッチンに立つ自分の後ろ、振り返ればもしかしたら彼女が居る、気配がする。それか、今は、キッスの食事を運んでそのまま、一人と一羽で内緒話をしているのかもしれない。何処からとも無く、朗らかな笑いが聞こえてきそうだ。くすくすくす。シンクの上棚に置いたバスケットに納まるグレープフルーツの類い。一つ手に取ってクラルは硬い皮を剥く。何を作るんだい?尋ねれば亡霊は答える。『内緒です』或は、『デザートを。実は、お砂糖に漬けて皮は…』マーマレード?先読みするとクラルは笑う。ご明察です。スコーンに練り込もうかと。苦手ですか?いいや、好きだよ。うん……好きだよ。それはいつかのダイアローグ。好き、と言う言葉に微笑みながら、……どちらが?と低語ではにかんだクラルはシンクと、フルーツナイフの記憶。現実は、ココの横にクラルは居ない。籠の中にはそもそも、グレープフルーツなんて無い。
 ココの眼は、見え過ぎる。




 自分は正気なのか、狂気に足を突っ込み始めているのか、ココ自身でも分からなかった。分かっているのは、このクラルは決して自分に傷付いたり、まして死ぬ事は無いと言う事実だけ。

 ココは、店を開けれなくなった。
 対面する客の中にクラルを探してつい、不必要に観察し始めてしまったから。ああ、この子は違う。そう思う度にそして、占い街の列の中に似た女性を見つけるとまさか僕を追い掛けて来たのかと胸を鳴らして味わう絶望に、辟易とした。馬鹿者が、と吐き捨てる疲労が皮膚の内側に籠り始めた。
 キッスはIGOへ飛ぶ様に命じなくなった事は愚か、一度二度職場へと向かわせたきり、邸宅に籠ったココを訝しんだ。


 ――別れを切り出したのは自分のくせに。何だこの様は。


 やがて自身に対して憤りを始める。でも、良いじゃないか。夢を見る位。諦め笑う自分が言う。そして、それに、と自分は続ける。――それにお前は"考えてくれと"言い捨てたじゃないか。お前だって諦めきれてないんだ。仕方ない。その答えをお前は未だ、貰ってない。

 しかしそれは本能からの回避だと気付けないココじゃない。もし、決定打を打たれたら、今、ココの目の端でスコーン生地を練るクラルはきっと消えてしまう。顔を上げない限り、存在し続ける彼女が、消える。このままで良い。ソファの上でココは静かに眼を閉じた。一瞬息を止めたその呼吸の裏に、懐かしいクラルの、甘い皮肌膚の香りがした。下半身に向かって手を伸ばす。


 翌日。ココは洗面台の前に立っていい加減伸びた髭を落とした。シェービングソープを流水で洗い流す体を屈めるその横には欠伸をかみ殺して歯を磨くクラルの記憶がある。記憶は最早亡霊として定着されていた。眠そうなのはそれが、ココが離さなかった明くる日の亡霊だから。タオルを手探りで探すココにうつらうつらと声は言う。『はい、ココさん』指先がタオル地に触れた。ココは無意識に言う


「ありがとう」


 しかしそれは、顔を洗う前にココが自らそこに置いた物だった。鏡の中にはココしか居ない。けれど、ココの横には、クラルの存在がある。

 狂いはじめている。正気が訴える。キッスも不審に思っている。でも、ココは説き伏せる。


 このままで良い。


 意識を向けると消える存在が正しくはクラルじゃ無い事位分かっている。だって存在には触れる事は出来ないからね。でも、それに僅かでも縋る位、良いだろう。

 ココは眼を瞑る。その目蓋に、苦しそうに顔を歪めて呼吸を求めるクラルの姿も、私を殺さないで。と訴える妄想体も薄くなっていた。だってクラルの実体は、生きている。ココとは別の場所で、ココと離れた事できっと生き続ける。ココ自身クラルを傍に置かなくとも生きている様に、クラルもきっと、ココが傍に居なくても生きるだろう。ココが傍に居続ける未来よりずっと長く。
 だから君は、僕が居なくても大丈夫だろ?そっと心で問い掛ける。それに、亡霊が悲しそうに口を尖らせて見せたから、ココはくくっと笑った。

 亡霊は今日、白桃のコンポートを作りたいと冷蔵庫を開いたココの後ろで言った。いつかココが連れて行ったフレンチレストランのデザート、チップスにされた桃の皮がアイスと一緒に添えられていた。クラルはそれを、特に仄かに甘く口当たりの軽いチップスを凄く気に入っていた。

 今度作ってあげるよ。そう言ってクラルを期待させたのにまだ、その今度を僕は迎えていない。冷蔵庫からスグリのジャムを取り出して、ココは気付いた。
 亡霊は一瞬、姿を消した。だがトーストを取り出す時には、ソファの左の場所に居た。



 だから。

 だからココは、受けた電話の向こうで嗚咽を漏らすリンの言葉が信じられなかった。今、あの子はなんて言ったんだ?そっと名前を聞き返す。


「リン、ちゃん?」


嗚咽が弾かれた様になる。ひっく。しゃくり上げる。リンは繰り返す、ごめん。ごめんなさい、ココ……、


「クラルが、ウチ、間に合わなくて……血、めっちゃ、出て、声かけても、クラル……うごかな、」


 冷水より氷水だ。アイスヘルに張った氷の下に有る、冷たい水を勢い良く浴びせかけられた。そんな気分だ。嗚咽混じりにリンは、もう一度言う。


「死ん、じゃう……クラルが、死んじゃう」



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