ハンド・トゥ・ハンド-3
ひとりになってクラルは、そっと左手に目を落とした。小指にはさっき右手が触れた指輪と、対の指輪が光っている。
外は発達した積乱雲の影響かさっきから金網のフェンスの向こうは雨が降っていた。きっとココの足音は雨音に隠されて、本当に何事も無くクラルの部屋へ着くだろう。クラルが耳を澄ましてみてももう、雨風の気配しかしない。
――非常扉を開ける前に、部屋に行って、タオルを持って来ましょう。
暫く眺めて居た指輪に唇をくつけてやがて、クラルはココの鞄の紐を丁度良い長さに成るよう結んでから肩に掛けた。
直ぐ隣のドアからエレベーターへと向かった。
ココと居るとクラルは、外因的にも内因的にも、信じられない事ばかり経験している気がする。
私ってこんな事をする、或いは許せる人間だったのかしら。とか、何度頭を過らせたか知らない。
そもそもココと付き合う前のクラルからしたら今のクラルはもっと想像つかない事だらけだ。
先ず、親しくはあったけれど(片恋を患っていたけれど)ココの彼女になれるだなんて思っていなかった。正直、女性扱いはされていても本人から女として見られていた事自体が未だに、クラルには信じられない。ココは一切その素振りを見せなかったから、青天の霹靂だった。
次に男女の深い関係、唇や体を頻繁に重ねる関係へ発展するとも思っていなかった。もしかしたら君に、不自由を強いるかもしれない。と言って居たのは他ならないココ自身だった。
何より、こんな風に。
こんな風にココを男性の立ち入りが禁止されている女性寮に、断り難い事情を話されたとしても、結局は所長にもリンにも相談する事無く、思いを現実にするチャンスだとココの提案を溜飲し連れてきてしまった事も、幾ら退勤したと言っても会社の施設内で情事に雪崩れ込んでしまった事も、何より、数ヶ月前のあの日。
あの日。ココに、追い縋ってしまった事も。
クラルには信じられない事ばかりだ。
クラルはぼんやりと上部のパネルを見ていた。誰かが使っているのかエレベーターは中々降りてこない。
ひとりっきり。雨音さえ聞こえてきそうに静かで、そして無機質に冷えた空間で一人きりで居ると、クラルは、忽ちに心細くなる。
あの、密室で起きた衝突。
ココが産み出した劇物でクラルを傷付ける事は、お互いにずっと恐れていた事だった。
『僕等はもう、別れた方が良い』
クラルが大切だと、掛け替えの無い存在だと意識し始めたその時から――ココはクラルを傷付けてさよなら等したく無いから、クラルはココで傷付いてココにさよならを言われたく無いから――最もお互いが慎重に回避していた事。それが、ココにとって最も最悪の形で現実になった(感情任せのキスで、クラルを殺しかけた)のだから、ココがそう、切り出したその言葉の選択も行動も正しい。正しかったと、今でも思う。
なのにクラルは反射的に、嫌です。と口走ってそして結局、ココに、追い縋った。
自分の事ながら良く、あんな大それた事が出来たと、クラルは思う。
結果としてあれが好転への好機になるなんて、クラルだけでなくココもきっと想像すら出来なかっただろう。
――でもあれは本当に、最良だったのかしら。
クラルは静かに思う。ココにすれば迷惑なだけだったのではないだろうか。ただ、女のエゴイズムをココの優しさに漬け込んで、押し付けただけに過ぎないのではないだろうか。
だって今は、クラルの方がココに惚れている。と、断言出来る。
「…………」
ココの鞄を掛け直して、クラルは、考えすぎです。と、嘲笑を漏らした。
確かに、ココは優しい。でも同時にココは相手を諌める優しさも持っている。迷惑なら迷惑だ、と。はっきり伝えてくれるだろう。
エレベーターが到着した。
左右に扉が開きクラルはその中に一歩足を踏み入れる手前で思わず、目を見張った。
中に、先客が居た。しかも、
「、リンちゃん……」
「あれ。クラルー」
壁に凭れていたリンが、にへらと笑った。
勿論誰かしらと、もしかしたら会うかもしれない。と、思っていたけれどまさか、と呟ける人物との出会いにクラルは一瞬動揺する。やっぱりココさんのご判断は正しかったわ。と、息を飲んだ。
今帰りだし?と聞かれれば、はい。と答えて箱に乗り込むけれど、その心臓は五月蝿い位に忙しない。
53階のボタンを押す。その指でこっそり、胸の前で十字を切る。心の中で何度も繰り返す。良かった。良かった…ココさんと鉢合わせに成らなくて。一度跳ね上がった心臓が落ち着くように、クラルはそっと息を吐く。
「ところでクラル」
動き出したエレベーターの中でふいに、リンが笑いながらクラルの肩をつついた。クラルは思わず、ひゃっ!と声を出して振り返る。
もしかして、見られてた?と咄嗟に振り返り、何ですか?と聞き返せば目をぱちくりさせたリンが、
「いや…会えたかなーって」
「あ。はい。…会えました」
クラルは聞き返す事も無く答えた。誰を指してかは、言われなくても明白だ。
人心地つけて呟いた、会えました。は今にも歌い出しそうなくらいに軽やかで、明るい。リンはわざと呆れた態度を見せてそれから、唇を噛んだ。
「あーあ、クラルが羨ましーし。うちもトリコに会いたいしー!つーか付き合いたい!トリコー!」
お腹の底からの叫びに今度はクラルが笑った。
一瞬、どうして2階なんかから乗ったのかと追及されると思って焦ったのに、リンはそんな事気に留めないらしい。只管クラルを羨ましいと言って、クラルの笑いを誘いそして、
「つーかさ、」
やおら、ぽつん。とリンが呟いた。何?とクラルが聞き返せばにっと笑って、
「今日はお泊まりじゃないし?」
"お泊まり"その単語に表情と頭が一瞬固まった。
でも、クラルは瞬間で頭を解凍させる。お泊まり、はそう、ココさんが私の部屋、ではなく、私がココさんのお部屋に、という事よ。そうよクラル、きっとそう。それじゃあこの場合の答えは、はい。だわ。あ、でも…もしこの流れでリンちゃんが私の部屋に突撃なさったらどうしましょう…。
その発想は充分に有り得る事だった。
現にココと予定が合わなかった休日の殆どはクラルは、リンと過ごしている。前日からクラルかリンの部屋に泊まって、朝のヘリで街で向かうプランで良く、一緒にいる。
「クラル…?」
いつ迄たってもクラルは困った様子のまま答えないから、リンは訝しんだ。どうしたんだし、と眉をひそめてやがてふと、ある考えに辿り着く。
「もしかして…」
そう前置けばクラルはちょっと驚いた様子で肩を跳ね、目だけてリンの言葉を促す。
「クラルまさか…」
「な、なあに?」
「ココ、連れ込んだし?」
にやりとしたリンの鋭い言葉にクラルは
「な、なにを仰るの!」
叫んだ。
「だってそれ、ココの鞄…」
「こ、これは本をお借りしたんです!よりもあ、有り得ません!私も、ココさんもそんな規則破り、…ええ。不埒な事はしません!」
思いっきり上擦った声で思いっきり叫んだ。そして、自分で自分の言葉にダメージを受けた。してるわ、規則破り。そして、不埒な事……。
思わず、ココの鞄の紐を握る。
「不埒って…もー。冗談だし。そんなムキにならなくてもいいじゃーん」
「い、言って良い事と、悪い事が、あります」
「まあ、確かに……ココの方が女性寮に入るの萎縮しそうだし。つーかクラルの部屋?一人暮らしの女性の部屋には入れないよ。とか超言いそうだしー」
確かに、以前ははそんな事言っていましたが今は寧ろ、来る事にノリノリでしたよ。あの人。と言うか以前から部屋に興味を持っていましたよ。あの方。と、クラルは言いたいけれど言えない。心臓が動揺し過ぎて痛い。
「そう、ですよ……」
リンの中では未だに、ココは完璧な紳士なのが、クラルにはちょっと居たたまれなかった。でも、少し、ココの昔なじみのリンでさえ知らない彼の一面を知っている事には、誇らしさを感じてしまう。
私しか知らない、ココさん。そう思うと何故か、恋を自覚したように胸が鳴る。
「……でも、」
ほんの少しの沈黙を置いてやにわに、リンが呟いた。
「クラルもココも、一時はどーなるかと思ったけれど……幸せそうで良かったし」
そう言ったリンも、幸せそうに笑う。クラルは、
「リンちゃん……?」
「ウチさ、ココもそうだけど何だろ…クラルにも幸せになって欲しんだよね。つーか、幸せそうな二人を見てたいってゆーか……ほら、ウチから見てもココはクラルにベタ惚れだし」
「ベタ惚れですか…?」
聞き返すとリンが、「無自覚とか…ねーし」非難の目を向ける。
「誰が見たって分かるし。さっきだってココ、ハゲの話切り上げた後なんつったと思う?ところで今日クラルはもう上がりですよね?だって」
「どうして…?」
「どうしてって、そんなん会う為しかないし。しかもハゲに、明日休日出勤の予定も無いか確認だってしてたし」
思わず、嘘。と呟く。
「嘘なわけねーし。だってココ、ウチに何て言ったと思うし?」
「何て、仰ったの?」
「……今日と明日は、クラルを返して貰うから邪魔しないでくれよ…って」
不意に、いつもいつも見慣れて押し慣れているそのナンバーが今日だけ自棄に色鮮やかに見え始めた。想像したら、顔が火照るくらいに恥ずかしいのにでも、それ以上に嬉しい。
「リンちゃん…どうしましょう」
「何?」
ボタンを光らせるオレンジや銀のプレートもキラキラとしている。
「私いま、凄く幸せ」
「はいはい、ごちそーさまだし」
クラルは、微笑った。
もーマジクラルラブラブ!羨ましすぎだしー!と、またトリコの名前の連呼し始めるリンに、本当にリンちゃんはトリコさんが大好きですね。なんて言って、私がココさんを想うのととってもそっくり。なんて思って、だってウチ、トリコ一筋だしー!つーかー。トリコ以上の人は居ないって言うかー。には、いらっしゃいますよ。ココさんが。と言って、
「えー」
「えーって何ですか」
「だってウチ、ココはタイプじゃないしー。いまいちワイルドさが足りなくない?」
「失礼ですね。充分ワイルドですよ。確かにクールで、お優しい所が目に付きやすいですが、中身は本当はとっても強引で、男らしくて、努力家で……会う度に、惹かれてしまいます」
「クラル……それ今度、ココに伝えとくし」
「や、やめて!」
「つーか今連絡してやるし〜」
「リンちゃん!」
なんて言い合いながらも次第に笑い合うその、胸がくすぐったくなる陽気さにやがて、全身が浸されてクラルは、エレベーターを降りた後、左小指に収まる指輪をそっと、右手で包み込んだ。そして、気付く。
あの日。の過去も、あの日から。の変化も不思議と、今はどうでも良くなっている。幸せ。そう、今はただ、凄く凄く、クラルは幸せだ。
秘密の共有。も、こんな思いで産まれるドキドキなら、悪く無い。
だから早く、ココさんを迎えに行きましょう。そして部屋に着いたら、こう言うの。
――ちょっと、紅茶でも飲みませんか?とびきりの茶葉があるのです。
自分だけが知っている計画にクラルは表情を弛める。部屋のドアを開ける。その時、クラルのモバイルがココからのメールを受信した。着いたよ。との一言に、早すぎると驚いたけどでも、クラルは流石ココさんだわと笑みを深めてしまう。そして、ふふふ。と、声を溢して笑った。
奥の非常扉を開けたら、クラルの部屋でココと過ごす初めての休日が始まる。
クラルの世界はだから今、ラララと歌を口ずさみたい程に、幸福だった。
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