ラララ | ナノ

ハンド・トゥ・ハンド-2


 でも思い返せば確かにクラルはココが目を塞いで来る迄、彼に気付かなかった。存在は愚か、近付いて来る足音も。観葉植物のささめきは、空調のせいだとさえ思っていた。風など、吹いていなかったのに。
 何より施設内からエントランスへ入るに道はずっと見ていた。つまりココが言っている事が本当なら、信じたくないけれど、クラルは恋人の足音のひとつも認識出来なかったと言うこと。

 彼女なのに。





「ね?バレないもんだろ?」


 重たい非常ドアを後ろ手に閉めた途端にココはそう言って、喉を震わせて笑った。
 クラルは急に明瞭となったココの存在感に一瞬、まるでフリーフォールから落ちる時に感じるざわ、とした感覚と似たものを腹の奥に認めてでも同時に、深く安堵した。
 後ろから包み込むように嬉々として抱き締めて来た彼の胸に重心を預ける。額に手を当てて、身体の内側で張りつめていた緊張を僅かに解す、つもりが、ココの心地好い体温や逞しい匂いにごつごつとした感触にすっかり肩から力が抜けた。


「……信じられません」


 思いのままに呟いた。
 それは自分に対して、また、ココに対して。

 二つの意味を含んでしまった言葉にでも、それに気付かずココはまた、忍び笑う。


「強情だね。もう僕は此処迄来ているのに」


 クラルは、しかし反論出来なかった。未だ部屋に着いていないにしろココの言うように、無理だと思っていた女性寮にココが入ってしまった今はもう、確かに現状だけは信じる他無い。
 もうひとつの信じられない。は、今更。と言う思いにプラス、きつく密着した背中から伝わるココの、今にも爆発しそうな早さと力強さを持った鼓動に動揺の全てを持っていかれて、有耶無耶になる。

 蛍光灯の白い光に照らされた非常階段の中。クラルはちらりとココに目を向けた。目が合うとココは照れ臭そうに微笑んで、なんてね。と言って、


「僕も、トントン拍子に事が進んで…驚いてる」


 クラルを囲う腕の力を更にきつくする。


「まさかこんなに上手く行くなんてなあ」


 そうして旋毛辺りに鼻先を埋めて、あと少しだね。と囁いた。
 クラルは、そうですね。と、ココと同じ様にでも眉を下げた困り顔で微笑む。


 規則を、二人で犯している。

 そんな共通点が、二人の痛いくらいの緊張感や罪悪感を甘い共感意識へと変えてしまう。
 悪戯の成功を喜び合う子供の様に、声を潜めて少し、笑い合う。

「でも、やっぱり信じられません」


 クラルは体の前に回されたココの腕を抱えるように抱いた。

「まだそんな事を言うのかい?」
「だって……」


 そこに鼻先を擦り寄せて少しの間、体の感覚全てで男に、ココに寄り添う。


「あまりにも、上手くいきすぎです」


 クラルは信じらなかった。何の弊害もなく事が運ばれている事。そしてまさか自分が、こんな、禁止されている場所に男を手引きするようになるなんて。
 呟きに、ココは声を潜めて笑う。


 食堂からここ迄の道すがら、クラルはココの先頭に立って多くの人と擦れ違い、そして挨拶や時に雑談を交わしたのにその誰も、クラルの数歩後ろを着いて来る、ココの存在に気付かなかった――よりも、誰もココを、認識しなかった。

 気付いてはいたと思う。
 擦れ違う知人達はクラルに話し掛ける一瞬、クラルの後ろに視線を寄越したから。でも、本当に不思議なのが、気付いているだろうに、誰もココを認識をしない。まるで今のは見間違え、或いはいつもの単調な風景を見たとでも言うように、誰の意識にも残って居ないようだった。

 お陰で、亡霊と歩いている様な感覚だった。

 気付かれそうに成った時と言えば女性寮の入り口、管理人が駐在しているカウンター前を通った時だけかもしれない。
 それだってクラルが余りにも背後を気にしてしまったから顔なじみの管理人に、どうしたの?何か有ったの?と、引き止められてしまって、いえ、今こっそり彼を連れているんです。なんて当然言えないからクラルがしどろもどろなってしまったその時。相手に訝しがられてでも、ココは防犯カメラにも映らない程の俊敏さで気付いたらエレベーターホールの角、非常階段へ続く扉の真横に移動していたから結果は、やはり気付かれなかった。
 そして何とか理由を付けて管理人から逃げ出したクラルと、ホール奥にある非常階段へと入り込んだココは、ほらね。と言わんばかりに嬉しそうに、クラルの背中から覆い被さる様に抱き締めている。
 くつくつ笑っている。
 甘い匂いに、目の奥がくらくらとした。


「でも、完璧に想定通りだ」


 ココは自信をそのまま声にした。確かに今、提案したその通りに成っているから自信を抱くに充分だろう。
 ココが何処迄見通しているのかクラルには見当もつかないけれどきっともし、第三者に見つかっていたとしても、ココは平然としていただろう。経過の不利なんて物には左右されず、静かに策を練り直してポーカーフェイスで、確実にチェックを打って来るのがココだ。それも、何度かクラルは経験している。実際息抜きで始めるチェスは決まっていつもココに軍配が上がる。悔しいけれど、クラルが仕掛けたツークツワンク(終盤で相手がパスしたい一手しか指せなくする戦略)さえ取り込んでしまう知的展開にクラルは尊敬している。

 でも今は尊敬より先に、自分だってそれに騙されていた悔しさが勝るから、言わないけれど。
 クラルは、ココを見上げた。


「……とりあえず、部屋に向かいませんか…?」


 ああ。と、言ったのに顔を近付けて来たココの唇を手で制して、それは部屋に着いてからです。とクラルは、苦笑するココの腕から抜け出した。




 IGOの誰も気付かなかった。(ココ曰く、リンちゃんが出て来たら万事休すだった。らしいけれど)職員は勿論、ココとずっと一緒に居て、一番に今のココを理解していると思える、クラルでさえ。

 だってクラルがココを認識出来たのはココの消命の瞬間から居たからだ。注意深くしなければ見落としそうに成る存在の薄さには、一瞬、心底ココさんが善人で良かったと思えた。心根の悪い人が修得したらと考えるとちょっと怖い。
 でも傍に居るはずなのに居るのかどうか分からない、いつもの様に存在を感じられない状況はクラルを不安にさせた。周囲に切っ掛けを与えない様に言われていたのについつい、背後を確認していた。その度にココは苦笑して、クラルに手を振った。

 クラルは、ココと二階の踊り場へ向かうステップの途中で、ココの手と繋ぎ合う手に意識を向けた。親指の付け根に触れるココの小指に収まっている指輪の硬さを感じれば、クラルの胸は自然と詰まる。指輪を嵌めている。ココさんも、私と同じ様に。沸き上がる感情のまま、きゅうと、手に力を込める。

 ――彼は、誰にも気付かれなかった。でも、彼はちゃんと、此処に居る。

 気付いて振り返ったココにいつもの様に「どうした?」微笑えまれれば、「…何でもありません」クラルはココにつられる様に、笑顔を見せた。





「それじゃあ僕はこのまま、非常階段から行くから」


 辿り着いた2階の踊り場で、ココはそっとクラルの頬を撫でた。
 此処からは部屋迄別行動だ。クラルはいつもの様にエレベーターを使い、ココはクラルの部屋が入っているフロア迄、階段を使う。
 何事もなければこのまま、本当にトントン拍子に、ココは部屋へやって来る。


「クラルの部屋は53階だったよね?」
「はい…」


 2と数字がペイントされたドアの前で、クラルはそっと頷いた。繋ぎ合う手をどちらかともなく、一度、握り合ってそれから、離す。


「…本当に、階段で向かわれるおつもりですか?」


 心配そうに見上げてくる彼女にココは、困った様にでも、自信あり気の態度で笑顔で頷く。


「ああ。エレベーターは確かに便利だが、見つかる危険性が高いからね」そして続けた「大丈夫。53階へ上るくらい。僕にはどうって事ないよ」


 この時、クラルは否が応でもココはやっぱり一般人じゃない。と、感じるしかなくなる。
 きっと体質を実感した時より比較が身近で、分かり易いからだろう。だって今迄クラルの周囲には、幾らココ程屈強な男性でも53階もの高層を、いくら階段が有るとは言えどうって事はない。と照れくさそうに断言出来る人は居なかった。勿論あそこ迄自分の気配を消してしまえる人も。
 この人は特別。クラルは思う。それならそんな、特別な人の特別の場所に納まっている私は一体何なのかしら。
 いけない事をいけないと知りつつも遂行してしまう。この方なら何をしあっても大丈夫。と、思えてしまうそんな、彼の中に居る自分は。


「……ココさん」
「ん?」
「せめて、お荷物だけは持って行きます」
「いや、しかし、」
「持たせてください」


 クラルは鞄の紐に手を伸ばしてじっと、ココを見る。


「……分かった」


 それじゃあ頼むね。と、ありがとう。と言って笑顔を見せるココにクラルはでも、これだけしか出来ませんから。と言った自分の言葉に少し、傷付いた。

 これだけしか出来ない。そう、たったこれだけしか出来ない私は本当に、彼に相応しいのかしら。


「それじゃあ後で。…直ぐ向かうから」


 未だ心臓の鼓動と緊張とで落ち着かないクラルの額にキスをしてココは一歩引いた。はい。お待ちしています。と、頷きながら笑まいてでも、何処か陰りを持つクラルの表情には少し、後ろ髪が引かれたが、状況的にその場に長居は出来ない。

 ――マジで、早く向かおう。

 何があったかココには分からないが、最愛の彼女から不安のオーラが醸し出されているのを見るのは辛い。
 何よりココはあの日、自分自身に誓った。もう絶対、彼女を傷付ける事はしない。絶対に、何がなんでも。無理はしないと言うくせに無茶だけはする、クラルだから。

 ココは軽くなった身体で足音も立てず、階段を駆け上がった。





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