Twenty eight

 廊下を歩いていた。人払いを済ませた静かで無機質な白い空間。空調コントロールのおかげで常に快適性が保たれているはずなのにどこか寒々しく、足音が一層響き渡る。ゆったりと重い足音と、歩幅の狭い軽い足音。ココとクラルの足音だ。その中に二人を処置室へと案内する研究員の堅い足音が重なる。少し前にノックとともに姿を見せた白衣の人物は準備が整ったことをリンの代わりに知らせに来た。案内しますと告げた背中はそれから振り向く事も、スモールトークをふることもなく二人の前を歩いている。
 おかげでココはクラルだけに気を配れた。とことこと歩くたびに揺れる髪。小さくて薄いからだ。あえて一歩後ろからついていく。視界から外さないために、見失わないために。
 目を逸らさないために。
 足を止めた。処置室まであと少しの距離だったが、ココは構わずに足を止めた。一拍の後に軽い足音も止まって、少女の顔がココを振り返って仰ぐ。

「ココさん?」

 少し遅れて案内役も足を止めて彼らを伺ったのが視界の奥で見えたが、ココは厭わなかった。

「クラルちゃん」
「はい」
「君を、抱き締めても良いかな?」

 突飛な言葉に、クラルの瞳が揺れる。

「え?」

 同時に、ぱっと薄桃を走らせたその頬も、ココにはよく見えた。

「……はい」

 少女は僅かに逡巡した後に、頷いた。そうなることをココはわかっていた。

「おいで」

 だから尋ねて、了解を得た。一度しゃがんでから呼び寄せ、小さな体を腕に収めた。
 肉体の年齢に呼応した高い体温。薄くて小さくて、骨ばっている体。そういえば妻は、入学以前の話をあまりしたがらなかった。ココは思い出し、その理由にまざまざと気づく。今の眼前にある彼女が、妻である彼女の意思と配慮によって語ることを辞めた過去の姿だ。

「小さいね」

 この間は気づかないようにしていた。けれど分かっていた。だから専門職でもないのに腕を奮った。

「私、同年代の方の中でも背が低くて……体重もあまりありませんから。細くて、恥ずかしいです」

 それは、養育者の情を十分に与えられず育った体つきだ。

「僕が知っている君は、同世代の中でも背の高い方だったよ」
「それは成長期が楽しみです」
「そうだね」

 力を込めることなど出来ないほどに頼りない身体。小さくて、脆い。病的と言えてしまう程の細さではないが、美食讃歌、食に溢れたこの時代だ。ともすれば周囲の同情を誘いやすいだろう。

「ココさん」
「ん?」
「ありがとうございます」

 それなのに少女の瞳はココの腕の中で燦然と輝く。

「……それは、僕の台詞だね」

 事実のみを語る瞳。聞き分けの良い子供の心を、ココは誠実な微笑みで受け止める。

「君との生活は、クラルと僕との子供が出来たみたいで楽しかった。ありがとう」
「……」

 それが彼の答えだった。

「……………あの、」

 ふいに小さな手が、ココの肩口を握った。

「お願いが、あります」

 指先にほんの少し、力が篭る。

「なんだい?」
「リンさんにも、ありがとうをお伝え頂けますか? おそらく、会えそうにありませんから。とても感謝していました、と」

 ココに注がれたのは白と濃い瞳のコントラストが美しい瞳だった。丁寧にドリップされたコーヒーが最も良い状態のままそこに留まっているかのような、深い鳶色の瞳。

「ああ、わかった」
「それと、処置室へはひとりで参ります。ココさんはこちらで待っていてください」

 真っ直ぐにココを見上げるそれは、いつものようでいつもとは少し違う、真摯な眼差しだった。

「それは……」
「お願いします」
「……わかったよ」
「あと、」

 やがて少女は、

「おとなになったら、お嫁さんにしてください」

 ココは一拍の後、静かに微笑んだ。
 そして彼女を、しっかりと抱きしめた。

「焦らずゆっくり、大きくなりな」

 気付いていたよ。とは、言わなかった。
 全てを受け入れんとする愛が内包する幼さを、ココはもう識っていた。同情心が持つ真の残酷性も理解していた。

「はい……」

 彼女の声が腕の中にあるのに、馴染み近しい体温が染み込んでくるのに、ぴくりとも動かない心の訳を今なら、理解出来る。認め、受け入れられる。
 時とは経年とともに消費されるものなのに、そこに一体なんの価値があると言うのか。否が応でも積み重なる現実に憧憬を抱いてどうなる。何も無い。見出せない。いまの姿に恋情など抱けない。抱ける訳がない。(可愛いと思う。愛しいと、庇護欲も感じる。この子がクラルなのも知っている。きっと僕はこの子を愛していける。育てていける。でも、この子は、この子だ。僕が愛した人じゃない。年を経たとしてもあのクラルにはならない。当然だ。僕が惹かれ情愛を得たいと欲したのは、)ココが出会う前に形成されたひとりの女性としての人格、姿勢、思想、そのものを彼は深く、深く愛したのだ。
 無償ではなく、無為の愛。それは無辜であるもの。

 姿も思考も異なる存在だと知ってなお、どうして、妻と同じ形で愛せるというのだろうか。

 職員の声が少女を呼んだ。ココは小さなクラルをそっと下ろし、小さなクラルもココから離れた。それじゃあ……行きましょう。と、幼い手は引かれていく。
 クラルはココへ、行ってきます。とも、さようなら。とも言わなかった。ココも、いってらっしゃい。とも、気をつけて。とも言わなかった。
 ただ一度だけ振り返った幼さに手を振って、振り返されて、微笑みには、微笑みを返してそうして、十歳のクラルは白い扉の向こうに行ってしまった。

 備え付けられていたソファに腰を下ろす。ココの目と感覚に、もう二度とあの子とは会えないその予兆だけがより色濃く鮮明に映って、不意に寂寞とした感情が胸中へと吹き込む。
 しかしそれは、春を望みながらも過ぎ行く冬の気配に対して抱く感情に似ていた。
 留まることはない、と。流れて行くものだと、知っていながらも惜しんでしまう無責任な執着。枯れ木の先が見せた蕾の気配に対して抱く蟠り。いつしかずっとそこにあるのではないかと、錯覚していたのだろうか。
 そんな事象は望んでいなかったのに。
 やがて自身の職務を終えたリンが来るまでただ静かに、ココは重く閉じた扉を睨んでいた。



「あれ? ココ、中入んないし?」
「……約束、したからね」
「誰と?」
「あの子と」
「クラル?」
「ああ……。リンちゃんに、お礼言いたがっていたよ。ありがとうって伝えてくださいって、お願いされた」
「えー、もう。なにそれー」

 リンは可笑そうに笑いながら、ココの横に腰を下ろした。嗅ぎ慣れない香りがココの鼻先に届く頃、

「クラル、可愛かったし」
「そうだね」
「変に礼儀正しいのあの頃からだったなんて、びっくりだし」
「それが彼女の、生きる術だったんだよ」

 生い立ちによって産み付けられた劣等感の、拠り所だったんだよ。そう続きかけた言葉をココは、太い喉の奥へと追いやった。これ以上はただの憶測だ。事実では無い。代わりに少し、白状する事にした。

「あの子との生活は、色々と考えさせられた」
「あー。子供、欲しくなったんでしょー」

 リンの明け透けさに、苦笑する。

「それとは別の事だよ」
「え? 何? なに?」
「僕が愛したのは、……クラルただひとりだって、こと」
「そんなん。考えなくても、見てれば分かるし」
「そうかい?」
「まるわかりーだし」
「ははっ、丸わかり……か」

 リンちゃんが想像しているものとは、きっと違うよ。とは、言わなかった。
 秒針が音を紡ぐ。長針が時を刻む。短針は、静かに進む。ココの腕で時を重ね続ける腕時計は、婚約の際にクラルが贈ってくれた美しくも機能性に富んだ一品だ。自動薇はココの手首で飽きる事なく時間を重ね続ける。

「まだかな……」
「……そうだね」
「うち、寝に行くね。朝、クラルに付き添うから。ココはどうするし? ゲストルーム行く?」
「いや。僕は待ってるよ、ここで」

 投薬は慎重に行われて居るだろう。 

「ん……じゃあ、おやすみ」
「ああ。ありがとう、リンちゃん」

 縮小された人体を元に戻すと言えば聞こえは良いが、要は本来十余年はかかる成長を急速に促して居るのだ。脳や内臓の細胞の中で眠っているだろう記録媒体を呼び起こし、身体に”今の容姿は適切ではない”と命令させる。圧縮ファイルの解凍さながらに。人為的に退行させられたクラルの肉体を、薬液で満たされた専用機の中で正しい容へと整えていく。体は確実に元へと戻るだろうと言ったのは、総ての指揮を執っていた男性だった。

 体は、確実に元に戻るでしょう。ダーウィンシステムが誤算を起こす可能性も視野に入れ何度も演算を行いました。結果へ辿り着くのは短くて半日、長くても数日……これは、彼女の肉体への負荷を考慮しつつ行います。ああご安心下さい。成長具合の経過観察に当たるのは彼女に好意的な女性の職員達のみで行います。私も含めて、男性所員は誰一人として対応しません。
 それより問題は、記憶です。
 仮説ではありますが……記憶と言うのは簡単には無くなりません。過去に対しての改竄はあれども基本的に人は情報を前頭葉や海馬の一部分ないし、体細胞内で全て保管していると言っていいでしょう。一時的にでも記憶が戻ったとおっしゃいましたよね。であれば現在彼女の身に起こっているのは……おっしゃる通りです。ええ、まさしく。……いやはや、あなたがこちらの世界にいない事が驚きです。いや、深い意味はないんですがね。……ええ。そう、……机上の空論なんですよ。脳科学分野に関してはまだ、未知の領域の方が遥かに多い。仮説通りなら、肉体の再生と共に記憶も呼び覚まされるでしょう。けれどココ様……あなたの眼に、この成功はどれほどの数値を弾き出しているのか……。

 ははっ……それは、……心強いですな。


 天井を仰いだ。ソファの背もたれにゆったりと頭を預けた。神妙な顔付きを崩すことのなかった所員から、いつかのクラルとの日々を思い返す。スライドショーが切り替わるかのように付随された記憶を思い返し、目を瞑る。
 新緑の時期だった。
 ふたりで他愛のない話をした。彼女で無ければ会話を続かせようとは思わない、話題だった。

「いいお天気」

 記憶の中、クラルは空を見上げていた。清廉さが伺える横顔の向こうには緑色の日陰、燦然と輝く太陽が微かに顔を覗かせていた。ピクニックの真昼だったか。

「言ったろ? あの天気予報は外れるよって」
「はい。さすが、ココさん」

 気持ちの良い木陰だ。ほんの少し暖かい風が彼女の汗ばんだ肌を撫でていた。芝生の上に敷いたラグから伝わる土の冷たささえも心地良い。クラルは、くすくす笑っていた。

「でももし雨が降っていたら……」
「ん?」
「もし雨が降っていたら、何がしたかったですか?」
「……もしも話は好きじゃないなあ」
「偶には良いじゃありませんか」

 何がしたかったですか? バスケットは空に近づいて、満たされた胃袋から出る微睡みが彼に欠伸をさせた。品も外聞も脇に置いて、広げたブランケットの上でふたり寝転がっていた。心地良い芝生の感触が蘇ってくる。

「変わらないよ。君とピクニックをして、こうして横になってる」
「……雨ですよ?」
「ピクニックは屋外だけでするものじゃないだろ?」
「お部屋で?」
「ああ。リビングが良いな……テーブルとソファを端に置いて、石畳の上にこのブランケットを広げよう。外がよく見える窓の近くで、明かりはランプだけ」
「素敵……雨音が、とても心地良さそう」
「うん。僕も言いながら中々良い休日だなって思った」
「あらあら」
「……今度、雨の日になったらしようか」
「はい。是非」

 その時の二人には、歴然とした身長の差は無かった。ココがクラルを見遣れば彼女の顔は彼のすぐ目前にいた。視線が混じり合ったタイミングで、柔らかく微笑む。淀みなく、健やかな波長。手を伸ばせば簡単に触れられる柔らかい頬、さらりのびたブルーネット。風が吹くと届くジャスミンと鈴蘭の芳香。

「もしも話も、悪くないな」
「そうでしょう」
「クラルと一緒に過ごす事を考えるからかな。楽しい予感に胸が満たされる」
「それは光栄ですこと」
「流石、僕のクラルだ」

 ほんの少し身体を起こした。影を作るようにその顔を覗き込めば「……外ですよ」慣例のような呟きが求める場所から聞こえて来たが「誰もいないよ」目に見える事実を囁けばクラルは吐息だけで微笑い、目蓋を下ろしてほんの少し、その鼻先をココへと寄せてくれた。
 皐月の風が奏でた新緑の音色を今でも覚えている。
 触れるだけなのに、どちらかが笑い出すまで終わらない、長いキスをした。

「あら?」
「ん? どうした?」
「あちらの根本、見た目の質感が……少しおかしくありませんか?」
「どこ?」
「あの木です。……病気かしら」
「ああ……いや、アレは……キノコだね」
「きのこ……?」
「木の根に寄生するタイプの、どちらかと言えばアメーバに近い分類の菌類だよ」
「初めて見ました」
「まあ、何千とある種のひとつだ。食用でもないから、認知度は低い。と、行っちゃ駄目」
「あら。……もしかして、」
「公園内で放置されている程度だから、強い毒性は無いよ」
「でしたら。触りませんから、少し。すこーし観察するだけですから。ね?」
「だーめ。強くは無くとも、毒生物」
「……独占欲が、お強いこと」
「何か言ったかい?」
「いいえ。なんにも」
「……あれはね。少量でも摂取すると意識が混濁する。記憶が抜け落ちたり、最悪、脳がやられて植物人間」
「…………」
「ん?」
「強い毒性は、ないのでは?」
「致死率は低いよ。口腔接種以外での被害報告もなければ、そもそもヒトへ対しての誘引もない」
「それは……、そう、ですか」
「君が眠り姫になるのは嫌だ。僕の為に行かないでくれ」
「困ったお方。私は拾い食いしません。そんな子じゃありません」
「あれ? 拗ねた。おかしいな」
「はいはい」
「君が記憶を無くしても、僕は君を愛してる」
「……何のお話ですか」
「もしも話。例えば君が何かの折に記憶を無くしてしまって、僕の事を忘れても、あるいはずっと目覚めないことが起こっても、」
「……」
「記憶が戻るまで側で手を尽くすし、目が覚める迄ありとあらゆる事をする。人事を尽くして天明を待つ、さ」
「……不穏な、もしも話ですこと」
「愛してるよ、ずっと」
「あらあら」
「愛してる。何があっても、絶対に離さない」
「……ココさん」

 名前と共に抱き締める力を強めたらクラルは、その身を背後から抱く腕に両手を絡めて、くすくす、と忍笑い、幸せそうに囁いた。

「あなたが私を失うなんて、あり得ません。決して」
( You will never ever lose me, ever. )

 あれはただの、閑話だった。


 いつの間にか眠っていた。と、言うこともなく。ココの時計は朝方を示し、やがて正午を過ぎ、また短針と長針が天心へと近づき始めた。
 彼にとっては取るに足らない時間経過だ。
 それでも、無茶苦茶な時間軸への適応力を習得しても尚もどかしいと感じてしまう、長い時間だった。
 ソファから立ち上がる。座面が自身の自重で凹んでしまっているその場を振り返ることなく、扉へ向かって歩を進める。
 扉が内側から開かれた。飛び出すように現れた所員が口を開くより先に、その横を通り抜ける。

「ありがとう」

 所員の目は濡れそぼっていた。その表情にも、ココの目からは隠しようがない電磁波にも安堵が滲んでいた。
 自身の目が常人より遥かに優れている事を、ココは改めて感謝した。だからこそ、一昼夜なく勤めてくれたであろう人達へ、労いをかけることをその時は惜しんでしまった。
 薄い壁がある。その向こう側からは最も慣れ親しみよくよく見慣れた、女性の波長が滲んでいる。それは困惑して、混乱して、長く伸びた髪を不思議がっているようで、

 ココは扉を開けた。

 懐かしい姿が寝台の上にいた。彼女は背をマットレスへ預けたまま緩慢な動作で真横で泣き出している同僚の頬を拭おうとしている。ココの瞳だけが捉えられる波長は戸惑いと疲労の色が強い。
 妻の名前を呼ぶ。
 やがてその意識がココへと向かい、その瞳が彼を留めると同時に目を瞬かせ、

「あなた……?」

 ココは、およそ一週間ぶりに、心から破顔した。

「ああ。おかえり」





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