Twenty

 クラルは軽い昼食の後、自室に籠ることにした。ココはああ言っていたが、実際知らない人と二人きり−−しかもココほどでないくても屈強で厳つい顔にいかにもなサングラスをしている人物と同じ部屋−−では、ちょっと息が詰まる。
 それに相手も相手で居心地が悪そうだった。

「あの、わたし、部屋にいます」

 だから、この提案はクラルからすればとても名案だと思った。
 案の定SPは特に説得するまでもなく、分かりました。こちらにおりますので、何かありましたらすぐにお呼びください。と、頭を下げた。その恭しさもクラルからしたらむず痒くて居た堪れない。
 教材を抱えたまま出入り口で一礼をし、廊下へと踵を返した。
 置いていかれたことに不満はない。
 だってクラルはまだ子供で、ココは立派な大人だ。大事な話をしてくるから、連れて行けなくてごめんね。と、わざわざ言ってくれたし、そんなに遅くならないよ。日が暮れる前までには帰ってくるから。とも、伝えてくれた。
 なら自分は、ココが帰って来るまで良い子で待っているべきだ。

 ココが、大人が望むいい子。

 大人になる為に過す子ども時代は、意義の有るものでなければいけない。
 クラルは周囲の子達と違うのだ。後ろ盾がない。両親の所在も知れなければクリスマスホリデーに帰る家も無い。それを嘆いてはいけない。施設を独り立つ時には顔見知りの数人が彼女を羨んだ。良いな、ここを出て、綺麗な服と美味しいご飯が食べれるんだ。良い学校でここを忘れて、良いな。なんで、お前だけ……。
 呼吸に意識を宿す。悪意を吐いた子の顔は忘れてしまったのに、言葉がまだ残っているのが辛い。
 胸の奥が痛い。

「やだ、な」

 見慣れた扉の前でため息を零す。なんで。と言われても自分は彼等がジュニアクラスの子の宝物でキャッチボールをしていた時、図書室にいたのだ。泥まみれで泣く子の顔をくたびれたタオルで拭って、ぼろにされた人形をシスターの見様見真似で繕った日から、その子と一緒に異国の歌をおぼえたのだ。懐かしい旋律が暗鬱を払うように頭に流れる。何となしに口ずさむ。ドアノブに手を伸ばす。出立の前夜、あの子達は、野原の花を帽子に挿してくれた。おねえちゃん、行かないで。と、目に涙を溜めた子の顔は良く覚えている。手紙を出したけれどその返事はまだ来ていない。
 扉を押し、部屋に入った。その時、彼女は自分が前も見ずに歩いて居たことを知った。
 眼前に飛び込んできたのは知っている空間より幾分も広い寝室だった。
 いつの間にか自分の部屋を通り過ぎていたらしい。広いベッドを中央に、明かり取りの窓が二つ。奥にはドレッサーが有る。しっかりとした本棚があり、窓枠に写真が飾られている。カーテンレールには、綺麗な色のモビール。
 歩き続けた事に違和感がなかったのは、今朝この場所で起きたからだろうか。

「……まちがえた」

 ココさんの部屋に、来ちゃった。あーあ。と、肩を落とす。まだ、ほんちょうしじゃ無いみたいですね。と、教材を抱え直した。それに、まるで寂しい子みたいです。なんても思う。
 不思議な疲労感が体の内側から湧いて来ている。手足が重く感じる。ココさんが帰ってくるまで、一眠りした方がいいのかも知れません、と、悩む。
 不可解な感覚が今日、起きた時からずっとクラルの中に満ちていた。ココの姿を浮かばせる。すると、頬が暖かくなる。心が湧くつく。これがもし、リンさんの言ったとおりなら、私はなんて罪深いんだろう。そう、鼓動が思い悩ませる。彼は、既婚者。奥様を大切に想っている人。罪深いことは、いけない。分かっているのに、ココの優しやさ手の温もりを思い出すと何故か嬉しくなる。

「…………」

 踵を返そうとした。
 その時、本棚の下段が視界に飛び込んできた。差し込まれた一冊に、目が止まった。
 それが何なのかクラルはすぐに分かった。アルバムだ。


 自分は本当に、疲れているかあるいは、頭がおかしくなっているのかも知れない。
 引き寄せられるように本棚に向かう。ラグの上、石畳、そして再びラグの上。足は少し大きなバブーシュを履いている。棚の前で立ち止まる。持っていた教材を、本から視線をそらさずに、床に置く。
 心臓がどきどき煩い。少し分厚い背表紙の文字。何度も何度も口の中で復唱する。指をかける。
 こんな事、した事ない。こんな行為は、いい子じゃない。見たいのなら先にココさんにお伺いをするべきだ。そうしないといけない。身寄りのない自分を、一時的にとはいえ引き受けてくれている、優しい人。神前の教えを守れる高潔な人。そんな人を傷つけてはいけない。信頼を裏切ってはいけない。と、思うのに、思うのにどうしようもない。言葉が頭の中で混濁している。いけないと戒めるのはクラルの心。なのに内側から衝動が走る。構いませんよ。と、貴女はそれを見るべきです。と、衝動はすっきりと柔らかい声をしてクラルの気おくれを削ぐ。

 −−ココさんなら、許して下さいます。

 ゆっくりと引き出したそれはとても重かった。清潔で健全なパールホワイトは充分な重さを持っている。輝かしい日を収めた、最も高尚な一冊。ラグの上に置く。表紙を捲る。
 飛び込んできたページに、息を飲んだ。そうして思い出した。
 私、倒れる前、同じものを見た。



「あの、」

 リビングへ顔をのぞかせた。差し込む明かりはすっかり茜に傾いている。部屋は暖かいが、しんと静かだ。
 ソファに腰掛けていたSPがモバイルを弄っていた顔を、クラルへと向けた。どうしました? うやうやしい声に、うやうやしく、疑問をぶつける。彼は少し意外そうな顔をした後、画面を見て、一言答えた。そうですよ。

「ありがとう、ございます」

 クラルは誰が彼女に嘘を吐いているのか分かった。分かってしまった。だとしたら今の自分は一体、どうなってしまうのだろうか。

「少しお手を拝借できますか? 後、ココさんがお戻りになったら、わたしの部屋へきて下さるように、お伝え頂けますか? お聞きしたいことがあります。と」

 声は、聞き慣れたものなのに。吐き出される言葉は淀みが消え始めている。頭の後ろがざわざわとしている。




 ココが研究所から出立する時、空の色は橙と濃紺のグラデーションを滲ませつつあった。
 思っていたより時間が掛かった。と、高速ヘリの中でひと息を吐く。それもこれも反作用アンチデント、つまりクラルの状態異常を回復させる薬品が、想定よりも完成されていたからだ。
 IGOはさすが、世界最高峰の地位を揺らがせない。解析に使用されたインシリコもコンピューターシステムも、現時点のテクノロジーにおいての一流だった事、またそれを操作する人員も理知的で頭脳明晰な者のみをあてがったのが幸いしたらしい。−−反転作用を起こす薬液の要には、望む効果以外ヒト細胞への影響が奇跡的な程に無い、ペアのグルメ遺伝子情報を参考にしたとチーフは言っていた。ペアとはグルメ界で採れる、摂取した生物の性別を転換する効果が確認されている食材だ。この基盤を応用すれば確かに、肉体の修復は問題ないのだろう。それにしても記憶情報に関しての効果については懸念点を隠匿しない辺り、いかにも実直な研究者らしかった。ある日の妻が彼の能力へ賛辞の言葉を述べていた事を思い出し、無意識に眉間を寄せて口角を上げる。
 しかしこの分だと、遅くとも明後日には、クラルへの投薬が可能になるだろう。
 つまり、準備が整い次第ココの家で暮らしている少女を、IGOへと連れ出す必要が出て来た。
 それは誰もが望んでいる変化だ。現会長が、リンが、彼女の同窓の徒が待ち焦がれている。ココも望んでいた。だから引き取った。だから連れ帰った。だから世話をした。

 だから、気付いてしまった。

 今ココの家でココの帰りを待っているであろう少女は確かに、ココの妻だった。同一人物だと証明も出来る。実際によく似ていると思うし、確証もある。しかし、記憶さえも後退してしまった彼女にココは、かつて妻に抱いていたものと同等の感情を抱けずにいる。それを当然だと、受け入れつつある。だって、あの子は、。
 妻を焦がれれば焦がれるほどにその違和感は、ココの中で看過できない淀みになっていた。
 喉の奥で燻った言葉を繰り返す。だって、あの子は……あの子は、

「クラルじゃ、ない」




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