−Poissons−

 そして日を跨いだ14日、つまり、バレンタインの当日。
 クラルは必要な器具が整然と揃ったキッチンテーブルの前で、少しの緊張と好奇心を持ってエプロンの輪を頭に潜らせた。紐を背中へと回して締める。
 好奇心。それを認めてしまうと、クラルは少し、切なくなる。
 ココの体質やその細胞情報には興味が湧かないのに、食材獣や、グルメ界の希少食材と聞くと、不安よりも胸がわくついてしまう。特殊調理食材、と仰って居たわ。どんな工程が……より、どんな遺伝因子をお持ちなのかしら。他の食材と同じ様に、可食時には酵素に変化が起こるのかしら。
 ふと、自分の思考に気付いて頭を降った。自身が研究者なのは良く分かっているけれど、今は、プライベート。落ち着きましょう。と、髪を一括りに縛る。


「準備できたかい?」


 真横から聞こえて来た声に声を返す。


「はい」 


 視線を遣ると食料庫から歩を進めて来るココの支度も、既に終わっていた。中身が詰まった小さな麻の袋を手に、デニム生地のエプロンを身に着けている。 
 クラルが寒そう、と以前に言ったからか。今日はアイビーグリーンのクルーネックニットに、生地の厚い黒色のボトムスを合わせていた。それは、クラルが着ているポートネックのプルオーバーや膝を過ぎるスエードのスカートと、色が綺麗に逆転しているから、人が見たら合わせてきていると、思われるかもしれない。実際左の薬指に同じゴールドリングをしているから、よりその印象は濃くなるだろう。


「じゃあ、始めようか」


 ただ、今日の2人に外出の予定は無い。


「よろしくお願いします」


 上機嫌なココに向って、クラルは軽く頭を下げて直ぐに上げた。その頬へココの手が触れる。と、同時に顎を持ち上げられて、キスをされた。リップノイズが控え目に、陽光で目映いキッチンに響く。


「畏まらなくていいよ」


 柔らかく微笑まれて、クラルはふふっと笑った。
 自分へ注がれている情愛の念を不意に感じる度、同じ物をけれどそれ以上にして返したいと、クラルは思う。思ったまま、ココの胸板に手を添えたらそのまま、抱きしめられた。
 頬がココの胸元に触れる。ニットの生地は柔らかくて、心地良い体温と鼓動がぽんぽんと響く。腰を包む様に回された大きな掌の圧も、良く馴染んで、クラルの胸中に居た緊張を融解して行く。頭のてっぺんに唇が押し当てられる。クラルはつい、声を出して笑った。


「−−あなた」
「ん?」
「お料理、教えて下さるのでしょう?」
「ああ、勿論」


 ココに差し出す物を、ココから教えられて作る事に関しての違和感は、この際端において置いてココを見上げる。
 勿論、と言ったのにその唇で、もう一度キスされる。クラルは、本日中に終わるかしら。なんて呆れつつも幸せを感じてしまった。
 名残惜し気に3度目のキスをして、そっと体を離し合ったのに、お互いの片手がそれを惜しんで指先で互いの腕の形をなぞってしまったから、結局、指を絡ませ合った。テーブルの横、キッチンを後ろに手を繋いだままココもクラルも、くすくすと笑う。


「今日中に、終わるかな」


 ずっと持っていた麻袋をテーブルの上に置いたココが、クラルの片側で喉を鳴らす。


「私も、同じ事を思いました」


 やや置いて


「両手が使えれば、終わるかしら」
「それはどうかな」


 悪戯に声を出したら、左手を包む、ココの圧が少し強くなった。クラルはもう、と笑って握り返す。でも、いつまでもこのままではきっと居られない。


「ココさん、」


 諫め調子でココを呼ぶ。それにココは、クラルを見下ろしたまま微笑み、麻の袋を開いた。ざらっと、中から大粒のアーモンドに似てでも表面にザラメをまぶした様な木の実が現れた。喉にかかる香りが鼻腔へ入り込む。
 クラルはおもむろに、その一粒を手に取った。アーモンドに似ていると思ったけれど形は少し、猪目を伸ばした形に似ていた。


「こちらが、仰っていた物?」
「ああ。見た目可愛いだろ。ハートなんだ」
「ハート……」


 ――猪目と思った事は黙っていましょう。
 そっと感想を飲み込む。

 それにしてもグルメ界の食材にしてはシンプル。と言うか、何となく見覚えがあった。首を傾げて記憶を漁る。直ぐに、思い至った。


「カカオ豆に、似てますね……」
「カカオ豆だからね」
「え?」


 ココの言葉に面食らう。


「グルメ界へ、行ってませんでした?」
「ああ、だから、グルメ界でしか成らないカカオ豆なんだ、これ」


 成る程。


「こちらからチョコレートを作る訳ですね」
「そう」
「行程は?」
「一緒だよ」
「ご一緒?」


 きょとん、とココを見上げる。あら、と思う。


「作り方は一緒。焙煎して、すりつぶして、モールドに入れて冷やして固める」
「特殊調理食材、と……」
「そうだよ」


 あっけらかんとした声に、クラルは首を傾げた。そう仰る割には、そうと聞こえない。


「ちなみにもう、調理は始めているから」
「え?」


 ココが、クラルを見詰めたまま笑う。


「このカカオは作り手の感情を吸い取って、やっと扱えるよう成る。勿論リファイニングとコンチングも、味も、必要なのは時間じゃないんだ全部、感情に左右される」
「感情……?」


 鸚鵡返しに、ココが力強く頷く。


「そう、それも2人分のね。後は、調理中も注意がある」


 そう言って繋いだままの手を、ひょいと持ち上げた。


「ずっと、手を繋いでいないと駄目なんだ。袋から出した時から、冷やす迄」


 ココの手はじんわりと熱くて、厚い皮の感触が心地良い。少し汗ばんで来て、くすぐったさが芽生えて来ているけれど、それでも良いと思う。


「それは、確かに……特殊ですね」


 だろ?と、ココが笑う。そうして、顎を触りつつ付け足しの様に続けた。


「後は……楽しんですること、かな」
「楽しんで?」


 クラルの聞き返しに、微笑んで頷く。


「そう。感情は何でもいいわけじゃない。楽しいとか、そう言うポジティブな気持ちの方が口当たりも味も、含有量が多ければ多い程良くなる」
「お味も?」


 そう言えば。と、ココの言葉でクラルは気付いた。改めてキッチンテーブルへと視線を流す。
 卓上には、琺瑯のボウルや陶器の鉢に擂粉木、予めお湯を沸かせてIGO製の特別なコジーで覆ったドリップケトルが有るけれども、お砂糖や生クリームと言った材料が見当たらない。
 クラルは少し首を傾げた。


「そう、味も」


 ココがクラルの反応に合わせ、頷きを見せる。


「良くなるも悪くなるも、僕ら次第って事さ」


 クラルは、まあ。と、感嘆をあげながらひやりともした。どう考えても普通に作るより難易度が上がっている気がして、−−あらでも、なんだか、パーティゲームみたい。なんて微かにも感じた後に、こうも思った。それにしても、食材についてお話しするココさんはいつも楽しそう。本当に、お好きな事なのね。


「普段通りなら、大丈夫だよ」
「そう……」


 クラルと指を絡めるココの手に力が篭った。少し強く引寄せられ、クラルの頬にココのもうひとつの手が添えられる。と、唇の端に唇を当てられた。分厚くて、しっとりしているのに少し堅い微熱がそっと離れると、その目の前でココが、ふっと息を溢して愛しげに、微笑う。

 ココが見せた表情にクラルは、ほんの少しの違和感を感じた。
 そもそも特殊調理食材、しかもグルメ界の生産物にしては生易しい気がする。まあ、カカオ豆からの調理を手を繋いだままで行うなんて思うより容易な事じゃ無いだろうけれど、でも、クラル少し、釈然としない蟠りと一緒に、何かをはぐらかされてる、と、感じた。


 沢山の美食に溢れたグルメ時代。チョコレートもココアも、かつてカカオマスから作られた食品全ての天然物が確認された現代ではあるけれど、カカオ豆からチョコレート製品を作る事は、珍しい行為じゃない。
 丁寧に手間と時間とをかけて作られるその強みは、味のブレンドができる事。多くのショコラティエがその可能性に挑戦して、今も尚地位を誇示している。自然だけじゃない、人が手を加えて生み出す調合の美味として、時に天然物以上に支持されている。

 でもクラルはそんな工程、知識だけでそれでも、薄くしか知らない。
 火を起こしたコンロに鉄製のフライパンを置いてココに指示されるまま油も引かず、汚れを洗い落としたカカオ達を、中に入れ切る。


「次は焙煎だ。火力は弱めで」
「ローストの目安はどの程度ですか?」


 クラルの問いに、コンロの火を適度に整えていたココが眉間に皺を寄せ、うーんと唸る。


「……変化の激しい食材だからなあ。まあ、ちょっと亀裂が入るくらいかな。タイミングが来たら教えるよ」
「はい、お願いします」


 じりじりと、火が通るに連れて表面が乾いてきた。うっすらと白っぽくなる


「あ。そうなったら混ぜ初めて」


 クラルは言われるままに菜箸でカカオを混ぜつつ、ココの手を握った。ぎゅっと握ればきゅっと握り返される。つい、ふふっと笑いを零してしまう。真横からココのくすくす笑いが聞こえる。
 ――楽しむ、事。 ふとココの言葉を思い出して、口元に笑みを刻んだ。思ったよりも心配無いのかもしれない。
 実質クラルは今、片手が使えない状態だけれどその代わりココのサポートがある。クラルと手を繋いでいない方の手で、フライパンの持ち手を握っていてくれている。
 ビリオンバードの様な物なのかもしれない。調理者から発せられるプラスの感情変化に敏感な食材には、クラルにも覚えがあった。
 −−であれば、余計な感情は、不要かしら。


「あ、クラル。そっちだけじゃなくてこっちも、」


 ココの言葉に、はい。と答えて、ふふっと笑う。眼下ではカカオがころころ、箸の流れにあわせて転がる。


「満遍なく……そう、うん、上手だ」


 からころからころ、転がって、次第に色が濃くなって来る。ココの囁きも続く。


「そうそう。ああ……うん、良いね」


 クラルは不意に、真顔に成った。


「そう、そのまま……僕が、止める迄、続けて」
「あの、」


 堪らなくなって、顔を上げる。


「ココさん、それ、その……意識されてます?」
「え?何がだい?」


 フライパンを覗き込んでいたココの顔が、目を白黒させて、クラルへと視線を移した。その顔を見たらクラルは、「なんでも、ありません」そうとしか言えなかった。
 もう、もう。ずるい、人。と思いながらまたカカオ達に視線を戻して菜箸を動かす。頬が熱い。
 豆の色がじっくりと濃くなって、香ばしさが一層強く漂って来たあたりでココが、呟いた。


「――ああ……そう言う事、か。クラルのえっち」


 菜箸の先がフライパンにかつんと当たった。うっかりその近くに居たカカオがくるくるフライパンの中で回って、滑る。クラルは、カカオを見詰めたまま呟いた。


「……それだけはあなたに、言われたくありません」


 丁度その時、豆が一斉にぱりぱりぱりっと鳴った。あ、と思うと同時にココが器用にコンロの火を止める。


「大丈夫。問題ないよ」


 ココの言葉と対象に、クラルは不安な気持ちを湧き上がらせていた。


「本当、に……?」


 失敗してしまったかしらと、ひやりとした。だって、かりっかりっと余熱で音を出す豆の表面にはそれぞれ、想像していたよりも大きく亀裂が入っている。
 プライパンを覗き込んで、ココが続ける。


「ああ、寧ろ順調だ」
「……良かった」


 クラルは胸をなでおろした。良かった。と、心でも繰り返す。


「だが、聞いてた時間より速いな……」


 感心と共に呟かれたココの言葉にクラルは何だか気恥ずかしくなった。そうですか、と言う声もちょっとか細くなる。
 とりあえず、焙煎が終了した。


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