−Potage−

 その夜。

 クラルはリビングのソファの上で夕食後のお茶を飲みながら、ココの真横でぼんやりと、昼間の事を思い返していた。つまり、リンと顔を青ざめさせた事。

 香ばしいジャパニーズティーはいつもなら口の中を爽やかにしてくれるのに今は、含んでも飲み込んでも、夕食の時に感じた深い味わいの余韻が消えない。舌や身体が、それこそ自分の遺伝子が、至上の美味を迎え入れた喜びでふつふつ沸き立っているのが分かる。
 一文字の飯汁から始まり、だしの引きが見事な煮物に、大皿に盛られた焼き物や預け鉢へと進んだそれは旬の食材をふんだんに使った懐石並みの和食だった。
 材料はつい昨夜ココがグルメ界から持ち帰って来た物(全てが終息した後もココは依頼だったり個人的な好奇心から度々、グルメ界へ訪れている)で、特殊調理食材だった。勿論、下拵えから調理迄全て行ったのは、ココだった。と言うか、クラルが帰宅した頃には仕上がっていた。

 最寄りの駅迄迎えに来てくれたココに、「クラル」と、抱きしめられた時、「出社、お疲れ様」と、相変わらずと言うか年を経て尚も精悍さを増した美貌に微笑まれてキスを受け入れた時、美味しそうな香りと味がして、クラルは閉じた瞼の奥でリンの言葉を一層強く、実感した。
 ココさん達は、舌が肥えている。
 実際、グルメ界から帰ってくるココのキスは味が良い。ココさんが美味しい。と、なんだか倫理的に信仰的にも言葉にし難い感想を抱く。ちなみに人前……と言う事に関してはもう、諦めている。

 案の定、を超えて想像以上に、夕食は美味しかった。しかもココに、「口に合って良かった。クラルと、食べたかったんだ」と、言われたからより、美味しさを感じた。

 そう、だからかも知れないわ。クラルはココの横顔をそっと伺い、思った。筋骨隆々として体の大きなココはクラルからして伺うのも大変な事だけれどもそれはもう、慣れた所作だった。そのままそっと、心で呟く。だからこんなに、気になって仕方がないの。と。
 ココは本に目線を落としていた。クラルがココのハント期間中に購入し読み終わった、人間美食国宝メリスマンの新作。どっしりと重たいハードカバーに繊細なデザインが施されたグルメ界を舞台とした、スリラーサスペンス。
 彼女もココ達と同時期にグルメ界入りをしていたと言う事、また、新作発表時に謳われた『前人未到、グルメ界の真実が本書に、云々』と言うキャッチコピーに惹かれてクラルは即日に予約した。今現在は重版待ちのベストセラーだ。
 登場人物こそフィクションだがプロットも文章も行間の余韻も、そして肝心の風景描写に至っては背を粟立たせる程に完成されて、読後は暫くお腹と言うか頭がストーリーで一杯になった。リビングの書棚に差し込まれていたそれに気付いたココが、その序盤を一読するなり、この場所知ってるな。と、呟いたまま没頭しているから本当に、卓越しているのだろう。と、言うのは本筋から離れるからさておいて、クラルは真横に座るココを盗み見続ける。

  ページを捲るココの、形の綺麗な唇にカップのエッジが当たる。クラルのコップに満たされているのと同じジャパニーズティー。芳しい香りともに、彼の口へと吸い込まれて行くのを逞しい喉の動きで知る。
 離れて、カップはサイドテーブルへと移動する。ことん、と、軽い音と一緒に、雫で濡れたココの口元がふっと動いた。

「見過ぎじゃないか」

 言葉と共に顔がクラルへと向いた。その下で節の立った指先が本に栞糸を伝わせ、硬いカバーを閉じる。

「気付いて、いらしたの?」

 深く濃い色の虹彩が「勿論」との言葉と共にクラルを視線に納めて微笑んだ。クラルはココに捕らえられたまま、恥ずかしいわ。と、笑った。それが、ココからしたら合図だった。

「クラル」

 本を端に遣り、クラルの腕をそっと掴む。強引でない、けれど力強く自分へとクラルを引き寄せる。
 ついでに逆側の手でクラルが持っていたコップを持ち去りサイドテーブルへ、その場を一瞥もせずに置いた。
 ことん。音が鳴る頃にクラルを完全に腕の中に納めてココは、ぎゅう、と彼女の体を抱きしめそのまま、ソファへ仰向けに寝転んだ。
 自然、クラルはココの上に乗り上げる。胸同士がぴったりと合わさる。

「さすがに、照れるよ」
「……もう」

 胸が跳ね上がる程力強い鼓動が直に体へと響いて、クラルは笑った。
 ココの身体へ寄り添う様に、顔も首元に預ける。駅前でふわりと感じた食欲を刺激する芳香の奥に、ココの強く甘い匂いがある。そっと息を吸う。

「また、そんなご冗談を仰って」
「酷いな」

 ココが低い声を震わせ、くくっと笑う。音の響きが心地良い。

「だって、世の旦那様方はきっと、奥さんに照れたりなさいません」
「そうかい? ……きっと皆、こんなもんだよ」

 ココは両手をクラルの脇の下に差し入れた。きゃ、と。驚きながらも笑うクラルの体を軽々と持ち上げ、その顔を自身の顔に近付けて、改めて背中に手を回す。クラル。と、特別甘く囁く。
 何を求められているのかは、直に分かった。だからクラルは、その通りにしようと思った。
 ココの額の生え際を指先でそっと撫でる。凛々しい眉の更に奥まった場所にある形の綺麗な瞳、が、期待でほの赤く染まる縁取りに熱せられたように虹彩を滲ませている。

「困った方」
「ああ……」

 大きな掌が、クラルの後頭部と言うよりも頭をしっかりと包んだ。優しい圧が籠る。目を瞑る。唇に柔らかくて少し湿った感触がぴったり触れる。慣れ親しんだ、高い体温。頬に触れる鼻先。一息吸い込むとココの皮膚の香りがする。
 ほんの、数秒。
 頃合いかしらと少し、身じろいだら背面にしっかりと回されたココの腕が強くなった。唇がそっと食まれ、隙間が産まれる。待って。口から飛び出し掛かった声は肉厚の舌先で押し込まれた「ンっ」反射的にココの襟元を掴む。
 それを見越していたのだろう。優位だった体勢は器用に反転された。
 質量のある男の体とソファの間に挟まれて、心地よい重さに身体中を支配される。
 漏れ出た呼気に吐息が乗る。

「ん……」

 ああ、もう……。口の中に冷たい味が落ちて、ほろ苦いジャパニーズティーと、身体を満たした夕餉の味が広がる。
 舌を舌先で撫でられ、そっと吸われて、肩がひくんと震える。それでもココの身体に覆われた身は、クラルが思う様には動かせない。
 いつの間にか大きな掌がゆっくりと、体の曲線をなぞっている。


「ここさん……」


 はちはちと硬い男の体に自身の柔軟さが形を変えて、はしたない熱がじくじくと産まれ始めるところで、クラルはやっと、息を継いだ。


「クラル」
「も、」


 ココの唇が、頬、輪郭を経て、首筋に寄り添う。そわっと腰が浮いて、それも、ココの厚い体に埋まる。ミモレ丈のスカートから膝小僧が露わになった気配がして、クラルは恥じらいを覚える。


「まだ、いけません」


 唯一自由が利く手で、ココの腕を制した。妻の、脚の曲線を確かめていた男の無骨さがぴたっと止まる。その従順さに、クラルはまたふふっと笑う。


「えー……」
「えー、じゃ、ありません」
「生殺しだ」


 ココの力がふと抜けた。体に男の圧が掛かって、少し苦しいと同時にその重さや乾いた熱さが心地良くも思った。
 首筋にココの額がすり寄る、どちらとも無く、忍び笑う。


「ところで」


 そっとココが顔を上げた。


「何か言いたげだったね」


 そのまま少し上体をずらし、クラルの額に額を寄せる。その影の下で、クラルは、ちょっと息を飲んだ。


「そちらも、気付いてらしたの?」
「当然」


 力強く、ココが笑う。クラルがココにした様に、ココの指先がクラルの生え際から耳を撫でる。軽く、唇を唇に押し付けてすぐに離れる。
 ふっと笑う。


「IGOで何かあったかい?」


 愚痴でも相談でも、何でも聞くよ。と言って次は、クラルの頬にキスをする。大きな手が髪の隙間を潜って頭を撫でて来る。
 クラルはそっと口に残っていた唾液を飲み下した。自分のとは違う味がするそれは、甘くて、やっぱり夕餉とお茶の味がした。
 思わず多幸感に包まれて、美味しい、と零すと息が少し熱っぽくなってしまったあの、五臓六腑を癒す素材の味。一緒に暮らす前もその後もずっとクラルは感じていたけれど、ココが作る食事は本当に美味しいものだった。体が求める味と言っても過言じゃない。最近はグルメ界の食材を振る舞われる機会が多いけれど、不思議なのはそれが、高級食材でなくても、変わらない恍惚を与えられると言う事。
 一時市場に出回ったフードタブレットでさえ、ココに食べさせてもらったそれは、有る筈のない食材の味がした。と、言う事も本筋から外れるし、なんだか恥ずかしいからクラルは割愛する。


「クラル……?」


 クラルが黙ったままだったから、ココが痺れを切らした。少し不安げな顔で、クラルの頬を撫でる。


「あ、もしかして重かったかい?」


 言って直ぐにココが少し身を起こす。それにクラルは「いいえ」と、直ぐに否定したけれど、こうも続けた。


「ほんの少し、だけ」


 ココは、苦笑した。


「言ってくれよ」


 そのままよいしょと起こされて、次は膝の上に座らされて抱き込まれる。クラルは衣服の丈を整え自然と、ココの上半身に凭れた。
 白い清潔なシャツが頬にさらさらと触れる。襟ぐりからぴっちりとした黒のインナーが覗いている。
 スカートの裏側に触れるボトムスは生地の薄いストレートボトム。2月なのに、薄着だ。


「お寒くありませんか?」
「グルメ界に比べたら、暖かいよ」
「それは……そうでしょう」


 比較の対象がスケールを超えていて、クラルは少し面食らった。ココは構わず笑う。


「一度で良いからクラルと行きたいなあ。……綺麗な場所があるんだ。それに、ブルーグリルや、妖食界といった文明が発達してる所もあって、面白いよ」
「はいはい」
「キャンピングモンスターに乗って行けば、あっという間だしさ」


 それはクラルも知っている。
 今は人間界の土壌も回復して、市場に活気が戻って猛獣も、どこかに隠れていたとした思えない数の流通が確認されているけれど、その中には、グルメ界の食材も混ざる様になった。その経路は妖食界だったり、それこそココやサニーと言った美食屋が卸していたりと様々だけれど以前に比べて安定したラインが出来ている。比較的安全性の高い道程を辿っているからだと、ココは言っていた。
 それでも、クラルは即座について行きますとは言えない。


「その道中が、恐ろしいです」


 クラルはココが持ち帰ったデータの確認作業を行った時を思い出した。茨の波や、鋼の雷、猛毒の雨に雹、縦横無尽に動く竜巻の道。五体満足で帰って来てくれた事に一層信仰心を強く持ってしまったあの日。(ココはあっけらかんと、一回死んだよ。と、笑って思わず、恐ろしい事を仰らないで。と、感極まって眼が潤んでしまったけど)
 思い出すと、身の毛がよだつ。


「ちゃんと守るから安心してよ」
「そちらの心配はしていません」
「あ。そうなんだ……」


 クラルの即答に、ココはほんの少し頬を赤くした。


「大丈夫。と分かっていても、心霊スポットと言われて居る場所には絶対に近づかない、とか、あるでしょう?それとおんなじ」


 例えとして言いながら、あらでもちょっと違うかしらとクラルは思った。けれど、ココが「そうか……」と一応は納得した様子だったから、まあいいかしら。とも思った。
 本音は、ココの足手纏いになりたくないと言う気持ちのが大きい。キャンピングモンスターだって絶対に安全と言えない。
 モンスターより捕獲レベルが上の猛獣が現れれば襲われる事だってある。勿論その時、ココさんはきっときちんと私守ってくださる。と、クラルは分かっている。容易く想像だって出来てしまうから、万一それで、ココが深手を負ったら、億の一にでも、死んでしまったら。
 そんな状況、想像するだけで、辛い。喪失の痛みにも自責の念にも駆られて、後を追う禁忌を犯してしまう。だからこそ、それでもあなたについて行く。なんて覚悟、考えただけで胸が締め付けられて、クラルは持てない。


「それよりも……ココさん」


 クラルはココの膝の上で、そっと居住まいを正した。ざっくりとしたグレーのセーターの袖口と、同じ色のミモレスカートの生地を一緒に、膝の上で握る。


「ご相談、訊いて頂けますか?」


 さっき迄の、くてんとした警戒心の全くない佇まいと異なる、それこそ交際中に良く目にしていたクラルのすっきりとした姿勢と口調にココも、知らず背を正した。


「……何?」


 深く濃い色の瞳がココをきちんと見上げる。たっぷりとした長い髪が、ほんの少しくしゃけているのにココは気付いたけれど、今、整えるのはまずいよなあ。と、代わりに腰元を包む手に少し力を込めた。静かにクラルの視線を受け止める。
 クラルの唇が、そっと開く。


「ココさん、は……かなり舌が肥えてます、よね」
「……は?」
「今日、リンちゃんとお話ししていたのだけれど」
「うん……」


 なんでいきなり、リンちゃん? て言うか、何で急に僕の舌の話? ココは心の中で首を傾げた。けれどその思考よりも先に、クラルが続ける。


「ココさんやトリコさん達はフルコースも、今日持たせて下さったドルチェもですが本当に、美味しい物に囲まれてらして」
「うん……」
「先ほどのお夕飯も。本当にとても、美味しくて」
「ありがとう」
「それで……」


 たどたどしいクラルの言葉に、ココは少し、待ちきれなくなった。


「ですから、その……」


 こうやって言葉を選びつつ話すクラルは、言い難い事を、自分でも伝えたら良いのか迷ったまま口にしている。どうしよう、どうしましょう。言って良いかしら、大丈夫かしら。との、お伺いの波長がココの視界に映った。ゆらゆら揺れて、困っている。


「クラル」


 名前を呼ばれて、止まった唇が少し困惑を見せ初めて、二の句に戸惑っている。
 ココは、そっと微笑んだ。


「大丈夫だよ。話してご覧」


 クラルの瞳が、僅かに揺れた。その動揺を宥める様に、ココはそっとクラルの頭から、髪の乱れを整えた。
 年を重ねてすっかり大人然としたクラルの顔つきがこの時ばかりは幼く見えて、ココは恭しくクラルの額に唇をくっつける。


「その……」


 小さな吐息から、言葉が始まる。


「バレンタインのチョコレートドルチェなのですが、」


 一区切り置く。その言葉を耳へと落としながらココは、ああそう言えば、そろそろだなあ。と、感慨深く、胸を暖めた。

 バレンタインには毎年、クラルがチョコレートを使ったドルチェを作ってくれて、それがココには楽しみだった。ココさんの舌を満足させないといけないなんて、クラルさんも骨が折れるでしょうね、と、以前に小松に言われたけれど、そうかな。と、首を傾げた。
 クラル自身も楽しそうに作っている気がするし、味も申し分ない。それよりも、恋人の時だけじゃなく、夫婦になっても慣習となっているのが嬉しい。今年は何かな。なんて、胸が躍る。去年は自分がグルメ界に居たし状況的にも、バレンタインとか言っている暇はなかった。
 ――そうだ。前日迄に、百貨店に言って注文しておいたジュエリー受け取りに行かないと。あ、あとバラの花。と、思ってた辺りで、クラルの言葉に思考が止まった。


「今年から、既製品でも……いいかしら?」
「え、やだ」


 考える手間もなく、即答していた。
 クラルの顔が、動揺を一層濃くする。え、でも、でも……。と、わたつく。


「どんなに可愛く言っても、それだけは、嫌だ」
「嫌だ、って。そんな」
「ずるい奥さんだなあ……こう言うときだけ、口調崩すなんて」
「そ、そんなつもりはありません」
「ほら、言ってる傍から、敬語」


 ココは人差し指で、クラルの唇を押した。んむ。と、声が止まる。柔らかい感触につい、悪戯心が湧いて唇を数回押した。ふにふにしてちょっと気持ちいい。


「もう、」


 そんな事をしていたら嫌がられた。顔を背けてココの手をその両手で握り込む。そのまま膝の上で拘束する。
 きっと、鋭くココを睨む。


「私で、遊ばないで下さい」
「あ、また敬語」
「ココさん、」


 手が握られているから、背中を抱いていた腕に力を込めた。顔を寄せ、唇で口を塞ぐ。ん、と、少し色っぽい吐息が漏れて、ココはほくそ笑んだ。
 意地悪をしている自覚はある。その位、許して欲しいとも思う。だって、


「もう、ちゃんと聞いて」
「クラルが意地悪するから」


 先に僕に、意地悪したのは、クラルだし。


「私、そんなつもりで言ってません」
「僕がどれほど楽しみにしてるか知った上で? 本当に?」
「だ、って……」
「クラルのお手製が欲しい」
「それ、は……だって」


 ココは少し、むっとした。こんなに欲しがっているのに。クラルは利かん坊に、だってだってと繰り返す。
 つい、深い溜め息が漏れた。


「クラル」
「……はい」


 さっと、クラルの手から手を抜く。あっ。と、一瞬下を向いたクラルの体に両手を回す。そのまま、きつく抱き込んだ。
 元々、彼女の力の拘束なんて、ココからしたら拘束と言えない。絹織物がゆるーく巻き付けられている様な物だ。


「ココさん……!」


 耳元で叫ばれたけど、ココは気にしない。


「理由、話してよ」


 骨が軋むか軋まないかのぎりぎりの力で、クラルを拘束する。後頭部だって包む。すっぽりと抱き込める体格差はこう言う時便利だとココは思う。


「僕が納得できたら、離すよ」
「そんな」
「出来なかったら、このまま2人でグルメ界一周しよう」


 ココは態と、上機嫌に言った。クラルの顔から血の気が引いても御構いなしに、


「仕事なら大丈夫さ。また、僕のアソシエイトとしてマンサム会長から許可をもらえば良い。前例があるからきっと容易いよ。手土産に向こうの食材の遺伝情報を持って帰れば君の研究室も快くしてくれるって、今、占ったら出たし。それに怖いなら、寝て起きたらもうグルメ界ってするから。それなら平気だろ? あ、久々にキッスにも会いに行こう」


 続けた。
 それは彼がグルメ界へ発ち、元の研究室の再稼働と共にクラルが第1ビオトープ勤務の復帰を果たす迄行っていたアソシエイト業。ココ自身の知識や実績の助力もあってそれなりに評価されているから、ココの言う事は十中八九、正しい。間違いなく二つ返事で、良いぞ連れてけ。と、命じられる。
 クラルはココの耳元と言う事も忘れ、叫んだ。


「理由なら、一番始めにお話ししました!」





 もう一度、説明をした。今度はきちんと順を追って、言った。
 その一語一句を静かに、でも眉間に皺を寄せて聞いていたココは、やおら、クラルを正面に据えて、言い切った。


「君、意外と馬鹿だよね」


 クラルは少し、イラッとした。
 馬鹿と言われたのが腹正しいなんて言う、研究者のプライドとかじゃなく、ただ、悩みを打ち明けてその第一声が、馬鹿だよね、は。酷い。ぎゅうっと腰を抱えられていなかったら、今直にでも膝から下りてしまいたい。


「リンちゃんだって、同じ悩み、お持ちでした。私だけと言う訳でもありませんし……きっと誰しも、思う事だわ」
「いや、そう言う大衆論じゃなく」


 ココが目の前で溜め息を吐く。彼にその気はないだろうけれど、今されるとなんだかこれ見よがしだ。


「何年、僕と居るんだよ……って」
「それは、」
「あ、別に実際の年数を聞いてる訳じゃないから。答えなくて良いよ」


 何年一緒に居ても、ココさんのこう言う所、少し苛立ちます。クラルは、心の中でメラッと思った。好きだし、愛しているけれど、確実に人の神経を逆撫でする所。本人に他意が無い分、質が悪いとも思う。


「別に、答える気、ありませんし」


 それでも黙るのは性分に合わなくて、ちょっと嫌みを言ってみる。ふーん。と空返事された。なんか負けた気になる。
 つい、ぷいっと、ココから顔を背けた。何と無しにココの肩口の奥を見る。ぱちぱちと薪を爆ぜさせる暖炉があって、その上には何年も前に撮ったお互いの写真が飾られている。白いドレスと、シルバーのタキシード。その横に、広い草原で撮ったキッスの写真。ああでも、キッスには、お会いしたいわ。お元気かしら。と、何と無しに思う。


「僕はさ、」


 不意に上がったココの声に、クラルは目線を戻した。近い距離に或る、ココの容貌に目を留める。綺麗な宝石に似た瞳が真っすぐに、クラルを愛しげに、けれど少し辛そうな表情で見ていた。
 クラルは静かに、ココの二の句を待った。唇が少し尖って居る気がするけれど、これくらい許して欲しいとも、思う。


「君が、クラルが僕に作ってくれるものなら何でも美味しいし、好みなんだよ」
「……さすが、ココ様。お優しいこと」


 ココの顔が僅かに苦渋を滲ませる。


「クラル……」
「だって、あり得ません。私のお料理は、あなたの足下にも、あなたのお力にも及ばないもの」
「だから、そう言う話じゃなく……!」


 声を荒げそうになった自分に気付いて、咄嗟に、ココはクラルから顔を背けた。厳しい顔のまま、口元を手を覆う。クラルは、暫くココを仰いで、そっと、口を開いた。


「愛情が嬉しい。と、仰りたいのでしょう?」


 ココが目線だけをクラルに寄せる。


「それでしたら、どなたにも負けないと自負しますが、所詮そんな事は……絵空事です」


 淡々と、クラルは続ける。


「ココさんが、仰りたい事、分かります。これが普段のお食事なら嬉しくて、もう、あのお言葉だけで充分。でも……こればかりは、私、今迄食べた何より美味しいって、思って頂きたくて……」


 言って、少し気恥ずかしくなった。


「クラル、」


 でも、クラルは止めなかった。ココに名前を呼ばれても、はい。とも言わず、言葉を重ねる。
 真っ直ぐに、ココを見上げる。


「本当は、お作りしたい、のよ? けれど……こう言うのは専門の方のがうんと美味しいでしょう?でしたら、私は、それが貴方自身にも良い事だと、思うの」


 クラルの告白にココは暫く、彼女を見下ろしていた。口元に充てていた手も、気付けば外れていた。そっと、下がり眉で笑む伴侶に、彼女の前で、くっと唇を嚼む。


「……分かった」


 その言葉に、クラルの顔が、波長が、少し華やいだ。けれどほんの少し、蟠りも見えた。
 本音は作りたいと言うなら、気にせず作ってくれて良いのに。と、ココは思う。味がどうでも僕は食べるしそもそもいつも、ちゃんと美味しいから、気にしないで欲しい。でも、それで彼女が納得しないなら、仕方ない。つーかやっぱり、こう言う時に口調を崩してくるとか、無自覚そうなのがまたずるい。

 ――いや、待てよ。

 不意に、ココは彼の知識の中からひとつ、或る事を思い出した。思い出し、目を僅かに見開いた。


「ココさん……?」



 怪訝な声が横から降ってくる。


「クラル」


 クラルへと、向き直る。


「明日、グルメ界へ行って来る」
「……はい?」
「そこで材料を捕獲して来るから、それでチョコレートを作って欲しい」
「え?」


 なにを仰っているの? とクラルの表情がココに言う。ココは構わず続けた。


「特殊調理食材だが、君にぴったりな物を思い出した」
「え?特殊、調理……って、ココさん私、料理人では、と言うより私の話、」
「ああ、大丈夫さ。僕が横で指示するから」
「そこまでなさいます……!?」
「心配しないで。直ぐ帰ってくるから」
「えぇ……」


 そんな、買い忘れあったからちょっと明日マーケットへ行って来るね。みたいなココの気軽さに、クラルは面食らっておろおろした。
 唯一分かった事は、ココは、こちらの話を聞いて尚、諦めないと言う意志の強さと、あさっり代替え案を提示してしまえる思考力の高さだった。




 翌日、ココは本当に行ってしまった。いつもの衣服にテーピングを身につけて、リュックを背負って行ってしまった。そして、本当に直ぐ、といっても2日は不在であったけれど、帰って来た。

 その日の朝方は、寝室に陽光が差し込む時間帯に玄関が開く音でクラルは目を覚ました。
 ほんの少し瞬きをして体を伸ばし、ナイトウェアの上にガウンを羽織りつつひとりでは広すぎるベッドから、サイドラグの上に足をつける。階下から漂う夫の気配を色濃く感じながら寝室のドアノブを引く手前で、少し引き返し、ベッドサイドチェストの天板から、クラルの物より大きなリング(それは、腐食させたくないからと言って、ココのハントの際には必ず預かっている誓いの片割れ)を摘まみ上げた。安堵と共に握り込み、玄関へと向う。


「おかえりさなさい」


 バブーシュの音を隠さずに出迎えたら、丁度ココが玄関のコート掛けにコートと腰のポーチを掛けた所だった。


「ただいま」 


 ターバンを外しつつ、クラルの姿に破顔する。
 そのまま近づいて2人はどちらとも無く抱き合った。両頬に、ココのキスを受ける。


「寝てて良かったのに」


 耳元で囁かれ、クラルはふふっと笑う。


「お出迎え位、させて下さいな」


 同じ場所にキスを返す。と、そのまま正面にもキスを受けた。軽く押し付け合って、離れる。お互い視線を交じり合わせ、忍び笑う。


「あったよ、しかも当り年だった」


 ココが本当に嬉しそうに笑った。ははっと声も零す。


「人間界の影響がどうもグルメ界にも来ているらしい」
「前回も、同じ事を仰ってましたね」
「あれ?そうだったかい?」
「ええ」


 クラルは、上機嫌で饒舌なココのハグを受け止めたまま、右肩に掛かったリュックの中身を伺った。袋は中が詰まった形に変形しているのに、口はぴったりと閉じられ、何を採って来たのかは見えない。すん、と匂いを掻いてみる。ちょっとの獣臭と土埃の匂いの向こうに、甘い香りがしていた。だから、口を開いた。


「ココさん」


 視線を上げたら、ココの顳かみに土がこびり付いているのが見えた。こちら、グルメ界の土壌かしら。と思いながらもガウンの袖で優しく拭う。


「先に、シャワーを浴びましょうか」
「いいね」


 言うなり、ココがクラルを抱き上げる。


「一緒に行こう」


 ココの行動に、クラルは眉を下げる。


「私、寝る前に入りましたけど……」


 でも結局クラルは、ココの言う通りにした。なんだかんだ、無事に帰って来てくれた事が嬉しくて堪らなかった。

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