恋愛英語 | ナノ




健康的な、清々しい時だった。


視聴の心遣いをと、ヴァイオリン弾きの青年がテーブルを回ってきた。クラルが出すより早く、ココは二人分のチップを差し出されたキャスケット帽に入れ、彼女が驚いている隙に青年を別のテーブルに促した。
ああ言うのは気持ちだから、自分の分は払うと言って聞かないクラルを飄々とした言葉でやんわりと押し黙らせ再び笑った所で、ココはつい先程の暗澹たる想像の実現の不可能を確信した。

戸惑い、呆れながらも同じ様に笑ってくれる、彼女が居る。

百の花を思わせるその微笑み。それだけで充分……、そうだ。


「クラルちゃん」


ココはやおら立ち上がり、クラルに言った。


「すまないが、少しだけ待っていてくれるかい?」
「……はい?」
「直ぐ、戻って来る。あ、でもちょっと肌寒くなってきたな紅茶を追加しよう」
「ココさん……?」


言うなりギャルソンを呼び、ココはクラルの為にと紅茶をポットでオーダーした。「あの、お気遣いな、」「そうだ。これも。風邪をひかせたら申し訳ないからね」「ココさ、」「待っていて」ついでに着ていたジャケットを脱ぎ、クラルの肩にかけた。その足で、クラルの困惑も聞かずココはその場を離れ、広場を足早に進んでいった。

クラルは、ただ、夕暮れに紛れて行くココの姿を見送った。


「……ココ、さん…」


ぽつりと彼の名前を呼ぶ。クラルの心がざわめいた。肩からクラルを包むように掛けられたジャケットをそっと握る。微かにココの匂いがした。オードトワレかそれかソープの香りだろうか。少し、胸が鳴った。けれどクラルの表情は晴れない。クラルは今日ずっと、ココの態度が気になっていた。

不安だった。

今日の彼は、時折に何かを考えていた。それはココの内に沸き上がったクラルに対する葛藤を顔に出さない様にと努めていた姿だったのだが、クラルの目にそれは物思いの延長に映った。
……退屈、なのかしら。その度にクラルは不安を抱いた。

男性の中で言えば未だ年若い方だろうが、それを補うだけの知識や経験を、ココは持っている。それを裏付ける肩書きもある。この、食の時代において憧れる人は居ないと言う美食屋業。その中でも最も誉れ高い四天王の1人として名を連ねている彼。クラルだって一応、エリートでないと入れないと言われているIGOの第1ビオトープに籍を置いているが、彼女はただ奨学制度の延長線で居るだけ。彼と比べたら自分なんてとても平凡な凡人だ。

不釣り合いよね。

先日、ついつい立ち聞きしてしまった陰口を思い出した。あの時は気にも留めなかったが、今この場で思い出すとダメージを覚えてしまう。
こんな自分と居ても、楽しく無いのだろう、なんて考えてしまった。

だって翻弄されてばかりで会話も、ウィットに富んだ話は出来ない。二人で出掛けるのは初めてでは無いが、恋人としては、初めてだ。……幻滅、させてしまったかしら。昼間良く目にした恋人達の姿を思い出す。皆、人目も憚らず身を寄せ合い、中には濃厚なキスを繰り替えしていた。自分は……とてもああなれる気がしない。唇を触られただけで髄液が沸騰するかと思ったのに。人前でなんて考えただけでも顔が火照る。きっと、抱き締められただけオーバーヒートする。断言出来る。自慢できる事ではないけれど。

クラルは運ばれてきた紅茶をカップに注いだ。ミルクを少し落とし混ぜる。

もしかして、あの時かしら。咄嗟に、慣れてみせます。と、彼に幻滅されたく無くて言ったけれど、あんな、トラディショナルな事でさえ動揺するなんて、面倒くさい女だと、……ココさんにも、思われたのかしら。彼に限っては違うと思いたかった。けれど、男の感情移行は単純に見えて複雑で、よく分からない。
笑ってくれる。優しくしてくれる。でも、子供過ぎると思われて、後悔させてしまった?マイナスは考えれば考える程きりがない。
手が思考とリンクして、気付いたら紅茶の渦がぐるぐるぐるとカップの中に生まれていた。はっとしてスプーンで塞き止める。穏やかになるのを見送って、ため息。
待てと言われた手前、クラルは大人しくココを待つと決めた。だってジャケット、預かってしまったし……けれど。クラルはカップを持ち上げふう、と息を吹き掛けた。ゆら、とロイヤルブラウンが水面立つ。そっと唇で温度を確かめた。

本音は予定が入ってしまったと言って、逃げ出したい。

一口啜ってまた、溜息を吐いた。カップをソーサに置いてシュガーポットから砂糖を2つ、紅茶に落とした。頭を使い過ぎた風でもないのに何故か、とびきり甘い物が欲しい。

ココが告げてくれた様にクラルだって彼が好きだから。嫌われたかもなんて考えると、辛かった。




何時しか太陽が落ち、広場は街灯に照らされた。

ココは、未だ姿を見せない。

クラルはすっかり冷えた空気の中で広場の時計塔を仰ぐ。丁度、ゴンガラゴンと、遠くで鐘が鳴った。あれから30分経った。あと30分で此処を出なければならないのに、彼は戻って来ない。
ポットで運ばれてきた紅茶ももう、最後の一杯に成って居る。退屈しのぎに広げていたパンプレットも粗方目を通してしまった。

……何処迄、行かれたのかしら。何をしに、行かれたのかしら。

クラルはココのジャケットの袷を手繰り寄せた。お手洗い、だったら此処ですむから……、もしかして。いえ。いいえ。あの方に限ってそれは無いわ。

でも……。

膝に乗せていたバッグからモバイルを取り出す。連絡……しても、いいかしら。良い、わよね?でも、でももし、繋がらなかったら?留守電に切り替わってしまったら?本当にマイナスは考えれば考える程きりがない。アパルトメントから夕食を求めて出てきた人が増えてきた。疎らだった席が埋まっていく。女1人と見てクラルに声を掛けて来るロメオが居たが、彼女の肩に掛かっているジャケットが男物でしかも大層な大きさだと気付くと大半が諦めてくれた。少数は厄介だったが、NOを繰り返せば諦めてくれた。それ以前にテーブルにキャンドルを置いてくれたギャルソン達の気遣いが、居たたまれなかった。彼等は一部始終を見ているのだ。

モバイルを開く。かこかことボタンを押して、電話よりメールを選択した。取り敢えず席を空けよう。クラルは思った。場所を移して、そこで待っていよう。直ぐそこの時計塔の下なら分かり易いわ。かこかこかこ。とメールを作成した。
もの言わず、消えてしまう様な人じゃない。退屈を感じたのだとしても、それをこんな方法で伝える人じゃない。……彼に、失礼だわ。気丈さを振り絞りクラルは自己を諌めた。メールを作り上げる。簡単に確認して送信ボタンに親指を置いた所でふと、噎せ返るほど芳醇な花の香りを鼻先に感じた。



[ prev | index | next ]
×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -