恋愛英語 | ナノ




ココと待ち合わせていた時は空の上空で腕を伸ばして居た真っ白な太陽も既に傾き、オランジュの光りを振りまいていた。
東に降り立った夜を僅かに留め、決められた高さで立ち並ぶ煉瓦の街を染めている。二人は、微かに街頭を灯し始めた広場の、端に有るバールのテラス席から今日を語り、暮れ泥む風に季節を感じた。


「そう言えば、」


ふとした調子でココは尋ねた。


「ヘリ、8時で良かったのかい?」
「はい。ただ、7時半迄に手続きが必要ですので、こちらを出るのは……」
「……そうか」


クラルが逆算した時間を聞きながら、ココは少し早い夕食の後のエスプレッソを啜った。ビスコッティを摘む。


「明日は、夜勤?」
「いいえ。お昼からです」
「コロシアムかい?」
「明日は別の方が。私は、研究棟勤務です」


クラルは肩を竦ませ、ブラッドオレンジを掻き混ぜた。
円柱のグラスには結露した水滴が滲み、重さを持った物からコースターに吸い込まれていく。そこに留まる物は二つのオレンジ色を混ぜ、光っていた。その渦の中に、視線を落としたクラルの不格好な笑みが一瞬だけ映り込む。

ココの、大変だね。と呟いた言葉に、平気です。答えるクラルの表情は凡そ年には不釣り合いな陰りを滲ませていた。
ココは静かに相槌を打ち、口に残ったビスコッティの欠片を深い珈琲で流し込んだ。

クラルが所属している研究チームはIGOと言う組織にとって重要かと言えば、そうではない。多くの研究がそうである様に所詮、数有るバイオテクノロジーの一端に過ぎない。彼女がアプローチしている分野だって運良く成功を収めればそれに越した事は無いと言う、その程度だ。その中でも特に、彼女は若過ぎる。人生経験の少なさから起こり得る弊害は、キャリア重視の研究職に付き物だ。クラルが籍を置く場所の内情も実情も、あの施設で育ったココには容易く想像出来た。気苦労は耐えないだろう。無理はしても無茶はしないといつかに言っていたが結局、持ち前のバイタリティを過信してクラルは突っ走ってしまう癖が有る。自分と、友人の垣根を越えてしまったのが良い証拠だ。だが……それに関して言えば、どちらかと言えば越えたのは自分だし…なんとも言いがたいが。


ココは風に乗って聞こえたヴァイオリンの音色に、視線を移したクラルの横顔を眺めた。
路上演奏家の最後の曲に耳を傾けている彼女は夕暮れに照らされて余りにも儚い。

だからこそ。力になれたら、と思う。

しかし、どちらに対してだ?ココは自問した。彼女に近い男としてと言う観点からなら、悩みや愚痴を聞き、内面から支える事が該当するだろう。けれど一時的な物だ。根本ではない。視点を根底に置き換えるなら、クラルがアプローチを図っている研究の手伝いだ。ココは、是に置いてなら自身は何より役に立つだろうと自負出来た。遺伝子ノックアウトとノックインを繰り返した所謂、トランスジェニック生物であるだけでなく、バイオハザード物質の坩堝でしかも其れをコントロールしている自分なら、被検体として申し分ないはずだ。きっとクラルの所属チームはIGO内で最も飛躍的な功績を残すだろう。ロベルト・コッホ然り、アレキサンダー・フレミング然り、成功を納めた科学者達の未来は約束される。チームの人間はきっと彼女に感謝する。代償に、被検体生物と科学者等と言った、三文芝居の題材にしても笑えない間柄になるだろうが、彼女が気苦労を背負う事は無くなる。

けれど問題がある。

奇しくもクラルの行動基盤とも言える倫理観だ。本来なら相容れないはずの科学と宗教の拮抗。それを保持しているクラルは、ヒトを被検体とする事に間違いなく拒絶する。実行するとなれば気付かせない様、注意を払わなければ……



何を、考えている。



ココははっとした。有り得ない、考えだった。彼女の、最も尊敬し尊重しているはずの観念を一瞬でも煩わしいと否定した自分に、ココは愕然とした。

僕は今、何を考えていた?

ヴァイオリンの音色が止んだ。演奏家に向けて送られる疎らな拍手に誘導され視界が、思考の根底から今目の前の風景を捕える。
オランジュの光りを受けて広場を眺める彼女。長い影が、風に流れる髪の後ろに伸びている。見つめていたら、目が合った。クラルは一瞬だけ驚いてでもそれから、照れた様に微笑んだ。
心臓が、跳ね上がった。


「素敵でしたね」


何を指してかは、直ぐ分かった。


「……そうだね」


ココはエスプレッソを飲み干して不自然でない程度に相槌を打った。
自分の考えていた事を思うと、真っ直ぐに彼女を見れなかった。これは、罪悪だ。押し込めよう。もう考えるべき事ではない。もっと、別の事を…そうだ、どうせなら彼女をもっと笑顔にする方法を。今しか出来ない事を考えるべきだろう。…何が良い?僕との時間は楽しいものだったと、彼女にも思って欲しい。…プレゼント?無難に、アクセサリー。今日の記念に…。ココは伏し目がちに考えた。
しかし、展覧会のパンフレットを買い与えた事にさえ萎縮してしまった彼女だ。あまり高価なのは拒絶される。…何が良い?テーブルの木目を見ていたココの視界にビスコッティを摘み、少し迷ってからブラッドオレンジに浸す、クラルの手先が映った。…斬新だな。それは美味しいのか?如何ともし難い味を想像した。クラルはたまに、おかしな食べ合わせをしたがる。ぼんやりと行動の行く末を眺めていたら、案の定、咀嚼したクラルの眉間に皺が寄った。予想通りの行動にココは思わず吹き出した。クラルは、ちょっとむくれた。


「……合うと、思ったのです」
「……想像がつくだろ」
「だって、ビスコッティには普通、ピスタチオ以外の味がありませんから……」
「惜しかったね。此処のはシナモンがまぶしてあった」
「……騙されました」
「何に?」
「……お店、でしょうか?」


うーんと、考えて出てきた疑問符付きの単語に、ココは、それは濡れ衣も良い所だ。と、腹を抱えて息切れ間近迄笑った。
そんなココの態度に、そこ迄笑わないで下さいな。とか言いながら、クラルも笑っていた。



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