「クラルちゃん」
声に誘われたクラルの目に先ず飛び込んで来たのは、待ち焦がれた彼の姿。ではなく、目が覚める程のヴィオレッタカラーの花々だった。ココは、それを隔てた先にいた。
「遅くなって、すまない」
急いで来たのか、彼は額に薄らと汗を光らせている。それでもクラルと目が合うと、微笑んだ。クラルは1度だけ瞬き、手前に視線を移した。
胸を華やかせる程の上品な香りが鼻を擽る。艶やかな色合いに瞳が瞬いた。ワインローズ、ガーベラ、ストロベリーフィールド。名前の知らない物もあるが瑞々しい緑の葉を縁取りに誇らしくアレンジメントされたこれは、つまり、
「……ブーケ?」
それは色鮮やかな花束だった。
クラルの独り言めいた問いに、ココは微笑みを浮かべたまま頷く。
「作られたものに良いのが無くてね。オーダーしていたら時間がかかってしまった。それでちょっと、大きくなってしまったが…」
そう苦笑するココの手から差し出されたそれは、ちょっと所では無い大きさだった。否、身長2mのココからしたら小さいのかもしれないが、クラルからすれば充分な存在感を持っている。腕に抱える大きさだ。お陰でその一帯だけ、まるで花畑を連れて来たのではと思える香りが広がった。
「……君にと、思って」
優しい声で、ココが言った。
やはり走ってきたのか。苦しそうでは無いにしてもその声は少し弾んでいる。
クラルはそっと、目の前で花弁を広げるガーベラの一輪に触れた。上質なスエードに近い感触が指先を滑る。キャンドルの明かりが柔らかく、色に深みを添えていた。目も眩む程美しい花々。その向こうでココは、それさえも霞みかねない艶やかな相貌から吐き出される息を整え、クラルに面映く微笑んだ。
「受け取ってほしい」
隣接のテーブルに座って居たシニョーラ達、気を配ってくれたギャルソン、クラルに声を掛けたロメオがまるで古き良きロマンスムービーを眺めるかの如く、視線を投げている。ココの照れ笑いにはそんな彼等に向けてもあったのかもしれない。けれど視線を集めている事さえ気付かないクラルはそっとブーケに手を添え、ココに尋ねた。
「私、に?」
「勿論さ。今日の、記念にとでも思ってくれたら……」
クラルの瞳が色鮮やかな花々の上で瞬く。
「記念、ですか?」
「ああ。君と僕の…初めて恋人としてデートをした、記念として。とても楽しかったから、クラルちゃんに何かお礼がしたくてね」
楽しかった?クラルはココを見上げる。今、楽しかった。と。今。
「それと、君さえ良ければ近い内にまた……。次は、そうだ。この隣の国はどうだい?ガウディの建築を巡るのも良いし、パブロ・ピカソの美術館へ足を伸ばすのも良いね。君が感動したと言っていた15歳の彼が描いた絵画を僕も見て、」
「楽しいと、感じて下さったのですか?」
クラルはココの言葉を無視して聞いた。
「え?」
「私といて、楽しい。と。それだけでなく…」
でも全く聞いてなかった訳では無かった。
「また、二人で…会いたいと思って下さるのですか?嘘、偽り無く…心、から?」
花束に添えた指先に少し、力を籠める。クラルの胸に温かい物が込み上げてきた。少し、瞳が潤んだ。
ココは、
「勿論だ。嘘じゃない。」
ココはきっぱりと言いきった。
「クラルちゃん。君と過ごす時間は何より素晴らしいんだ。だから僕は君と、二人で色々な所へ行きたい」
言葉を重ねながらその場に片膝を付き、クラルの目線と自分の目線を合わせる。彼女の手に手を重ねる。そっと、握る。
「……本心だ」
クラルの微かに濡れた瞳から目を反らさずに優しく、しかし力強くココは答えた。
クラルはただ真っ直ぐに、ココを見ていた。少し瞬きをしてそれから、小さく頷き、俯いた。
……何か、あったのか?ココはクラルの変化に訝しんだ。ココの中に残っている去り際のクラルと今の彼女の姿が繋がらない。待たせている間に、何かあったのか?あんな事を言い出すなんて……何があった?
ココはクラルを視た。彼女の纏う電磁波は絵画の前で見た時と違って内側が不規則に歪んでいる。不安が、見え隠れしていた。どうしてこうなっている?ココは、クラルを呼んだ。
「クラルちゃ、」
「良かった……」
何があったのかと、聞こうと思った。けれどそれよりクラルが、言葉を漏らした。
「すみません。私、思い違いをしてしまって。私てっきり……」
クラルは何かを言いかけて口を継ぐんだ。そこで止めないでくれ。滅茶苦茶気になるんだ。ココはそうとは言わずただ、復唱で言葉を促す。
「……てっきり、何だい?」
クラルは少し戸惑った。これ、言っても良いのかしら。でもココの、優しくとも巌とした瞳に気圧され、おずおずと、告げた。
「……てっきり、」
「うん」
「てっきり私はもう、貴方に嫌われてしまったのかしらと……思ってしまいました」
何でだ。ココは固まった。何で、そんな事考えたんだ。有り得ない事だぞ。僕が彼女を嫌う?どうしてそんな考えに至った。ココはクラルを見つめたまま、頭の中で自己の行動を省みていた。この子は理由も無しそんな事を考える子じゃない。ならばきっと、起因と成った事柄がある筈だ。自分の何がクラルを不安にさせたのか、彼は何時もの倍速で記憶を漁った。言葉?いや、気を配った。態度?……エスコートは完璧な筈だ。あれこれまさぐった。
クラルはココが固まってしまったのを察し、言葉を恥じた。
しまった。やっぱり失礼だったわ。えっと、えっと。クラルは頭をフル回転させ、
「その、ただの、私の邪推と言うか、杞憂ですから。だって、ココさん時折何か難しい顔をしていらして少し、上の空の時もあって……ですから、もしかして退屈にさせてしまったのかしらと。私は凡そ、恋人らしい事に耐性がありませんから面倒だったかしら。と。それに故意でないとは言え、足を踏んでしまいましたし気の効いたお話も出来ませんでしたし。ですから……」
捲し立てた。「ですから……幻滅させてしまったのかしら、と、」けれど、違ったのだ。全部、自分の早合点だったのだ。クラルは膝の上の花束へ視線を移した。
なんて酷い勘違いをしてしまったのか。ココは、想ってくれていたのに。楽しいと言って、走って、こんな気障な事迄してくれているのに。しかも次の約束まで口に出してくれたのに。考えると自分が恥ずかしくて情けなくて、でも、幸せだなんて思ってしまった。この人で良かった。この方と出会えて良かった。なんて。クラルは自分の手を包み込んでくれる武骨で大きな手を眺めて、むず痒さを感じながらも、思った。
「すみません。ココさん。私あなたに、とても失礼な事を、」
「君は……悪く無い」
ココはクラルの言葉を遮った。僕の、馬鹿野郎。クラルの言葉を受けて改めて今日一日を思い返した。彼女の愛らしさに、愛しさにずっと翻弄されていた。目を離せなかった。けれど、男のプライドから、悟られたく無くてカッコ付けた。あの時だ。この時だ。言われて、客観視してみれば思い当たる節が頻出してきた。確かに、不安を沸き上がらせるには充分な態度だった。僕の大馬鹿者。彼女に、こんな電磁波を纏わせてしまう事をするとは。こんな顔をさせて、こんな事を言わせるとは。情けない。許せない。申し訳ない。……プライドがなんだ。
ココはその場で、クラルを抱き寄せた。
クラルの身体が、微かに浮いた。パンプスの爪先が石畳を引っ掻いた。椅子がカタンと揺れた。肩に置かれていたココのジャケットが滑り落ちた。モバイルが膝から落下し、石畳が淵の塗装を剥がした。
−−あら?と思った時にはクラルはココの胸の中に居た。辛うじて椅子に座ってはいるが殆ど前のめりに近い格好で、視界はグリーン一色になっている。無意識に掬い上げていたブーケをこれまた無意識に握る。フィルムがくしゃける音がした。中に収まっている茎をしならせた気がしたがそれよりも、額に押し付けられたシャツの感触。少し汗ばんだ体温が触れて、オーデコロンのノートがブーケの香りを押して薫る。そちらの方がクラルの意識を持っていった。
「君は、悪く無い」
耳元で、ココの少し低い吐息が谺する。微熱混じりの声が髪に触れている。
「幻滅なんてしていない。嫌いになんてなる訳が無い。僕はずっと、今日一日、」
ココの掌がクラルの腰と頭を包み込む。一言一言ゆっくりと言葉を繋げる度、彼の腕に力が籠る。隙間が埋められていく。心臓の音が、とても近くて、でもそれよりココがクラルの頭に頬を寄せたからクラルはそちらに気を取られて、
「クラルちゃんの事しか、考えていなかった」
心臓が跳ね上がる
「君が不安を抱く必要なんてない」
熱の籠った声が、耳に触れた。名前を呼ばれる。すまない。と、ココが言う。きつく、きつく抱き締められ、身体が動かない。言葉が出ない。耳の傍には、ココの腕時計。お陰で秒針のリズムが自棄に五月蝿く耳についた。顔が絶対赤らんでいる。クラルは心の中で状況の説明を求めた。けれど誰一人として答えない。ただココだけが、静かにクラルに囁いた。
「君を、好きになってから僕は、君の事しか、考えていないんだ。知ってるかい?僕は、少しでも君から離れたその時から……君に、会いたくなる。だから、」
(I'm dying to see you)彼は、人目も憚らずその最愛の存在を確かめるようにクラルを抱き締め、自分を忘れた。
盲目的な感情だと言うなら、それで構わない。恋とはそう言う物だ。(Love is blind)お互いがお互いの想いを正しく認識し合えれば良い。だって彼女の事で頭を満たされる一日の、どれ程幸せな事か。(I think of you night and day)欲を言えば二人一緒に、幸せだと言える関係を築きたい。(We are happy togeter now)だから、それまで。
『That's what I'm here for’』
"僕は君の近くにいる"
「−−帰したく、ない」
Fin
→あとがき