そう言えばクラルが席を立ち上がった時。
その重い椅子を引いたのは接客の教育を受けた卓付きのスタッフではなく、まるで想定していたとばかりにそこに居た、ココだった。
彼女の行動のフォローは全て自分の職務だとでも言う様に椅子を引きその離席を助け、彼女の礼を受けてた後はそこが本来の定位置なのだと言わんばかりに彼女の右側に寄り添う。その時点で小松の目には2人の距離が、ただ成らない程に近く見えた。
ココが取り分け身丈のある逞しい男性だからかもしれない。ポロのネクタイで絞められたアッシュグレーのシャツと上等な革ベルトで留められたチャコールカラーのスラックス。それと併せられたと思しき同色のジャケットはボタンも留めず中に着込まれたベストを覗かせているのにその体躯は勿論、旬の男が持つ魅力を一層に引き立てていた。
美丈夫の洗礼された佇まいはランクが高ければ高い程ただでさえ威圧感が凄まじいのに、ココだと尚更。
見慣れた背後のシティ・ビューの夜景がいつもの倍輝いて見える程に彼の立ち姿は完成されている。
だから、実際目の当たりにしている物より距離感が近いと感じたのかもしれないがでも、直ぐに小松はそれだけでないと理解した。
ココは、クラルと小松への挨拶が済む頃合いを見計い彼女のハイウエストで強調された腰に手を回し、その体ごと自身の見頃へと抱き寄せた。だけでなく、上品なブラックの膝下丈の揺れが納まる頃にはすっかり、ジャケットの上からでも伺える位に逞しい腕の中に囲い込んで、逞しい胸の中へクラルを寄り添わせ、参った。なんてクラルのウィットと戯れに肩を落とした時にはそのこめかみに、鼻先を寄せただけにも見える軽めのキスだってしていた。
それはハリウッド製ラヴ・ロマンス並みの、改めて思い返すと小松の方が訳も無くドキドキしてしまう動作だったが、目の前の男女はそれをごく自然に行ったのだ。
普段の、2人の生活が透けて見えそうな雰囲気に心臓が五月蝿いよりなんか、本当に勘弁して下さいと頭を下げたくなるくらい、恥ずかしい。
小松は改めてバックルームで啜り泣いていたフロアレディ達に同情した。
この睦まじさを見せ付けられては泣きべそをかいてしまうのも、頷けた。
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「それじゃあ小松君。…今日は有り難う。料理、凄く美味しかったよ」
「こちらこそ、ありがとうございます!」
あれから直ぐ、これ以上小松を引き止めては仕事の邪魔になると発言したココがクラルに、退店を提案した。
もうお帰りですか?と小松はちょっと名残惜し気だったが目の前の麗人に、彼女ももうこんな状態だからね。と、かららくすくすと上機嫌なクラルを胸に笑まれては引き止める方が野暮である。
一見すると困り顔で腕の中のクラルを顎で示し肩だって竦ませて見せたが、そのにやけた口元はココの胸中を素直に表していた。
「ほら、クラル。ちゃんと歩けるかい?」
簡単な別れの挨拶の後。プライベートルームを抜けて出入り口からロビー直行のシャトルが有るホールへと続く僅かな距離でもココはクラルを気遣った。肩を抱き、アルコールの抜け切らない彼女へと向き合う。
「まあ失礼ですね。」
けれどクラルはちょっと唇を尖らせて肩を抱く男の掌をそっと外した。
「私、そこまでじゃ有りません。見ていらして」
言葉の正しさを証明する様にクラルは、姿勢良く数歩足を進める。確かに、ココの腕から擦り抜けた足取りは見かけ程浮いていない。ウェッジソールの安定感とヒールの美しさを兼ね備えたパテントの黒いパンプスは確りと大理石の床を捉えている。
「如何です?」
繊細な細工が施された蝶貝色の門の手前でスカートの裾を僅かに膨らませたターンで振り返り、クラルは指先に引っ掛けた細いチェーンのバックストラップからクラッチを戯け気味に揺らした。
「…大したもんだ」
一部始終を見届けてからココが一歩半の歩幅で苦笑しつつクラルに寄る。
「君が見かけより確りしているのは良く分かったよ。でもだからって、あまり僕から離れないでくれ」
「何故です?私は、支えが無くても歩けますよ」
「僕が歩けないんだ」
ココの台詞にクラルの目が、あら。と見開き笑った。
「…ココさんが?」
「そう。クラルがここに居ないとどうも落ち着かなくてね。」
広げた左掌を上に肩を竦ませて、ココは先程迄クラルを囲っていた左腕と胸の空間を態度で示す。
「足が上手く地面を掴めないんだよ。目的地も見失ってしまう。あっちへふらふら、こっちふらふら…とね。」
戯けたココの調子にクラルはからころと鈴の音色で笑った。
「まあ。大変」
「そう。大変なんだ。だから…僕から離れてくれるなよ」
最後の台詞は、クラルにだけ聞かせる為に囁かれた甘い声だった。一瞬、その場に上質な白百合の芳香を思い起こさせる位に芳醇で濃密な空気が満ちる。
けれどクラルはその渦中であっても至って変わらず
「本当に、仕様の無い方」
上機嫌な頬のまま自分から目の前に立つココの腕の下に納まって、彼の腕がごく自然にクラルの肩を包み込めばクラルも、慣れ親しんだ動作で彼の腰に腕を添えた。体の半分を預けた胸元からココの顔を仰ぐ。
「これで、真っ直ぐ歩けますか?」
「ああ、助かった。これで道を間違えずに歩けるよ。やっぱりクラルは、僕の永遠の恩人だ」
「また、そんな事仰って。もう」
ナニコレ…。と、頬に汗を垂らしたのは小松の横に並んだマネージャーだった。
小松は目の前の2人の行動に途中迄はマネージャーと同じ心境で居たが、クラルがココに自ら寄り添いココもそれに答えたその一連の睦まじさを見た時に、あ。と、彼はあの砂浜の洞窟での出来事を思い出した。
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mae tugi