意気地なし


言葉は、とても重くてそして同時に、とても軽い。
イースター休暇を終えた私は、久しぶりに職場に訪れた。

首から下げただけのID証が、カチカチとみぞおち辺りで揺れる。
履き慣れた仕事用のブーツが床を踏む度にカツカツと鳴く。


「あ、クラルさん。ごちそうさまです」
「ごちそうさまです」


擦れ違う研究員とここ独特の挨拶を交わして、真っ直ぐにエレベーターへ乗り込み、地下へと進んだ。
IGO第一ビオトープ。通称グルメ研究所。下に進むに連れて猛獣のいななきと、血の匂いが濃くなってくる。その、地下60階へ私は向かっていた。

降下していく無機質な箱の中で、両手にサラマンドラゴの皮から作られたグローブを填めた。エレベーターは50階を過ぎた辺りで緩やかに減速を始める。微かな重力が肩に掛かる。けれど、もう耳鳴りは無い。私の体はすっかりこの場所に適応していた。ただ静かに、上部のモニターを注視する。モニターには、到着階の現状が映し出されていた。

無機質な音を鳴らして、エレベーターが止まった。
扉が開くその僅かな時間に私は一歩後ずさって、腰のベルトに納めていた鎮圧用のフルウィップを取り出す。グリップを握って、先を床に垂らした。グリップのサイドに隠されたダイヤルを回す。じりじり、尾が赤くなる。

がこ、と音を立てて扉が開いた。同時に聞こえた悲鳴と鳴き声。悲鳴は細くなり鳴き声は大きく、扉の隙間を潜って来た。モニターに映っていたの猛獣の腕が、こちらに向かって振り上がったのが見える。


一歩、右に反らす。鼻先1cm前で、鈍色のかぎ爪が空を切った。私は、すかさずエレベーターから飛び出す。背後の機械からエラー音が響く。
眼前には猛獣−−様々な生物の特色を掛け合わせたチェインアニマルが、血を浴びて咆哮していた。(おとなしく、なさい)躊躇う事無く、私は摂氏1000℃を超えた鞭を獣の右側頭部へ向かって正確に振るった。
獣は断末魔を滴らせて後ろへ倒れ込み、そのまま痙攣した。


「クラルさん!」


声を上げたのは、すぐ前で床に膝を付いた研究員だった。その横には先の合成獣に傷を負わされたと思しき男性が。ぐったりと横たわっていた。血は彼の物だったのねと、気付く。


「その方の、ご容態は?」
「はい!……意識レベル200です!」
「分かりました。救護班!担架を!捕獲班は速やかにアニマルの捕縛をお願いします!脳震盪と熱へのショックが治まる前に麻酔を打ってケースへ……!」


途端に冷静さを取り戻した室内で、私は辺りを見回した。
所狭しと置かれた特殊素材の檻。中には様々な形態の生物がストレスを抱えて叫ぶ。

獣の匂いが一層鼻につく。原始の森が存在するなら、きっとここと同じ匂いがするのかしら。

だって、そこで働く人間は皆さん似た格好をして、けれど誰ひとりとして同じじゃない。

ここでは、五体満足である事が異質な空間なのだと、足を踏み入れる度実感する。
しかも、休暇明けは、尚更。なんだか憂鬱になる。


「クラルさん。搬入、終わりました」


先程とは違う職員が、電子パッドを左の二の腕に装着して報告をくれた。彼には、肘から下が無い。


「ありがとうございます。怪我をなさった方は?」
「現在治療中です。処置が早かったので、命に別状は有りません。ただ、」


それから、新たな欠損箇所を教えてくれた。私は静かに、それを聞いた。淡々とした職員の口調が、最後にこう締め括る。「……以上のリストを定期損傷報告ファイルにファイリング致します。確認と、署名を」


定期損傷報告。それは名前の通り、月に一度職員の’損傷’を上に伝える書類。
ここでは一般企業の様に個人での労災報告は行われない。そんな事をしていたら、窓口は一日でパンクする。


「こちらで宜しいですか?」


私は無機質に文字が並ぶ、電子パッドを覗き込んだ。


「ええ。しかし、ラッキーでした。他の調教師の方々は今日、コロシアム勤務でしたから。クラルさんが出勤して下さった御陰で、被害は最小です」彼は窪んだ目で笑う。「……お役に立てたのなら、光栄です」私はタッチペンを引き出してサインをした。クラル・ノースドリッジ。サインの上に人差し指を滑らせて上書きされない為の生体ロックを掛ける。


「そう言えば、リン様を見かけませんでしたか?」


私は仕事用の呼び名で、友人の所在を尋ねた。





「クラル!ごちそうさまだし〜」
「ごちそうさまです。リン様。案内して頂き、有り難う御座いました」


研究所から少し離れた実験室にいらっしゃる様です。と、別の職員が教えてくれた。彼はご案内致します。と、場所さえ教えてくれれば結構ですよ。と言っても聞かず、丁度手が空いたので。と、本当に案内をしてくれた。



「いいえ。では、失礼します」


彼は会釈をしてスライド・ドアの奥に消える。
それを見送って、リンちゃんが意味深な目で私の顔を覗き込んで来た。「ココが早くクラルを退職させたい理由。何となくわかったし〜」「はい?」確かに、彼は私が此処で働いているのを良しとはしない。常に危険と隣り合わせで、いつ何があるのか分からない。けれど、


「今の事とそのお話、何か関連が有りましたっけ?」


リンちゃんは、エレベーター前の出来事を知らないはずなのに。


「……別にー」


数秒の沈黙の後、間延びした声で彼女は言った。







「てかさ、クラルの所にマリアから連絡って来た?」
「…え?」


あれから、猛獣控え室に移動して彼等の状態を見た。同職員に休暇中の状況を教えて頂いて、体調が芳しく無い仔を獣医班に託して、私達はようやく遅いランチを摂る。
リンちゃんの言葉に、私は酷く動揺した。
今日の朝準備した温野菜のソテーをフォークに刺したまま固まる。


「えっと、どう言う、」


無意識に声が上擦った。
彼女は、サニーさんの妹。ある意味異変に一番気付きやすいポジション。


「んー。前の女子会?から、ぱったり連絡無いんだし。何時もだったらそろそろこっちに遊びに来るって連絡あっても良い頃なのに…」


リンちゃんは、研究所で用意されたサンドウィッチに齧り付きながら器用に溜息を吐いた。
私は心拍数の上昇を抑えられない。


彼女の言う女子会は、私がマリアのコールで起こされた前日の事。後ろで、男性の声を聞いた日の前の夜。4日前。


「……サニーさんは。なんて仰ってるの?」


その声は、自分でも驚く程無感情だった。まるで用意された台本を口に出したみたいに。
リンちゃんは少し訝しんで


「…お兄ちゃん?」


とだけ言う。「ええ。サニーさん」私は取り繕う様にフォークを置いた。「その日、ふたりを迎えに来てくれたのでしょう?」そして、『女子会』の夜にココさんから聞いた事を口にした。
リンちゃんは、うーん…。と右上を見ながら唸った。


「うち、その事良く覚えて無いし…」


サンドウィッチを咀嚼して、ブラッドオレンジジュースで流し込む。その姿を、私は半分呆然としながら眺めた。


「それ、どう言う意味です?」
「実はあの夜、うち酔いつぶれちゃったんだよねー」


彼女は苦笑する。


「クラルが帰った後もマリアに誘われるまま飲んじゃって。気付いたら部屋に居たし」
「……おひとり、で?」
「うん。いくら甘くてもやっぱお酒は控えなきゃだね!うち弱過ぎだから。」


あはは。と笑う。
その笑顔は清潔で明るい。
私は身を乗り出した。


「じゃぁ、サニーさんは?」
「んー?聞いた話だとうちをヘリに乗せた後、明日帰るって言って戻ったって。何でだろー?って思ったケド、クラルの話だと、」
「マリアを、送り届けた?」
「て事だよねー。てかお兄ちゃんってマリアんち知ってたんだ…」
「何度か、遊んでますからね」
「んー。…やっぱあの二人付き合えばいいのにー」


目の前がくらくらした。

リンちゃんが、カップに刺したストローからジュースを啜る音がやけに大きく響く。
朱色の液体は、もうクラッシュアイスに色が絡む程度しか無かった。
それはもう、無惨な色合い。ヴィヴィットな現実。
目を逸らしたくて手元のフォークに刺さったままのブロッコリーを眺めた。艶やかな緑色。緑には鎮静効果が有るとか無いとか。


「それ、で……」


食べて無くなってしまう前に、その恩恵には預かっておきたい。
後に残るショックの余韻は最小が良い。(そもそも、いま余り食欲有りませんけど…)フォークを抜いて、少しつつく。アーモンドキャベツの上を転がるブロッコリー。ここにそれを咎める人は居ない。


「サニーさんは…今どちらに?」
「今?今はー…多分、第2だと思うし?」
「はい?」


ざく、と。小気味のいい音を立てて、ブロッコリーとアーモンドキャベツが繋がった。

「第2って、第2ビオトープ…ですか?」
「そうそ。なーんか一昨日帰って来てすぐ、いきなり、はちゃめちゃに仕事入れたんだって」


一昨日。私は時間を逆算する。


「それで、今はそこ…だと思うし。てかクラル、お兄ちゃんに用事あった?何なら後で電話するし?」
「え、あ。いえ。いらっしゃらないのなら。別に……」


大した事では無いなんて、当然言えないから。私は蟠りを残したまま、串刺しの温野菜を口に運んだ。
それにしても第2ビオトープなんて…、直ぐ隣接している第1ビオトープさえ、一介の職員では入れないのに。
場所が全く異なる'庭'に入れる訳がない。



「お戻りになったら、問いただしてやります。」
「へ?」


…失態。口に出てしまいました。


「今、クラル、問いただ、」
「あ!そう言えば、この後トリコさんが入島される様ですね」
「嘘!トリコが!?クラルそれマジバナだし!?」
「ええ。所長が職員に命じてヘリを飛ばしてましたよ。」
「もー!あのハゲ!!そー言う事は言って欲しーし!ちょっとうち化粧して来る!!」
「いってらっしゃい。急いだ方が宜しいですよ。多分もうすぐいらっしゃいますから」
「もー!!あのハゲタコ!」


慌ただしく食堂を去って行くリンちゃんを見送って、私は心の中で所長に謝った。

リンちゃんが騒ぎ出すから、ミスが多くなるから絶対に内緒にしてろって言われたけれど。承諾、しましたけれど。


(そちらは、バレないで終わった方が怖いものね。それにミスは、それをフォローするのも私のお仕事ですし。)


最重要問題は、もう一つの方。

私はモバイルを取り出して、着信履歴と睨めっこした。

……やっぱり、メールより電話の方が、手っ取り早いわよね。でも、どうしましょう。珍しく緊張するわ。始めの言葉に悩んでしまうなんて、よっぽどよね。だって、最後が最後だもの。だからきっと、最初の一言はとても重いから。マリアの言い方に変えたら、とってもヘヴィ。


「…………」


くるくると、着信履歴をスライドさせる。

リンちゃん、所長、ココさん、ココさん、サニーさん、リンちゃん、マリア、ココさん、ココさん、マリア、ココさん、ココさん。ココさん。


「……。今って、お仕事中かしら」

足をぷらぷらさせて、人参をつつく。
急に、彼の声が恋しくなってしまった。
優しいリズムを耳に刻んで、そうしたら踏み出せそうな気がしてしまう。
最近の私は、少し、意気地なし。




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