心に適う者


始めは、何が起こっているのか理解出来なかった。
薄暗い部屋の中で目を醒した私は、清潔な枕カバーに頭を預けたまま目頭を指で数回擦る。「、マリア?」そしてそのまま眠りに落ちる前に会話を交わした友人の名前を呼んだ。でも、答えは無かった。部屋は真っ暗で、直ぐにああ。マリアはあの子の部屋に戻ったのかしらと思ったけれど「マリア、。」私はもう一度だけ彼女の名前を呼んで、体を起こそうとした。
けれど直ぐ胸の奥に鈍い痛みが走ってまた、ベッドに逆戻り。

痛み止めが、切れ始めている。

ほう、と息を吐いて腕を見ると、ずっと繋がっていた点滴は外されていた。
そう言えば、最後にしていた点滴は治癒促進剤だったかしら。じくじくと熱を生む胸に息を吐き出して対抗しながら、私はベッドサイドの時計を仰いだ。8時5分。月明かりだけの部屋でデジタル時計が点滅している。
私は、微かな違和感を感じた。だって、記憶違いでなければもう面会時間は終わっていて、マリア達が居ないのも納得出来る。出来るけれど、勘違いでなければ私はもの凄い音を聞いて目を醒した気がするの。

まるでいつかの寄宿学校時代、マリアがクラスメイトに向かってスクールバックを投げた時の様な。それこそ目が覚める様な音。


(まさか…ね)


目を閉じて、小さく笑った。
あの時の血気盛んなマリアが投げたバックは、意地悪な顔をしたクラスメイト達の間を抜けて壁にけたたましく当たったのよね。とても驚いたけれど、御陰で私は大切な宝物をきちんと取り返す事が出来た。
そう言えばあの日からだったかしら。マリアが、私の傍に居てくれる様になったのは。
マリアほどのクラスなら他にも沢山の相応の友人が居たのに、後見人さえ満足に居ない私の手を取ってこう言ってくれた。私の方がよっぽど好きよ。と、そうしてこうも言っていたわ。簡単に人を見下す、ちっぽけな人達なんてごめんよ。マリア・ハートフルにはふさわしくないのよ。って。ナイトガウンの少女はそう笑うと、ドレッサーの前に座らせた私の髪をブラシで梳いてくれた。

私の髪を、東洋の織物みたいだなんて。染めないでちょうだい。だれかのまねはかっこわるいことなのよ。なんて、言ってくれた。

私は得意げに話すマリアを思い出してそしてすぐ、同じ様に私の髪を褒めてくれたもうひとりを思い出した。その人は、絹糸みたいだ。と、私の髪に口付けを落としてくれる人だった。

名前を呟いてしまいそうになった唇をきゅっと結んだ。閉じると、外に出損なった言葉がころころと小石の様に喉の奥を滑って、鳩尾の辺りで暴れる。苦しくって、胸が痛い。
怪我の痛みなのかもしれないわ。けれど、分からなかった。痛いのも、苦しいのも、じくじくと熱いのも。ただやりきれなくて。ほう、と重く長い息を吐いた。


「、どうし」


吐き出すと、溜息に紛れて純粋な疑問が零れる。けれど私が、全てを吐き出してしまう前に、私の耳が声を拾った。何よ。と、少し怒った声はいつかのスクールバックを投げた少女を彷彿とさせた。


「、マリア…?」


もしかしてまだ、近くに居るのかしら。
誘われるままにスライドドアに顔を向けた。ドアはきちんと閉じられていて、でも…廊下に、まだ明かりが灯っている?面会時間は、過ぎたはずなのに?
そう言えば少し外が騒がしいみたい。マリア。そこにいるの?と、ドアの向こうに向かって問い掛けようとしたけれど、私はそれが出来なくなった。

変わりに、小さく呟いた。うそ。唇が戦慄く。

熱を持って緩やかに痛む胸が、きゅう、と。締め付けられた。嘘、嘘、嘘…でしょう?


「どう、して?、」


細い声に乗って零れた言葉は、先程と同じなのに、先程より明確な問い掛けを持っていた。だって、だって、何故?確りと閉じられたドアの向こうから届く声に鼓動が忙しなく動く。


、妬ましい位だ。と、ドアの向こうの声が届いた。


私は、その言葉を吐き出した、その声を良く知っている。
少し低くて、優しい声。私の髪の先に口付けた、その唇が零す音。囁かれると、嬉しいのにくすぐったくなってしまうそれは、私を、初めて特別な女の子にしてくれた方の、声。

意識を向ければ其れは明瞭に私の耳に届いた。次に届いたマリアの声が、疑惑を確信に変えてくれた。、ココ?と、聞こえた途端手が無意識にシーツを引っ掻く。

そこに、いらっしゃるの?視界の端で揺れるカーテンの、向こうの、閉じたドアの、その先に。

近づけば、触れられる距離に、あの人がいらっしゃるの?

私は胸を押してゆっくりとベッド上で半身を起こした。ほんの少し動くだけで、ズキズキと刺す様な痛みに襲われて眉を顰めてしまう。そう言えばマリア達が宿泊申請の為に部屋を出てから訪れたドクターには、一日安静に。と、言いつけられたわ。勿論、其れを反故にはしません。しないけれど、でも、今だけは良いでしょう。
今の私は、そんな事に構っていられない。


「、っ。」


だから今だけは。今だけは暴れないで、お願い。だって彼の声が聞こえるの。彼が、近くにいらっしゃるの。いい子にしていて。お願い。
私は奥の歯を噛み締める。シーツを握りしめて、痛みをやり過ごす。こめかみから滲み出た汗が、頬を伝う。息を吐く。途切れ、途切れの会話が聞こえて来る。

お行儀が悪いなんて事、知っているわ。いつもだったらこんな時はヴォリュームの絞ったラジオを付けて、素知らぬ振りをするもの。必要だったらイヤフォンも付けるわ。けれど、今は、今だけは耳を傾けてしまう事を、違うと、今は貴方だけが大切だと、その声に答えを呟いてしまう事を許して。
盗み聞きをして、涙を零してしまう、浅ましい私を。だって、だって。

クラル・ノースドリッジも、貴方を深く愛している。
私は、貴方の、貴方だけの、クラル・ノースドリッジだから。だから、。

シーツに刻む皺を深くした。軋んでしまう位深く歯を食いしばった。胸の奥がじくじくと悲鳴を上げて、呼吸の度に熱くなるのは、体の熱が上がっていくのは受け入れるべき事なのだわ。そんな事は大切な事じゃない。

重要なのは、私の足が、今日は動く事でしょう。

頬を流れる雫を拭う。
手を伸ばして、苦しくなる事が何だというの?痛みで呼吸がまま成らない事も、声を出す喉が熱を持ち始めてもそれが、何だというの?
そんなのは彼が受けた痛みに比べれば、何だと言うの。

悲痛な顔で私を抱き起こして、謝罪を口にし続けた彼。体を自力で起せるくらいには回復した私に、別れを口にした彼。私の為だと、泣きそうな作り笑いで。自身の幸福を蔑ろにした、優しい彼。
彼の方が、ずっと、ずっと苦しくて痛かったはずでしょう。
こんな自業自得の痛みなんかよりずっと、ずっと。

私は腕に力を込めてゆっくりと体をずらした。転落防止の短い柵を避けてフローリングに足を付けた。先ずは左足。そして右足。息を吐く。額に滲んだ汗を拭う。素足一杯ににひんやりと固い感触を受けて柵を支えに立ち上がった。
けれど上手く足に力が入らなくて、直ぐにその場にへたり込む。無茶をするからだと、包帯の奥の傷が嘲笑って私を責める。
私は痛む胸を押さえてもう一度、包帯の巻いていない方の腕を支えに立ち上がった。

大丈夫。大丈夫よ、クラル。
苦痛をこの場に捨てる為に息をもう一度深く吐く。

この、誤解も解かなければいけないでしょう。こんな事迄、彼の重荷にしてしまって良いはずが無いわ。
だから、一歩ずつ自分の足で、地面を捕えて歩くの。彼の手をもう一度取りたいから。もう一度、彼に、彼に私の想いを伝えたいから。

私も、愛している。貴方を愛していますと。

だから許されるのなら私は、もう一度貴方の傍に居たい。今度は間違えません。
彼の恐れを飲み込んで貴方を支えていきたいのです。もう一度貴方に、クラル。と、呼んで頂きたいから。恐れの無い愛を語り合いたいから。

諦めるのは、其れからでも遅くはないでしょう?

一歩ずつ、ベッドサイドのキャビネットや壁伝いにドアへと向かう。
進む度に声がとても近くなる。痛みを訴える胸の奥が、きゅうと、締め付けられる。


それでも。私は、掌でざらりとしたドアに触れた。

息を吐いて、鼓動を整える。

マリアの声が聞こえる。お似合いじゃない。って。けれどぶっきらぼうな声に、本当にそう思っているの?なんて考えてしまって少し、笑みが零れた。サニーさんの声も届く。だとよ。なんて。きっと、ニヒルな笑いを讃えていらっしゃるのでしょう。それにしてもリンちゃんではないけれどあのふたり、本当に息がぴったり。

そして、彼の声。、嘘だなんてそんな、悲しい事仰らないで。あんな事、私にとってはとても些細な事なの。それに、あの時、私を救って下さったのも貴方なのに。どうして貴方を拒絶出来ると言うの?

だから信じて頂けないのなら、私の言葉で。貴方に触れて、貴方だけを見て、貴方に、答えを。

貴方の気遣いを理解出来ない様な少女では無いけれど、愛し合っていると、知っていながら彼を慮って身を引ける程まだ、私は大人になっていませんから。
神の道の教えを頂いていながら私は、なんて欲張りでエゴイストなのでしょうね。でも、貴方の為なら、地を這う獣で構わないとさえ思ってしまうのです。
痛みの波が、緩やかに引いていく。


『クラル本人に聞けよ』


そしてサニーさんの言葉に私は静かに意志を固める。
そう、お願い。私と向き合って。もう二度と心を隠したり、取り繕ったりなさらないで。


(私も、もう。貴方の恐れを作らない。どんな些細な事でも……貴方に誓いを。)


息を、吐いて吸って。ドアから手を離す。私は確りと、私の足で私を支える。
けれどノブに手をかけようとしたその時。サニーさんの声に重なるみたいに、ドアが勢い良くスライドされて、私は突然視界を覆った眩しさで小さく声を上げた。

ちかちかする目を瞬きさせて、徐々に光に慣れていく視界を感じながら私は頭の片隅で、ああ。今、触覚をお使いになられたのねと。


「世話かけさすんじゃねーし」
「…すみません」


飄々とした声に苦笑した。あの方は、いつから気付いていらしたのかしら。

でも、飛び込んで来た姿に、声に。私は五感の全てを持っていかれた。


「クラル」


目の前に、彼が居る。思っていたより近い距離に。彼が、私を見下ろして、私を、いつもの様に呼び捨てて、呼んで下さった。だから、


「はい」


私もいつもの様に、真っ直ぐ彼に答えた。
彼は私の答えも待たず咄嗟に口元を押さえたけれどもう、そんな事は構いません。

だから、私は彼の手を握るの。

だってその言葉が、貴方の本心なのでしょう?取り繕いの無い、言葉なのでしょう。


「はい。ココさん」


だって戸惑って、恐れていらしても彼は言い直しなさらなかった。一週間前の隔たりをお作りにならなかった。瞳も、ただ私だけを見ていて下さった。
大きな手は触れた瞬間、微かに硬直なさったけれど、触れるな。なんて嘘でも彼は仰らなくて、其れよりも彼は反射的に私の手を指先だけでも握り返そうとして下さったから私は、其れが嬉しくて。

胸の痛みなんて無かった事にしてしまう程の、幸せな温もりに重さに、私は貴方だけを見つめて笑えた。


「貴方の、クラルです。ココさん。」
「…クラル、ちゃ」
「クラルです。ココさん」


彼に、ただ呼び捨てられた。そんな聞き慣れた言葉が、今の私をとても幸福で強かな女に変えてしまう。


「私はただの、貴方だけの、クラルですよ」


だって女の子は、貴方が考えていらっしゃる様な儚いお砂糖菓子でも脆いお姫様でもないの。

私は口に入れても海に沈んでも泡の様に溶けてしまわないから。

だから私は、貴方をもう二度と不安にさせたりしないと貴方だけに誓います。


「やっと貴方に、触れられました」


今から、貴方だけに。






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