触れない愛


彼の正式なガールフレンドになった、あの時のクラルの声を良く覚えている。
私にはいけ好かない男だったけど、クラルには凄く優しかったし何よりお互い想い合っていたの知っていたから。だからモバイル越しの吉報に、心から幸せを祈ったわ。

実際ココと居るクラルは幸せそうだったもの。聞いたら恥ずかしそうにしながらも色々と教えてくれた。だから思ったの。
慰めるのは私の役目じゃ無くなる。零れた涙を掬うのは私の指じゃなくて、彼の舌先になるのねって。
だってあいつの方が、クラルに夢中だった。


違うわ。
あの男は今も、クラルが特別。


だからあいつは現れたのよ。PM7:50。面会時間終了ギリギリに。治癒促進剤か鎮痛剤の副作用で寝息を立てているクラルの個室の前まで。

私は飲み終えたカップをダストボックスに捨てに行った帰りだった。廊下の向こうに、長いシルエットが二つ。1人は当然サニー。そして、サニーより頭ひとつ高い影。私は一瞬だけ息を飲む。けれど直ぐに足早に歩いた。
やっぱり、あの子を無理矢理寝かしつけたのは正解だったのかもしれない。あいつの事だからそうじゃなきゃ、引き返したでしょ。


「ココ!」
「…マリアちゃん、」


でもだからこうしていけ好かない奴と、ご対面出来るってものよね。
ありがとう神様。ありがとうついでに、クラルの個室を端部屋にしてくれた事にも感謝するわ。「どうして君が、」「どうして?それはこっちの台詞よ」御陰で目の前のミスター・タワーとの距離だって詰めれる。ああもうひとつ、今日のクラッチ。ショルダータイプをセレクトしてくれてありがとう。
それにしても、私ってホント駄目ね。何処迄も感情を抑え切れないのよ。あいつのすました顔見ちゃったらね。勝算とか、打算とか。とにかくそう言う類いの小難しい事全てどっかに飛んで行くの。
そう言えばルソーかゲーテだか忘れちゃったけどそんな事を謳った名言があったわよね。女は感情。だったかしら。
だって私はタイルをヒールで打ち鳴らしながら、「この、」しっかりとショルダーチェーンを掴んで


「い、まえ。おいマリア!」
「バスタード!」
「、!」


サニーの声もおかまいなしにココの頬に向かって思いっきりクラッチをスイングした。だって身長高過ぎて手じゃ届かないもの。それに、なにかあったら怖いじゃないのよ。
クラルと違って私は、あれ見ちゃって以降あまりココに触りたく無いのよね。でもおかげで斜めに振り上げたクラッチは小気味の良い音を立てて狙いの場所にクリティカルヒットしてくれた。


「ぶね!まえ!俺にも当たりそうになったろうが!」
「サニーなら避けてくれるって信じてたわ」
「んっだそりゃ…」


ココのサイドにいたサニーが距離を空けて盛大に溜息を付く。


「……エンブレムは、流石に痛いな」


ココは薄く笑うと赤く腫れた頬に当てていた手を滑らせて、切れた唇を親指で拭った。「良いじゃない。更にクールになったわよ。くされ野郎」私はクラッチを回しながら普段はあまり口にしないスラングを吐きまくる。
てゆーか、当たっちゃたわ。かなり澄ましてみたけどてっきり避けられるか受け止められるかと思っていたから意外で、私かなり心臓ばくばくなんだけど。
だってどうあれこいつも、サニーと同じ四天王よ。それに動体視力は四人の中で一番よ。何よりヴィジュアルだけはハイブランドの専属モデルやNBA選手顔負けのビーフケークなのよ。
そう言うものは愛でて行きたい身としては、ちょっと罪悪感なんだけど。でもそれはこいつのルックスに関してだけよ。だって中身はとんだチキンだから。そうね、私、悪く無いわ。


「でも、今日中にクラルに会いに来た事だけは褒めてあげる」


クラル。その言葉を発した時、ココの表情が一瞬だけ揺らいだ。


「…会いに、来た訳じゃない」


でも直ぐにゆっくりと、私に取って信じられないパラドックスを口にした。私はクラッチを回していた手を止めてココを見上げる。
だらりと、重力に従って振り子の様にクラッチが揺れる。


「今、なんて言った?」
「会いに来た訳じゃ、」


陰湿な廊下にもう一度、けたたましい音と「ちょ、ま!」サニーの声が響いた。
次は下から上に向かってクラッチを振り上げて私は、ココに二度目の攻撃をした。あいつはまた素直に受け入れる。苛立たしいわ。


「聞き間違いかしら」


私は遠心力に腕を引っ張られてもう少しでクラッチを手放しそうになった。それでも、澄まして続ける。「今、会いに来た訳じゃない。とか、最悪なジョークが聞こえたんだけど」クラッチを回す。
ココは黙って顔を戻すと血が滲む唇を手の甲で拭った。そして拭った血に視線を落としたまま「、冗談じゃない」呟いた。

私はもう一度クラッチのショルダーを持つ手に力を込める。けど、「サニー、離して!」「まえは。ちったー落ち着け」両肩を包み込む形で掴まれちゃったから、振り上げようとした腕は全く上がらない。そして続けざまに諭された。


「まり大きな音出すと、クラルが起きっぞ」


卑怯よ。そんな事言うなんて。私は腕に込めていた力を抜いてタイルに視線を落とした。クレストエンブレムのパンプスがしっかりと地面についている。
両肩にあるサニーの掌まるで私を地面にしっかりと繋いでくれているみたい「…そうね」背後で、サニーが安堵の息を零した。


「まえも、すかしてねーで何とか言いやがれ」
「…何か言える状況じゃなかったんだけどな」
「今ならいいだろ」


頭上で会話が飛び交って私は下を向いたままその声を聞く。
だって、今またあいつの顔見たら、私はまたクラッチをバッドにするもの。サニーの腕から抜け出して、あいつの顔面目がけて思いっきりに。ぶすぶすと焦げ臭い感情が未だ私の中にあったの。私がどうやってあいつを此処に呼び出したのかさえ忘れて、だた苛立ちを抱えた。
数秒の沈黙。ココの口が開く。


「……話す事は無い」


さっと、また怒りが体を巡った。クラルの泣き顔がちらつく。感情に任せて顔を上げた。ショルダーチェーンを握って、


「あったとしてもふたりには関係の無い事だ」


でも私は、何も出来なかった。何も言えなかった。苛立ちは背を粟立たせる悪寒で消えてしまったの。
だって感情任せに見上げた男はその美貌に納まった黒い瞳を凍らせて、私達を見下ろしていた。何こいつ。こんな顔すんの。めちゃくちゃ怖いんだけど。
私の思考を無視して「ここには確認で来たんだ。」低い声が言葉を続ける。


「あの、趣味の悪いメールのね。…電話をしたんだが、通じなかった」


ココは、サニーを見て溜息を付いた。
私は直感した。あ。こいつは、幸せを自分の手で落とす男だわ。


「これは、……彼女も、知っての事かな」


ココは言いにくそうに『彼女』と言う言葉を口にした。私は咄嗟に「クラルは関係ない」否定する。ココの瞳がちらりとこちらを見た。やっぱりな。と語る視線。しまった。これじゃ呼び出す為に嘘吐いたって言ったようなものだわ。


「そうか」あいつはまた溜息を吐く。「だろうね。知っていたら、送ったりしない」大した自信ね。「いや、そもそも、……彼女は、こんな嘘は吐かない」


でも声はさっきの威圧感を無くしていて、私は策に嵌められたって気付いた。最悪。

サニーが後ろで肩を落とした。馬鹿って言いたいんでしょ。思っても良いけど、口にしたら次にレオーニとキスするのはあんたよ。サニー。


「ま。いつの言ってる事はともかくだ」


後ろ向きに睨み付けようとしたら、サニーが口を開いた。


「本当だったらどうした?」
「サニー?」
「嘘じゃなかったら?本当だったら、ココ。まえはどうした?」


何を言い出すのこいつ。
私はぽかんとサニーを見上げて固まった。長い睫毛の奥のサファイヤがギラギラと、冷たいオブディシアンに挑んで居る。
少しの瞬きの後に私はメールの文章を思い出した。サニーが作り上げたセンセーショナル。でもあれは、何も無い所から生まれたわけじゃない。

私が、よくこんな方便考えたわね。って言ったら、サニーはなんて答えた?未だ日差しで明るい渡り廊下。サニーは少し言いにくそうに、可能性はゼロじゃねぇだろ。って言った。
ドクターとそれらしい話をしたって。検査とか、そう言うので。でも、自分は答えられないから。だから後でクラルの部屋にまた来るって言われたって。ついでに、相手が相手だから有り得ないかもしれない。って嘲笑されたって。起こりえたらそれは奇跡だ。って。
私は顔を歪めて、なによそいつ。って言ったわ。サニーはでも、ま、いつの言ってる事も分かるけどな。ってどっちの味方なのよなんて思って口にもしたわ。でも、彼は最後に呟いた。『でもよ、その位の奇跡なら……降ってきても良いんじゃね。付き通した嘘が、ホントになっちまうみたいによ』


「…ありえないな」


少しの思案の後、ココはでもはっきりと言った。


「そか?断言出来るのかよ」


サニーはあくまでも強気。てゆーか、あの氷みたいな視線受けて良くそんな態度取れるわね。サニーはココには絶対頭が上がらないと思っていたのに。ちょっと考え変わりそうよ。流石腐れ縁。


「……出来るさ。有り得ない。そもそも呼び出しの口実だろう」
「まえな、それを言っちゃ進まねぇだろ」
「進ませる必要も無い」
「考える事を手放すのか?ココともあろう男が、随分腰抜けになったんじゃね。あ。るほど。クラルはまえにとって、ファム・ファタルじゃなくてインキュバスだったってわけか。いつ、敬虔そうな面して男腑抜けさすのはお手のものって、」
「サニー」


一層冷たい声。「彼女を、侮辱するな」私は視線をココに移す。移して、反射的に上擦った声が口から漏れた。後ずさる。サニーにぶつかる。「ココ、めろ」サニーが、静かに言った。言って、私の前に、私をその背中でココから庇うみたいに一歩歩み出たの。
私は、視線を反らせず息を飲む事しか出来なかった。
別に酷い悪戯をした子を叱責するみたいな声に驚いた訳でも、そのとても冷ややかな目に気圧された訳でもないわ。「止めるのはお前だ。サニー」震え始めた手で、落としそうになったクラッチをぎゅっと握った。

ちょっと、あいつ、ここが何処だか分かってるの?まぁ、確かに、今のサニーの言葉には私もかちんと来たわよ。あれ以上続く様なら足の甲を踵で思いっきり踏んでやろうと思ったわよ。でも、でもよ。場所くらい弁えなさいよ。てゆーか、手、じゃなくて、指刺さないで。ついでに、

毒、滲ませないで。


「マリアが脅えてる。めろ」
「マリアちゃんに危害は加えない。なら、取り消せ」
「医療棟だぞ」
「好都合だな。何が当たっても直ぐに処置してもらえる。取り消せ」


サニーは「やだね」否定した。「まえが腰抜けで腑抜けになったのは、じつだろ」鼻を鳴らす。私からサニーの表情は見えない。ただ、ココのこめかみがぴくりと痙攣して眉間に皺が寄ったから、こっちを向く指先のピジョンブラッドが一層禍々しくなったから、あんまり友好的じゃないのだけ分かったわ。


「彼女は関係ない」
「どうだか」


私はココの指先から目を離せない。サニーは鼻で笑う。「いから下ろせ。マリアが怖がってんの見えねーのかよ。毒野郎」静かな声。サニーはココを見据えたまま腕で、私を庇う。ココは薄く笑って「よく見えるさ」見下ろしながら続ける。「お前が、髪ネットで守っているのがね」サニーは舌打ちした。

当然だけど私には何にも見えないわ。
ふたりにだけ分かる言葉で言われても困るのよ。
でも取り敢えず。サニーの近くに居る限り大丈夫なのかしら。メチャクチャ怖い事に代わりは無いけど。…にしてもクラルはよくこいつと付き合ってたわね。ある意味尊敬しちゃうわよ。それか、こいつ、クラルの前ではこんな風じゃないのかしら。


「……随分と。サニーはマリアちゃんにご執心だな」


不意に、嘲笑混じりにココが口を開いた。
言葉は私を通り過ぎてサニーの確信を突くように、それこそ私を無視して、あいつは吐息で笑った。




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