握れない手


それでもやっぱり分からないの。何度考えたって理解できない事だわ。
どうしてクラルはベッドに居て「マリア?」少し赤い目で笑っているのか。
枕に背中を預けて上体だけ起こした身体。袖の短い袷になったくすんだグリーンの治療用着衣の胸元からはこれもくすんだ、クリーム色の包帯が除く。眉を顰める。
考える程に分からなくなるわ。


「どうしました?」
「別に。てゆーかあんたのそのポライト、いつになったら完全に抜けるのよ」
「いつ、と。言われても…」
「ま。いいわ」


私はスツールからベッドの端に移動して腰掛けた。安物のスプリングが軋んで沈む。点滴を引っ掛けないように脚を組むとクラルは、「私、一応怪我人なのですけど」って苦笑した。

サニーは渋るリンを無理矢理寮に帰す為、今また私と歩いていた道をあの廊下の手前まで戻っている。、違うわね。あいつの事だから、気を遣ってくれたのよね。
私とクラルをふたりきりにしてくれた。あいつも、大概気障だものね。

私はクラルの顔を包んで「そうね。でもまるでラビット」額に手を当てて前髪を上げた。「うさぎ?なにそれ」クラルはくすくすと小さく笑う「野原で遊んだみたいに傷だらけだもの。それに、目が真っ赤」私はそっと下瞼に触れた。

微かに残った涙の軌跡で、そこだけ皮が突っ張った。

クラルは笑うのを止めて目を見開いた。それはとっても悲しい顔で、私は居たたまれなくなる。居たたまれないから、「でも、あんたがパイにならなくて良かったわ」ハグの変わりにクラルと額を合わせて少し乱れた髪を梳いた。
クラルは少し私を見てから「、マクレガーおじさんの庭には行かなかったもの。ママ。」なんて「ピーター・ラビットでしょう?」また笑う。私も、釣られて笑った。


「昔、良く読んだわよね」
「私が読み聞かせてね」
「そうだったかしら」
「そうでした。だってマリアはいつも、ピーターだったでしょう」
「、どう言う意味よ」
「あえてスリリングな事をしたがってた。絶対、じっとなんてしてなかったじゃありませんか」
「、あれは。本当にこの世界がおとぎ話通りなのか知りたかったのよ。あの頃はね」


クラルが笑う。口に手を当てて、さっきよりもはっきり声を出して笑ったけど直ぐに息を詰まらせた。包帯が巻かれた胸に手を当てて少し顔を歪ませる。


「クラル。ドクター呼ぶ?」
「平気です。ありがとうございます。大丈夫」


クラルはコールボタンに触れた私に向かって手を翳した。私は分かったと言う代わりにそっと、「そう、。」ボタンから離れてクラルの顔に掛かった髪を耳に掛けてあげた。そしてそのまま包帯が巻かれた腕に指を伸ばす。

跡は、残ってしまうのかしら?この子の体に、痛々しい治療跡が。この点滴がどれだけ傷の修復に作用するかは私には分からない。


「ありがとうございます」


クラルが笑う。私は指を引いてクラルを見る。
クラルは汗ばんだ額で、辛そうな顔で、赤い目をして、「鎮痛剤がまだ効いているから…大丈夫よ」笑った。

止めてクラル。

どうしてあんたは笑うのよ。どうして恨み言ひとつも口にしないの。あんたの心を掻き乱して、こんな事を起こした引き金があったんでしょ。なんで笑えるのよ。笑うのよ。
だって私は今から貴方にとって最良かも最悪かも判断出来ない事をするのよ。
あんたが愛している男を呼び出してあんたも知らない話をさせるのよ。そして、私は決めるの。
クラルに何を言うべきか。

だって私は許せない。


「マリア、?」
「クラル」


私はクラルの肩を抱いて、傷に響かない様にゆっくりと抱き寄せた。下唇を噛み締めて、片腕に優しく納めたクラルの旋毛にキスをする。


「私はいつまでも、あんたの味方よ」鼻先を埋める。


勘の良いクラルは一度私の名前を呼んだだけで黙って胸に頭を預けていた。
そうよ。私はクラルが大切。フェア、アンフェアじゃないの。女にこんな顔させた時点でそれは重罪。「…ごめんなさい」「なあに?」「すぐ、言えなくて」「いいのよ」「未だ、理解しきれなくて」「しかたないわ」「、好きなの」「知ってる」「愛しているの」「分かっているわ」「ずっと考えてしまいます」「クラル、」「もし、拒まなかったら、って」泣かせたなら、それは極刑。「彼、おかしかった。気付いていたのに、私、」華やかな私達に嗚咽混じりの声を出させちゃいけないのよ「クラルは悪く無いわ」

私はクラルの髪をそっと撫でた。絹糸みたいな髪には少し酸化した血が付着していた。事故の凄惨さを強がりな心に変わって訴えているみたいで私はやるせなくなる。「悪くない」あいつは本当に、何て事をしてくれたのだろう「、でも」杓り上がるクラルの声「彼に、私、。私には、彼、なのに」「クラル、」「分かって、いたのに。分かって、」「クラル。傷に触るわよ」「マリア、し。彼に、」私は息を詰めるクラルの頭を少し起こして、ぱたぱた流れる涙を拭った。胸が苦しい。「クラル、無理をさせたわね。ごめんなさい。暫く眠った方が良いわ。眠いでしょう」「マリア、」ゆっくりと、クラルをベッドに横たわらせる。「マリア、私、」手で顔を覆うクラルは震える唇を開いた「かれ…に、甘え過ぎたのでしょうか。でも、あいして、」悲痛な嘆き。刺す痛みとやり場のない怒りが私の心を埋める。
本当に、あの男は、


「…ボーイフレンドなんてのはね、とびきり甘えちゃっていいのよ。ガールフレンドはそれが許されているの。特権よ。例え相手がハリウッドスターでもね。」


私の掛け替えの無い友人に、何をしてくれたのよ。


「全て許されるの。全てよ。貴方は何も間違えてなんていない。貴方は正しいのよ。クラル、」


間違えているのはあいつの方。


「マリア、」
「眠ってお嬢さん。大丈夫、なんたってあんたは私と親友なんだから。かみさまにだって誇れる女が傍に居るのよ」


私は、クラルの手を握った。弱々しい手。胸の奥がつきんと痛む。ずっと願っていた事は、想像よりずっとショッキングに私の胸を刺した。ねぇ、あんたもあの時、こんな気持ちだったのかしら。


「おやすみクラル。夢の世界にはお花畑が広がっているんでしょう」
「スズラン。よ、マリア」クラルが口元だけで笑う「'It's a wonderful life'」

「いいいから眠りなさい」私は時間を確認した。7時ジャスト。タイムアウト迄1時間。「……おやすみなさい」「ええ。おやすみ。」時計から目を反らす。「ハヴァ・ナイス・ドリーム」言葉は親友に向かって、祈りは天に向かって。私は呟いた。目を瞑ったクラルの目尻を優しく拭う。


静けさを持った部屋。耳を澄ますと点滴が一滴一滴落ちる音が聞こえてきそう。
私はクラルの手を握って祈る。目蓋を閉じる。


ずっとずうっと昔のお話。目蓋に写る小さな小さなクラルには貴方が特別だって、貴方はお姫様なんだって、プリマだって、囁いてくれる大人が居なかった。
天井にモービルを飾ったベッド、沢山のぬいぐるみにドール達、掌サイズの絵本や腕に余る図鑑も何もかも。子守唄も、背伸びをしたドレッサーの魔法も。当たり前を特別にしてくれる存在が居なかった。

だから、誰よりも幸せになって欲しいの。
私と違って、国からの援助枠で入学したグラマー・スクールのジュニア時代。IGOへの後々の貢献値習得を条件に通い続けたシニア時代。
二段ベッドの下は8年間ずっと、私の眠りより早く明かりが消える事も、私の目覚めより遅くにカーテンが開く事もなかった。

『マリアさん。朝のミサが始まります。おきてください』
『マリアさん。朝です。遅刻してしまいます』
『マリア、さん。起きて下さい。間に合いませんよ』
『マリア。』

二段ベッド、木枠のノックが、私の目覚ましだった。眠た眼でぼやけた視界にはいつもきっちりと制服を着込んで、いつも同じ髪型をしたクラルが居て。『遅刻しますよ』年の割に大人びた顔をして、私を起こしてくれた。『おはよう。雌鳥』私はいつも、いつもからかった。
いつかその仮面が剥がれて、素直に笑って、泣いて、怒って欲しかったから。いつか、手首から下げた聖人じゃない。人を、生身の人を心から愛して、愛される喜びを知って欲しかったから。だからお行儀良くエッグスタンドに納まっているあんたの殻を、私は少しづつ剥がしていったの。世界の素晴らしさを知って欲しかった。

そっと、大きなクラルの額に手を滑らせる。張り付いていた髪を梳かしてまた手を握った。
人工的な眠りに落ちた掌の重さはこの手に余る程重くて、閉じる目蓋を縁取る睫毛は未だ微かに濡れている。
ああ。あんたは、幸せだったのよね。だから、悲しいのよね。


「…私が、雌鳥の雛を孵さなければ、クラル。貴方は、今、泣いていなかったかしら」


でもきっとそれは、そうなったらお互い別のストーリーが待っていたに過ぎないんだわ。そしてそれに相応しいだけの平穏も有れば試練があった。
ただひとつ確かなのは、その時私の舞台にクラルは居ない。クラルの舞台に私は居ない。クラルが欠けた舞台なら、私はここに居ない。ううん。もしかしたら私が欠けた舞台でも、この子はここに居ないかもしれない。

それはそれで幸せだったのかしら。平穏に時が流れていたのかしら。そんなことは分からない。分からないならもう胸を張るしかないの。
それでも、貴方の居ない人生なんて、とってもつまらないわ。って。

それこそ。It's a wonderful lifeね。人が一人居ないだけで老人は子供を毒殺して、バーテンダーはならず者、英雄になるはずの青年は11才で氷の池に落ちて神様に会って、永遠に彼等は他人のまま。
ちっぽけな人間なんて居ない。私達は特別だから。誰かの人生とクロスすれば、同じ結果は産まれないもの。結末は塗り変わる。関わってしまったなら後には引き返せない。だからせめて幸せであって欲しい。私との出会いは、幸せだと言って。


「だから、責任を果たすわ」


私はクラルの手をシーツにそっと納めて、踵を鳴らさない様にそっと歩いた。
ライトを消してゆっくりとスライドドアを開けるの。貴方に幸福を呼び込む為にね。じゃないと私、申し訳なくって、


「クラルは?」
「寝たわ。てゆーかいつからそこに居たのよ」
「…いさっき」
「あ、そ」


背の高い体を窮屈そうに曲げて、古い廊下のソファに腰を降ろしていた男に何にも言えないから。
私は開いたときより慎重にドアを引いた。クラッチからモバイルを出して時間を確認する。


「後、40分ね」
「だな」


ディスプレイが大きく時間を映す。腕に嵌めたバングルの数字は緩やかに減っていく。ほう。と溜息を零す。


「……ちょっと向こうのコーヒーサーバーからコーヒー持って来るわ。飲むでしょう?」
「おう」
「…あいつ来たら、モバイル鳴らして。マナーにしてあるから」
「…おう」


零した分だけ、幸福が逃げて行くと言ったのは誰だったかしら。私はサニーに背を向けて歩いた。逃げた幸福をもう一度、鳥籠に納める術を考えながら。



少し歩いた先にあるコーヒーサーバーの前に立ってペーパカップをセットする。一般的な病院と違って、猫の額程しかない談話室には私しかいない。無機質な静寂。

私はかこんと軽いボタンをプッシュして、真っ白なカップに濃いブラックが満たされて行く様子をぼんやり見ていた。





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