say? darling


いつかの、リンちゃんの話じゃないけれど。確かに彼は私が此処に勤め続けている事に良い顔はしなかった。
彼自身、第一研究所に対してよく無い思いを持っているからかもしれない。それと彼と交際をしていると言うだけで私は何度か、毒性研究室のグループに出向させられそうにもなったから。
それに応じなければ健康診断の度に諦めの悪い研究者達が私の血液を入手しようと裏面工作なさる事もあったし、職員通路の真ん中で、後学の為だ、とか、未知の毒物で苦しむ人を助けれる云々、と言った大義名分を叫ばれ、土下座され続けた時期もあった。
全て彼の努力の結果であって、私はなんの役にも立てません。私には何もありません。とお話ししても、人は進化の生き物だから何か影響が、と、それこそ犬に論語を説いている様な物だった。

でもその度にリンちゃんやサニーさんが庇ってくれて、行き過ぎた方達に遭遇した時はマンサム所長自ら擁護して下さった。
マリアも、わざわざ叔父様を通じてハートフルグループの資金提供を盾に介入するなと圧力を掛けていた。

それでも完全に平穏になった訳じゃない。その事に対して彼と言い合いした事だってあった。けれど、最近は穏やかだった。


「ココさん?」
「頼む」


勿論、私がここを辞めれば。と言う考えが浮かばなかった事が無い訳じゃなかった。
ストーカー紛いの研究員。常に猛獣の傍に居る事からの死のリスク。辞めれば、その全てから解放されると理解していた。
彼の心配も私の杞憂も全部無くなる。

でも、辞めたく無かった。逃げたく無かった。この仕事が好きだったから。ここで働く事が夢だったから。
私達の仕事は彼等の功績をそれこそ、後世に確実に伝えていける。そして何より人が猛獣に抱く畏れや誤解を払拭する事が出来る。私達が識る事で、私達が伝え残していく事で。
決して表舞台に出る事の無い黒子であっても構わない。いいえ。だからこそ辞めたく無かった。


「え?あの、いま、」


彼は、良い顔をしなかった。
それでも『……君が、IGOに入ってくれなければ、僕達は出会わなかったんだよね』言葉にはしなかった。『今の君も、今の僕も、居なかった』それ以上に理解してくれた。何より尊重してくれた。『応援しているよ。でも、無茶はしないでね』


「もう、いいだろう」


ちっぽけな黒子の、プライドでも。


「ココ、さ…」
「もう、充分だろう」
「充分って、」
「君は、この数年間、頑張って来た。一介の職員から調教師になって、部下を持って、慕われている。チェインアニマルに関しても猛獣に関しても、君は、結果を残している。リンちゃんのサポーターとしても十分すぎる位にこなしている」
「ココさん」
「だから、もう良いだろう」


私は、彼の言葉が理解出来ない。「何を、仰って、いるのか……」彼の腕は私をきつく抱き締めている。頭は私の肩口に蹲っている。表情が読めない。声だけじゃ、分からない。


「IGOの猛獣調教師は、君以外にも居る」
「それは、」


彼は、こんなに淡々と、話をする人だったかしら。


「君じゃなくても良い」
「でも、」


頭のフィルムを回転させて、私は彼を思い出す。でも、分からない。彼が、分からない「ココさん」お願い、私を見て。私に、貴方を見せて。貴方が分からない。貴方の心が分からない。だって、そんな声をするのはいつも、いつも貴方が追い込まれた時なのに。今も、そうなの?


「分かってるんだ。」


彼が、私を抱きすくめる。背中に回った手が私に縋り付く。
でもどうしてかしら。こんなに近いのに、貴方がとても遠くに感じる。


「君の夢も、君が、この仕事にどれだけ情熱を持っているのかも。分かっている。頑張っている君が好きだ。仕事の話をしてくれる君が好きだ。君が居るから僕はまた、ここにこうして来れる様になった。先へ、先へと進む君に相応しい男でいたくて今迄目を背けていた事に踏み出せた。でも、もう、良いだろ」


良いだろうって、なにが?「ココ、さ、」どう言う意味です?何を、仰っているの?


「荷物を纏めて、グルメフォーチューンに来てくれ。ここには君の代わりなんて沢山居る。でも、僕には君しか居ないんだ」


彼は、何を言っているのかしら。


「クラル。お願いだ。僕の傍に居てくれ」


目の前には、真っ白な壁。視界の端に、チェーンが着いたピアス。形の良い耳。甘い匂い。少し低い声。「クラル」耳元の囁き。

思い出して、思い出してクラル。
世界で、こんな風に私を呼んでくれるのは誰だった。「コ、コさん、」「頼む」そうよ。彼しかいない。キツいくらいの包容も、泣きたくなる程の囁きも、でも、「わ、私、わたし…」本当に彼なの?


「わ、たし、は…ココさ、ん。あの、」


指先の冷えた手で彼の服を掴んだ。おかしい。おかしいわ。私、きっと今、世界で一番幸せになってしまうはずの事を言われたのよね。
なのに、それなのに。


いまの私には、彼を笑顔にする言葉が見つからない。



「クラル、」
「わ、私が担当しているアニマルの、いえ、コロシアムのデータや研究、それにサニーさん、と。あ、いえ」
「、やっぱり僕じゃ駄目なのか?」
「え?あの、」
「僕が、毒人間だから」
「それは違います!」


背に回された彼の手から、力が抜けたのが分かった。私は彼を正面に捉えて、直ぐに否定する。
俯いた彼の顔は影になっていて、相変わらず表情だけが見えない。


「ずっと、ずっと以前にもお伝えした、」
「僕だって好きでこうなった訳じゃない」
「知っています。それに私はそれを理由にした事等、」
「じゃあどうして!どうして君はYESと答えてくれないんだ!」
「こ、ココさ、!」


突然、肩を掴まれたかと思うと、私はそのまま勢い良く後ろに押し倒された。テーブルの天板に背中を打ち付けられて、背が軋む。


「っ!ココさん!?」


何をなさるのかと声を上げかけたけれどそれが望み通り大気を振るわせる事は無かった。歯をぶつけるのでは無いかという位乱暴に、彼にキスをされた。
舌が、口から侵入してくる。「ん!」何度も何度も、交わし合った行為のはずなのに。当然の様に受け入れていたそれを今、私は初めて抵抗した。初めて、怖いと思った。

「、ココさ、!ん!」顔を背けても、追われて直ぐ塞がれる。身を捩ろうにも肩をテーブルに押し付けられたままでは痛みを伴うだけ。

怖い。
彼の舌が怖い。
重なっている唇が怖い。
体で受け止める重さが、滑り込む彼の味が、怖い。


「ココさん!止してくだ、」
「クラル、僕を、」
「こん、な。どうなさったんです!?人が来ますよ!!」
「好都合だ。そしたら君が誰の物なのかはっきりする」


こわい。


「ココ…さ、ん?」


このひとは、どなたかしら。「クラル」私の名前を呼んで、首筋を舐めているこの人は、体に手を這わすこの方は「て、」誰?「たす、けて」私の知っている、彼じゃない。

彼じゃないなら、どなたかしら。


「クラル……?」
「ココさん、」


彼が顔を上げた。見上げていた蛍光灯の間に、影が出来る。「クラル、」彼が私を見ている。私の顔を見ているのに、私の視界はとても霞んでいて、何だか息が苦しくて身体が動かしにくくなって…彼の表情は、見えないままだった。









「、動く?」
「はい」
「良かった。、 ごめん」
「気になさらないで。微量ですし、こうして動きますから」


あの後、彼は正気を戻してくれた。私は、体が少し痺れていた。キスの時だ、と。彼は言った。それからは早かった。飲んでくれ、と言われたものを大人しく飲み下した。

だから今、倦怠感も微かな位。私は離れた位置に居る彼に、手を動かしてみせる。


「ココさん?」
「え?あ、すまない」
「先程から、そればかり」
「……すまない」
「ほら、また」


彼は、あれから謝ってばかりだった。いえ、ただひとつだけ、


「……あの。」


たった、一言だけ


「あのお話。……本気、ですか?」


違う、話を、した。
彼は静かに目を伏せて頷く。


「私が、こちらに、居るから?」
「それは、」
「私が、はっきりしないのが、いけませんか?」
「違う、…君は、悪く無い。悪いのは僕だ。このままじゃ、僕は君に、…君を、」
「私は貴方が好きです」
「僕もだ。…君を、愛している」
「でもそれでしたら、でしたら…」
「だからだよ」


私は座らされたソファから、彼を見る。彼は扉の前に立っていた。その距離に、胸が痛む。「クラル、ちゃん」その言葉に苦しくなる。


「だから、お願いだ」
「ココさん」


どうして肝心な時に、私の体は言う事を聞いてくれないの。
彼の元へ行きたいのに足がまだどんより重くて、言う事を聞かない。
まだ末端に宿る痺れが煩わしい。

彼は悲痛な面持ちで、それでも笑って、もう一度諭す様に私に告げた。


「これ以上は君に毒だ」

「僕達はもう、……別れた方が、良い」


私はそんな彼に向かって、嫌です。と、弱々しく首を振る事しか出来なかった。





prev next



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -