02
その後の数日間は、慌ただしかった。割り当てられた寮室の簡単なクリーンアップと、荷物は、とても少なかったから、整理だけ。壁にとても大切な、小さな聖画を下げる。本棚に持ち込んだ本達を並べる。
寮、と聞いた初め、私は脳裏にずっとお世話になっていたあの、レンガで作られた歴史深いスクールハウスを思い起こして居たけれど、企業が所有しているそれはとても近代的で、初年からひとり一室を割り当てられた。しかも、バスタブ付きの浴室に、洗面所もお手洗いも、独立したキッチンスペースに簡素なリビングダイニング、ベッドルームには簡単な家具も備わった完璧なアパートメント。
地下階には交流スペースや、フィットネスジムなどが有る。とも説明されたから、規模で言えばもっと特別な空間かもしれない。備えつけのベッドに置くマットレスに至っても、入居時間に合わせてピローやシーツと一緒に新品が部屋に運ばれた。少し、絶句した。こんな対応、聞いた事ないわ。
「とにかく、今迄の人生からは、とても信じられない空間でして」
私はその日の夜、親友から掛かって来たコールに興奮して話した。彼女は、のんびり聞いてそれから、今度遊びに行くわ。と、気持ち浮き立った声で言った。私は、「職員以外、入れたかしら……」首をかしげた。
やがてコロシアムへのレクレーションが始まった。
決められた時間迄に、白衣をロッカー仕舞い、外部からの菌が持ち込まれない様に全身の消毒を済ませて、(こんな事を繰り返したら私、いつか免疫機能のチャンネルが変化してしまわないかしら……)そのシャワー口の外に用意されていた、研究室とは違う動きやすい指定の衣服、ボディラインの分かるトップス、丈の短いボトムスの下に、生地の確りとしたレギンス、そして安全靴と言うシンプルな物に着替えて今度は髪を一括りに纏めた。出た先で合流した数人と、エレベーターへ向かう。私以外男性で、一目で年上と分かる方達だった。軽い挨拶を交えて、礼儀程度の会話を交わす。
ホールに辿り時、扉前に居た人影が私達に気づいて口を開く。
「よしっ。全員揃ったな」
大柄で、屈強で、タンクトップに膝丈ボトムにビーチサンダル。マンサム所長が、豪気に笑う。
緊張している私達に向い、「おーおー、肩に力が入ってるなあ。上司に何聞いたかしらんが、んな怖いとこじゃないぞー」がははと笑う。僅かにアルコールの匂いがして、少し、驚いた。
所長自らの先導で、エレベーターへ入る。私がボックスに足を踏み入れた時、既にパネルは点灯していた。
「この階が諸君らの、第二の職場だ。行くにはそれぞれ首に掛けてるID証。そう、それだ。それを、こう、ここにかざすとな、行き先が点灯される。指紋認証もしとるから、覚えたら直接押してくれても構わん」
誰も声を上げない中で、所長の声だけが朗々と響く。扉が閉まって、降下が始まる。
「持ち回りはローテーション。コロシアムに関しての勤務はシフト制でそれぞれの上司から一ヶ月前に申告される。申告が無かったら、ワシかリンに言っとくれ」
私は、アルコールのつんとする匂いに可能な限り息を止めていた。このお方……大丈夫、なのかしら。業務中にアルコールの呼気を持つ大人の存在なんて始めてで、少し、不安。
そのうち、目的階へ到着する。ぽんっと、スピーカーから音が響いて、扉が開く。私達の誰とも無く、うっとした呻きが聞こえた。私も今度こそ、口元を覆って、眉をしかめた。
もの凄い獣の匂いが、辺りに充満していた。
「おー慣れとらんとキツいだろ」
所長が笑いながら、がはは、と、歩みを進める。私達も後に続くけれど、そこは、なんと喩えたら良いのかしら。香りもさることながらその空間は、真上が霞んで見える程高い天井、壁一面の……アクリルウォール、かしら。透明で分厚い壁が、先が見えないまでに長い通路へ、或る間隔で区切られながら続いている。奥の方で、長いしっぽの獣が中に入っているのが見えた。あ、こちら、全て猛獣達の檻なのね。
そう気づいた時、私の隣を歩いていた方、それは丁度ケース側にいた同僚が、声を上げた。うわっ。
声につられて、横を見た私も思わず、悲鳴を上げかけた。無意識に肩が強張った。
大きな瞳が、こちらをぎょろりと睨みつけている。直径は、そうね、私の背丈と同じ位。それを縁取る輪郭に、短くも太い睫毛が生えている。その根元は岩の様に盛り上がって硬い鱗板から生えていて、瞳の周囲からその全てを、きっと覆っている。ぎょろ。眼球が動く。目頭から粘膜が白目の部分について来る。虹彩はひまわりの様に明るい、様々な黄色やオレンジの群集。その真ん中でぽっかりと黒い瞳孔。あ、いま私、そう言えばずっと目が合っているわ。
やにわ、目の前の生命がそっと、ゴツゴツとした瞼に覆われた。
瞬き。
瞼の下で眼球が動いているのが分かる。また、そっと開く。目が合う。何故か吸い寄せられて一歩を踏み出す。と、その黄金の瞳はすいっと私の左側に逸れて、ゆっくりと流れて行った。
「あ、」
物淋しさを味わった時に出る様な声が、口から漏れた。視界がグレーの硬い皮膚一色になる。それもゆっくり、躍動して動いて行く。
硬い、大小様々な鱗板。深い灰色の体。ひまわりの様な大きな瞳。硬く大きなかぎ爪を持った前足が通る。分かった、この子、クロコダイル上科の「クラッギーアリゲーター」ぽつんと溢れた呟きに、途端私の全身は温かくなった。本物。本物、だわ。グルメ図鑑の中だけじゃない。生身の、食材猛襲。
「ちょっと、あんた大丈夫だし!?」
誰かが声をかけてくれたけど、私は、
「私、実物……初めて見ました」
「え?」
「とても、大きいのですね。あの、今のクラッギーアリゲーターですね。鱗は金剛石程の頑丈さで、高級建材のお一つ。生態分布は他のクロコダイル上科と同じく、湿地帯。生涯一対の番でしか繁殖しないため、鱗板目的の密猟により幼体が乱獲され、一時は第2種絶滅危惧種に。幼体に限られたのは成体ですと今の様に、頭部だけでも成人男性の世界平均をお超えになるからでして、捕獲難易度が格段、に……」
感情が高まったまま、振り返った私は、言葉を噤んだ。あ、嫌だ……。私、今完全に、学生気分になっていた。目の前で、ショートヘアの綺麗な子が、目をぱちくりとしていた。確か、この方は初めに紹介された、IGO秘蔵の方。
「申し訳ございません」
咄嗟に頭を下げた。ああもう、初日に私、なんて不敬を。
「え?や、いーし…別に」
「いえ、その一瞬、所在を忘れまして……」
「や、本当に。つか……猛獣生態研究室の子だっけ?」
声に促されて一度、顔を上げる。
「いえ私は……遺伝子工学研究室、新規所属員です」
そして、もう一度頭を下げる。
「本当に、申し訳ございません……リン、」
リン様。そう、言葉を続かせ掛けた私に向って彼女は
「あ、そっか。あんたがクラル、だっけ?」
はっとする声で、自己紹介を交わす事なく私をお呼びになった。
「はい。……あの、」
どうして? あ、そうだわきっと、ID証をご覧に……いえ、こちらのカードはファーストネームはイニシャル一文字の記載ですから、私の名前はご覧になれない筈、
「畏まんなくてもいーし、ウチら、タメだから。あ、タメって言ってもウチ誕生日12月だから厳密にはクラルの方が今んとこ歳上かなー」
「……何故、私の事を、ご存知でいらっしゃるのです……?」
ともすれば失礼な行為だったかもしれない。呆気にとられていた私は彼女の言葉への返答より、疑問を先に出してしまった。
それでも、青く大きな瞳を持つ彼女は、何も気にしない顔で、
「え? 何故ってそりゃ、新任の見習いで女の子、あんただけだし」
あっけらかんと、仰った。そして、こうも続けた。
「それに、うちの仕事のサポーターだし、あんた」
「私が、あなた様を、ですか?」
ご冗談でしょう。と、思えてしまう顔を私はしたのかもしれない。彼女は如何ともし難い顔をしながら、「うわ、あのハゲなーんも説明してねーし?」「む?ハンサム?」「……いってねーし!」仲の良さが伺えるダイアローグを所長と交わし合う。
やがて、きっとまだ目を白黒としてしまっている私の方へと向き直り、にへっと人懐こい笑顔を見せて下さった。
「ま、いーや。うち、リンね。猛獣使い、これからよろしくだし」
そうして直ぐに、彼女の腕がぎゅうっと、私の首元にしがみつく。
「クラルん所では、これが挨拶なんでしょ?」
私は、不意に嬉しくなって、ふふっと、彼女が上司である事を忘れそうになった。まるで数ヶ月前迄居たあの空間の延長の様に、思えて来て、そっと、その背中に両手のひらを置く。
「はい、これからよろしくお願いいたします。……リン様」
それでも、頭ではちゃんと、分かっていますから。きちんとした呼称で彼女を呼ぶ。
「様、とか。くすぐったいしー」
リン様は本当に、くすぐったそうにお笑いになった。
ふと、視線を上げれば通路の少し奥で、同僚の方達が目が白黒させて居た。けれど私はその時、所長がただ、目を細めて少し、悲しそうな顔で笑っていた事に、胸の奥が騒ついた。