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リンが眉間にシワを寄せたのは、何もコロシアムへの勤務が正式に決定した、その通達のせいでは無かった。そんな事、書面に認められる以前に彼女は知っていた。
不機嫌の原因は、その用紙に記載されていた、自身の責務に続く、2枚目の文面。
「特約令入社って、何だし」
その声を聞いて、言葉を返したのは一龍だった。手にしていた麩の塊を、目の前の溜池にほいっと、放り込む。
「お前の仕事を手伝ってくれる子じゃよ」
のんびりと答える一龍の眼下で、水面が揺れた。人の背丈はある大きな鯉がざぱんと大口を開けて身を出し、投げ入れられた麩を飲み込む。
圧巻とも言えるその様子を、一龍は好々爺の顔で眺める。鯉はやがて身を翻し、その見事な三色を煌めかせ悠然と、池の奥へと尾を揺らしていく。
「いらねーし」
背後で、リンがぶっきらぼうに声を上げた。
形のいい玉砂利が敷き詰め垂れた、日本庭園風の空間の、大きな番傘の下だった。短い黒髪はそのままに、場を慮った半袖のブラウスを身に付けてはいるが下は丈の短いスカートを合わせ、覗く素足の先に赤いサンダルを突っかけている。
リンは、手にしていた書類を、盆に置かれた茶器の傍に放り投げた。朱の敷物が敷かれた竹の長椅子に腰掛けたまま足を組み替えてその足を肘置き代わりに、頬杖を付く。
「オヤジから御馳走するって、変だと思ったし」
「おおっぴらにできる話でもあるまい」
一龍が、池の淵から振り返った。
明るいイエローブロンドが陽光に透ける。健康的な褐色の肌の顔には老齢を感じさせる濃い皺は刻まれているものの、その身体は堅牢として、スラックスにシャツと言った簡素な服装ながらも禅に通じる静かな強靭さが伺えた。背姿だけなら、青年と遜色がない。
リンは眉間に皺を寄せたまま、足下に視線を落とす。玉砂利の間から小さな蟻が這い上がって来ている。
「……ありえないし」
絞り出す様に声を吐く。
「これも、慈善事業じゃ」
「人を危険区に入れる様なまね、慈善っていわねーし」
「強制じゃないからのう。彼女が嫌だと断れば、ワシ等は止めん」
「その代わり、今迄掛かった教育費が請求されるんでしょ。強制と、かわんねーし」
リンは、IGOで長く育って来た。そこで、食の時代に相応しい貢献をいつかするのだろうと信じていたし、それは自分たちだけに与えられた特別な事だとも思っていた。反面、その影で起こっている犠牲や、一部の野心的な話も知っている。消して煌びやかではない、きな臭い内情も分かっている。けれど、こんなの、知らなかった。
民間の、しかも孤児に絞って、その中で一定に秀でた子を、
「奨学制度のひとつでな」
玉砂利を音を立てて、一龍がリンへと近づく。一歩を踏み締める様な砂利の響には百戦錬磨の足運びを感じさせる。むっつりと下を向いたままのリンの前で立ち止まって、横に放り出された書類に目を留めた。
簡単な、データ資料だった。今後彼女が関わる人の氏名とバストアップの顔写真が数名印刷されている。その横には氏名、年、出身国と最終学歴、そして、親族の有無。
その一番下、ひとりだけ丸の中に特と書かれた印をその顔の横に受けた女性(一龍の目に、その顔はとても幼く映った。リンと同じ位の顔立ちの少女にも見える娘)に視線を合わせた直ぐ、リンへと静かに続ける。
「だから受給は強制じゃあない、資格を授与するかは個人の采配で、彼女はそれを受け入れたに過ぎん。そして、返済でなく、勤労を選んだのも彼女じゃ」
「なんも知んなかっただけなんじゃねーの!」
リンが、勢い良く顔を上げた。
「オヤジ分かってし!?コロシアムだよ!コロシアム!皆何度も危険な目に遭ってるし、人だって、医務室から帰って来ない人沢山居て、今迄だって、」
「ああ、知っとる。じゃから、もしもの時、お前には彼女が必要なんじゃ」
一龍の言葉に、リンは喉を攣らせた。
「幸い今年はひとり、お前さんと同い年の子が居た。気も合うじゃろう」
「なんだし、それ」
「報告によればちとマイペースな所があるらしい。が、人間関係は良好らしい」
「うちに必要って」
「リン」
芯のある声に、リンは思わず口を噤んだ。
「お前は、あの4人の中で唯一の女の子だったせいか、少し責任感に欠ける所がある」
言葉を重ねながら、一龍は少し身を屈め、書類をとった。放り出されたせいか少し、角が折れている。
「彼等……特に彼女で、人を使う術と、それに伴う責務を学びなさい」
リンに、もう一度その紙面を差し出す。
天井から注ぐ光にその金色の縁取りを煌めかせながらも、表情に影を忍ばせる彼は僅かに、眉を寄せ、微笑んだ。一龍は、続けた。
「建前は遺伝子工学研究員、お前さんの元にはその職務に関わる調教師の見習いとして、送る。何、規定通りなら長くて4年じゃ」
リンは、唇を噛み締めた。怒られた訳ではないのに身がすくんで、無意識に、拳を握る。
「これが、お前さんの修行じゃよ」
皺の刻まれた手が、リンの肩に置かれた。どこからか鹿威しが置き石とぶつかる音が響いて来る。リンは掌の重さを感じながら、震える声で、
「じゃあ、せめてウチの目の届く所に置いて。ずっと」
資料を受け取り、一龍を睨み据えた。彼はそっと、お前さんならそう言うと思った。と、目を細め、紙面から手を離す。リンはその書類を確りと、噛み締めた唇の下で、抱え込んだ。
それでも、数日後の真昼。
IGOのヘリポートで写真ではない生身の彼女を見た時、リンは胸の奥に形容し難い苦渋を抱いた。
チャコールカラーのパンツスーツ、ジャケットの襟ぐりからグレーのトップスを覗かせている彼女は、長いブルーネットの髪を首元で押さえて、真っすぐにと言うよりもすっきりとした姿勢と例えた方が正しそうな出で立ちで、その場に立っていた。きちんとした装いに、ほんの少しの緊張が滲んでいる。
――あの子、本当に、来ちゃったんだ。
結局辞退してしまったよ、なんて事をリンは少し、期待していた。
それは別段珍しい事じゃない。過去にも、返済の目処が立ったとか、大学への奨学金が整ったとかで、入社を見送る人は居たとあの後調べて、知った。(そしてその大抵、在学中に起業するか研究成果の特許を取得しその売買で、IGOへの返済を行う猛者も居たと言う。聡明な人と言うのは上を見たらきりがないからね。と、リンの横で未だ研究所に追われる前のココが薄く笑った事を、思い出した。)
横で、マンサムが新規配属の人に向けて何かを言っている。彼女も、マンサムの方を見ていたけれど、不意に、リンの方へその視線が流れた。あ。と、リンが思った時、彼女がそっと微笑んだ。
それは反射的な行動だったのかもしれない。
他意の無い、礼儀程度の。だって、リンは彼女の資料を前日迄読んでいて、そこには出身校の記載があった。女王が統治する島国の、伝統と格式のある女学校。グルメ貴族や財閥、所謂良家のご息女が通う全寮制の私学。マナーのクラスもあったと言う(リンはその時、ちょっとうらやましいし。と思った、自分はIGOで、どちらかと言うと男所帯だったから、きゃっきゃうふふとか、あこがれだしー。と、思った。やっぱ、ごきげんよう。とか、お姉様ー。とかあるのかなー。と、思いもした)だから、きっとその表情は何の意味も無い。ごく形式的な無意識だろう。
それなのにリンは、その、自分を真っすぐに、憚る事無く見詰めて来る微笑に胸をえぐられる思いを抱いた。
クラル・ノースドリッジ。その名前を、心の中だけで呟く。IGOが提供している奨学制度の、特約入社として配属された、リンと、同じ年の子。