透明なアファメーション
彼女はふとして手を止めた。
投げ掛けられた言葉を頭の中で反芻しつつ、彼を見上げる。
「今、なんと仰いました?」
「大したことじゃないよ」
なまえの視線の先で、ココは悠然と笑う。
傾いた陽射しが空気を茜に染めるダイニング。そろそろ良い時間だと、2人並んでキッチンに立ったのは少し前。
「なんか良いな、って。思ってさ」
今日の夕食は海鮮をふんだんに使ったパエージャ・デ・マリスコスと、冷たい酸味が喉に心地良い、アスパラトマトのヴィシソワーズ。やがてふたりの思い通りに変貌を遂げる食材達はシンクボードの上で超然と溢れている。まるでこの時代の象徴のように、誇らしく。
「だから、あまり気にしないでくれ」
トントントン。と、慣れた手つきでその内のひとつを捌きつつ、ココは続けた。
うんと背の高い恋人の、鍛え抜かれた身体付きは何度見ても惚れ惚れとしてしまうほど、逞しい。
ぴったりとした半袖から覗く二の腕の筋肉ははちはちとして、彼がカットナイフを引く度に流れるように動く。思わず触れ合いを求めてしまうその美しさに、胸が鳴る。掌に感触が蘇る。
「あら、まあ」
ふふふ。短く笑ったなまえはシンクの前で再度、水を張ったボウルに手を入れた。
開け放った窓からそよぐ風は時折ふたりの間をすり抜けて、そのぬるさに改めて季節を知る。恐らく猛暑はすぐそこに潜んでいるのだろう。今日は薄いノースリーブを選んで、正解だった。
「残念。私も同じことを、思っていましたのに」
しゃりしゃり、しゃり。白色が優しい琺瑯の中、今夜の主賓が軽快に洗われていく。硬い殻と殻とが擦り合う。しゃりしゃりしゃり。
「なんだ。聞こえてたんじゃないか」
答える代わりにもう一度、ふふふ、となまえは微笑った。注意深くボウルを傾け、ほんの僅か色が変わった水だけをシンクに流す。程よく流れ出たらカランを捻り蛇口からまた、新鮮な水をボウルに注ぐ。しゃらららら。琺瑯の中、流水に押されて食材も笑う。黄昏が手元を照らす。
「しらばっくれるなんて君もなかなか、うん。強くなった」
彼女の手が再びカランを捻る。くすくすとした笑いが空気を華やかせる。水が、すんと止まる。
その、同じタイミングで、ココはその手を止めた。彼女が二枚貝達を洗い始めた時に用意した真っ白なカトルフィッシュはもう、彼の手によって器用に切り分けられていた。
「もう一度、聞きたいかい?」
鳶色の瞳が、彼へと向けられる。それは陽光を受けて瑞々しく、深く濃い色は美しく濡れて、
「はい。ココさん」
彼女の睫毛が瞬きに揺れ、笑みを含む。
夕刻色に満ちみちたダイニングキッチン。長いながい、トワイライト。柔らかい朱色の波長は総てを見透す目をも刺す。くすくすくす。と、幸福を隠さない忍笑いに、心臓から血が新しく巡る気配をココは覚え、
「本当に……困ったな」
心とてんであべこべな台詞を口にした。本当は全く困ってなんていないのに、
「早く君と、なまえと一緒に暮らしたい」
ただ一言の本音を、確かに最愛へと届ける為に。ココはその、形良い体躯に宿った照れを、少ない言葉の中に隠した。
視線が混じり合う。くすくすと、笑い合う。初夏を抱いた白南風が、ふたりの距離を近づける。肌が汗ばんでいく。踏み出す一歩で、脚が触れ合った。
シンクの淵にその手を委ねたまま、ふたりは静かに顔を寄せる。
「私も。早くあなたと一緒に、暮らしたいわ」
唇が重なるその刹那。すっきりとしたその声は幸せを音にしたかのように柔らかく。ただ真っ直ぐに、ココへと届いた。
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19.07.02/掲載
Twitterで、初めはココさんの名前さえも無いお話として上げました。文庫メーカーさん使った。サイトにあげるにあたって、ちょっと手直し&名前変換つけました。
ふたりの同棲は、結婚が決まってから。