愛を語るのに、経歴は必須です | ナノ

ちくん。

肌に馴染むベッドの上。私の頭から髪の先を、指先で愛しげに撫で梳く彼を眺めていたら胸が痛んで、泣きたくなった。

「…そんな顔しないでくれ」

切ない微笑みを、私の肩に寄せて隠して彼は言う。

「永遠の別れみたいだと、思うだろ」

私はそっと、彼を呼んで、鼻の先から胸一杯に彼の匂いを嗅ぐった。勿論、この先に待っている『さようなら、またね』の苦しみに耐え抜く為。私だけを甘やかしてくれる彼の温もりを深く、深く刻むの。
生まれたての太陽からお互いを隠し合った薄くて暗い、シーツの中の出来事。温められた甘い匂いには、私の微熱が混じっていた。

私が目を冷ました時、ココさんはもう起きていらした。何時もの様にご自分の腕を私の頭の下に差し込んで、綺麗な瞳で私を眺めていた。反対の手の指の先で私の髪の先をくるると玩びながら。ぼんやりと。でも目が合うと、おはよう。と微笑んで、額にキスをくれた。
カーテンから透けるお日様の光が、彼の跳ね上がり、鶏冠みたいになった髪の毛の一本まで柔らかく照らしていた。私は、おはようございます。と笑い返す。彼は、きゅう、と口を結んだかと思うと如何にも深刻な思いを微笑みに隠し、私を呼んだ。呼んで、私の目蓋から始まり、頬と耳の付け根、首筋にと、柔らかいキスをしてくれた。私は擽ったさと幸福感から、もう。とか、ココさん。とか、あ。そちらはいけません。とか言って彼に忍び笑いをさせたり、業とらしい不満顔を引き出したりしたけれど私達は、笑い合っていた。私がふと、時計の文字盤を見る迄は。
6時と30分。

「あ…お仕事。」

呟いた時に彼が言った言葉は、「…ああ。そうだね。今日は12時出社だっけ。後1時間したら…。」言葉は、歯切れ悪く終わってそれから、ココさん?と名前を呼んだ私に彼がなさった行動は、引き上げたシーツと一緒に私に、覆い被さった事。
朝から隠して、仕舞うみたいに。
私は突然の事に困惑して、どうしましょう。とか、時間は有りませんのに…。とか、…また、また次お会いした時ではいけないのかしら…。とか。ちょっとはしたない想像をしてしまった。だからそっと、諌める様に言ったの。

「ココさん、」
「帰るなよ。」

後には、おいたは止してください。と、続くつもりでいた。言葉はでも、彼の声に遮られて生唾と一緒に喉の奥底に飲み込まれた。
真に迫る声音に、まさか嫌な予見でも見えてしまったのかしら。私…もしかして今日は厄日なのかしら。と、一瞬考えを巡らせたけれど。薄く暗い中で仰ぐ彼の顔は占い師でも美食屋四天王の顔でなく、ただ一人の(ココと言う、容姿とはアンバランスな名前の)男性の姿だったから私は、直ぐに察した。狡い。そして、泣きたくなった。
だって、私だって、我慢しているの。平気な訳じゃないの。私も、貴方と離れたくない。

私達は大人に隠れて秘密基地に籠った子供みたいに密やかに、お互いだけを見つめた。口を突かない約束の代わり指先を絡め合い、どちらから、と言うもなく、キスをする。
そう。ふたりの体温で温め合ったシーツとブランケットの中は私が信じている神様にだって秘密にしたい、彼と私しか知らない基地ででも、目を瞑ってお互いを強張る様に絡め取った指先と口付けは約束より、苦しい程の祈りだった。
私は彼にしがみつく。誰にも、邪魔をされたくないから。広い背中の浮き出た背筋に指を食い込ませる。
彼は私を抱き締めた。誰にも引き裂かれたくないから。首の後ろと腰の窪みに太くて固い腕が、右の肩と乳房の下にはやっぱり太くて筋ばった大きな手が、温かい掌が、肌に柔らかく埋まる。唇は求め合う手前で離れて、頬へ。
シーツの隙間からは朝の光が黄金色の線を作っている。それでもぼんやりと暗くて音が遠いそこはまるで私とココさん以外、誰も存在しないみたい。
私達の、呼吸や囁きの名残が籠っているからかしら。基地の向こうから聞こえて来る命の音が、梢のささめきや鳥の歌声だけだからかしら。胸が痛くなる程に押し当てられた胸板から流れ響く逞しい鼓動に、身体中を支配されて…居るからかしら。
でも、かち、かち、と聞こえてくる時計の音だけは紛れも無い現実の存在を誇張していた。私はそれが急に恐ろしくなって、聞きたくなくて、彼の肩から胸へと避難する。耳を塞がんばかりに顔を寄せて、頭の天辺から彼に埋まる事で現実を幻想にする。意味は無いって知らない訳じゃ無いのに。何故かも分からず、怖くなった。きっと彼が、あんなことを私に、仰るから。

「クラル」

そっと彼が、大きな掌で私の頭を包み込む。包み込んでまた、名前を囁いてくれる。

「…愛してる」

とても切ない吐息で。額に瞼にキスを。
猛獣達のコンディションや研究の段階に左右されやすい私の仕事は休みを返上する事なんて当たり前だから次の約束をしても結局、叶わない事が多い。昨日今日だって3ヶ月ぶりの邂逅なのだから私だって、本音は帰りたくない。

「クラル…」

切ない吐息に胸がくう、と締った。普段よりも低く甘い彼の、男の声。心臓がとても早く鳴く。

「はい。…ココさん」

いつも通りの応答をしたつもりだった。けれど、声になったそれはいつも以上に甘美だった。
私の、声なのに。私じゃない女の声みたい。彼に恋をして、彼に愛されて甘えている女の声。
優しい熱と荒い鼓動が、真っ直ぐに入り込んでくる。シャワーの後に身に付けていたガウンを床に落とし合いベッドに雪崩れ込んだ翌日の抱擁は、切ないけれど甘く美しい。こんこんと湧き出る果てのない愛しさに陶然とした思いを抱きながらも無くなる日を惜しく思う私は、何処迄臆病で、何処迄寂しがり屋なのかしら。

「まだ、君と居たい」

そして何処迄、単純かしら。その吐息と一緒に溢れた願いで私は堪らなく嬉しくなる。でも、…私、も…。と答えたいのに言えない私は代わりに、力が増した彼の抱擁を力で返すしか出来ない。
だって、仕様がないと思うの。またいつか。の言葉だけで繋がった約束は、秘密の基地を抜けた瞬間に彼が傍に居ない現実に追われるのでしょう。仮に短かったとしてもそれが別れである事には相違が無いでしょう。

だって結局、また。となってしまう約束は、彼の体温や、声や、彼自身が私の生活に消失している正確な期間を、焦燥感の確固とした苦しみを、教えて下さらない。

私は、小さく微笑う。

シーツの中では私と貴方二人きり。けれど抜け出したら、そうじゃない日が始まるのを、避けられないのを私達は良く知っている。私も彼も、良く知ってる。知っているから、離れたくないの。

「…また、逢いに参りますから」

上を見ると彼は、渋い顔を。でも…、と言いたくても言えないもどかしさを、真一文字に結んだ口の中でまごつかせている。

「ココさんは、逢いに来て下さらないの?」
「まさか!逢いに行く…逢いに行って………そのまま、出来る事なら君を浚いたい。」

今度は私が、渋い顔をする事になった。でもそれは、この方は何を子供めいた事を仰るのかしら。なんて、呆れた感情が作り出した物では無く、この方はどうして私が望んでいる言葉をいつもいつも惜しみなく伝えてくれるのかしら。と。

「浚って、そのまま…二人でうんと遠くに行こう。キッスの、背中に乗って。今より目立たない、でも今より隔離された場所で今より、上等な家を建てよう。生活は僕が何とかするから君はただ、僕の傍に居れば良い。小さな畑を作って君の好きな食材を育てて、埃まみれでキッスが帰って来たら二人でそれを拭ってやろう。そして君は毎日僕に、おはよう。と、おやすみ。と、愛してる。を伝えてくれれば、それで良い。毎日、キッスだけじゃなくて君にも、僕の生活の中に居て欲しい。」

だからきっと私が彼に見せたのは、顰めっ面よりも切ない驚きの顔なのでしょう。

「…駄目?」彼の耳打ちが私の背中をざわめかす。「…それ、は…」

「駄目なら駄目だと、きちんと僕を諌めてくれ。でないと、そうでないと僕は…」
「貴方、は?」

そうっと、ココさんが私から体を離して、真上から、私を見下ろした。
今にも泣きそうな顔で彼は微笑む。私の頭から髪の隙間を愛し気に撫で梳かせて、目を細めて。
シーツのテントにくっ付いている黒く短い髪が、少し差し込んだ日の光で固く光っている。私達の微熱しか存在しなかったこの場所に、押し広げられた隙間から、私達の間に、私の肺に、朝の清々しい空気が入り込んで来る。

やがて、私は知るの。私は気付くの。
かくれんぼでクローゼットに潜り込んでももう、私達はそこが雪の国へ続く入り口じゃない事を知っている。ベットの中で語られる事は全て全て、絵空事。夢物語。叶えられない事ばかり。
だから、閉じたカーテンから透けて届く光の中で私が彼にする事は、別れに向かって容赦無く響く時計の針の闊歩と指先を流れる刺す様な痛みを認めてそして、笑う事。

「ココさん」
「…ん。」
「朝ご飯に、しましょう」
「……うん。」

ゆったりと身を起こしたら夢の基地から現実へ。ベッドの下に落としていた昨夜のガウンを拾い上げ、裸のままは照れ臭いから袖を通す。大きな物は、頬杖を突いて横になったココさんへ。

「服を着て」
「ああ」
「顔を洗って歯を磨いて」
「うん…」

わざと努めて明るくしているのに、(歌謳う様に喋っているのに)彼のお返事はとても上の空だった。
ガウンの前紐を結び、振り返る。突っ張った頬の先に添って吊り上がったココさんの目尻の奥の瞳は、

「…そんな顔、なさらないで」

切なさが産まれた心がそのまま映ってしまったでしょう微笑みを私は朝の光の中に晒して、彼の頭から髪を撫でて梳く。掌と指先に短い、少し冷たくて少し固い、髪の感触にやにわ切なさが、こん。と沸き上がった愛しさに沈んでいく。
よしよしと、私よりもずっと経験深い大人である筈の彼を子供みたいに扱う度に、静かにそれを受け入れてくれる彼を眺め続ける度に後から後から、笑い溢したくなる愛しさが湧水みたいに溢れて来た。

「永遠の、別れみたいだと…私も思ってしまいます」
「それは嫌だ」

途端に飛び起きて否定した彼に驚いたけれど「はい。私も、ココさんと同じ。…それは、嫌」くすくすくす。ちくちくとした幸福を感じながら笑った。だから、ね。

愛を語るのなら絵空事には、さようなら。

あ。けれどその中でも一つだけ、本物が有るの。
全てを整えて木の扉を開けた先に広がった社会を前に、彼と交わした、またね。と。その後に重ねた吐息の続き。
離れてしまった唇はその瞬間からもう飢えて、私は貴方を、貴方はきっと、私を求めてる。出来る事ならずっと毎日、一緒に居たい。ココさんに、浚われたい。叶えてはいけないでしょうけど、この願いは本当の話。
髪や肌や頭に記憶させた残り香だけではもう、満足出来ない私はひっそりと、だからこそ思う。

やっぱり今日日は女の方から、アクションを起こさないと駄目なのかしら。



「…早く、きちんと…プロポーズして下されば良いのに…」
「え!ちょ、それ何の話!チョー気になるし!」

同日。お昼時の社内食堂。
溜め息とご一緒に零れてしまった独り言は、サフランのチキンカレーを食べていた友人の興味を思いっきり引いてしまった。
しまった。咄嗟に話題を反らそうと試みる。

「あら、リンちゃん。無いし!と、仰ってらしたデザートが追加されてますよ」
「それより!プロポーズって!プロポーズって言ったし!?え!まさか遂にココに…!詳しく話すし!」

無理でした。
好物へも誘導してみたけど、駄目でした。

「話反らすな!プロポーズ!プロポーズって意味深だしー!」
「分かりました!分かりましたから!…そこを大声で連呼なさらないで。」

お終には気迫に圧されて渋々承諾。したけれどでも、大企業の大きな食堂で、沢山の職員が犇めく中で、今日の朝を話す気にはとてもなれない。
目の前の好奇心で爛々とした瞳なら、まだ良いの。問題は左右前後からちらちらちくくと伺い刺さるゴシッパーの目。それが刺さって…身が痛い。居たたまれない。

私はちょっぴり、途方にくれた。

mae tugi

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