愛を語るのに、経歴は必須です | ナノ

ぱち。

目が覚めた。
そこは先程まで見ていた夢(よく覚えていないけど、誰かが居て私は笑っていた気がする。)の場所とは違って薄い墨汁の様に辺りは暗い。直ぐ先に見えるココさんの伸びた手の形も、闇に溶ける手前に思える程。

ぱち。ぱちぱち。

私は暫く瞬きをしてそれから、いつものように体温でぬくぬくと温かいベッドに横たわったまま、頭の後ろで寝息を立てているココさんを起こさないように頭のてっぺんから爪先に掛けての芯を小さく伸ばす。背骨が良い具合に伸びた所で止めたら今度は深く、呼吸をする。
肺迄の通り道をキンと凍らせてしまいそうな位に冷たい空気(それはもう、布団から剥き出しになっている顔の毛穴という毛穴がくうと引き締まって、指で触るとすべすべするくらいにキンキンの空気)で満たしたら、すっかり、目が冴えた。
そもそも今日は起き抜けから目を擦る必要も無いほどに素晴らしく清々しい目覚め(それはおぼろげな夢がきっと何処か、一番具合が良い所で途切れたような爽快感。)で、もう既に私の体は動きたくて、新しいもので満たして行きたくてうずうずとしていたから、空気なんて後付けも良い所だけれど。

うず、うず。

…睡魔の無い目覚めはまるで25時に訪れたバカンスのよう。真珠の貝殻に成ったみたいに、体の中が冴えざえとしている。
私は、ゆっくりと呼吸をする。
冷えた冬の匂いに交じって、甘いヴァニラの香りが鼻先を擽る。目の先にあるココさんの指先(大分と太いけど長いから細く見える。目の錯覚がこんなに身近なのって不思議だわ)が、痙攣したみたいに小さく動く。
開いた目に映る景色の色はどれもグレーのレイヤーを掛けた様にぼんやりと暗い。
でも、暗いからこそ指や腕の境界がきらきら輝いて見えてなんだか素敵だと、何時も思う。温もりの中で吸い込んだり頬っぺたや耳朶に絡む空気の冷たさも格別な物に感じる。私は、小さく笑う。
そうね。だって、夜明け前ですもの。なんて。不思議な直感を感じた私は、今だからこそ見える不思議をもっと探そうと瞳をキョロキョロさせてみた所ではた、と。ある気掛かりを抱いた。

…今、何時かしら?

風が吹けばカタカタ鳴くガラス窓。外の景色を覆うカーテンは、眠っているみたいにとっても静か。全くはためかない所か光を写す事も無く有りの侭でいるのはきっと、外と室内が同じ色をしているからかしら。なんて。目線を忙しなくしつつそう思ったら、こうも思ったの。…もしかして、朝だと思い込んでいるのは私だけで、実は未だ眠りからそんなに経ってないのかしら…。って。
だってそう。目が自然と覚めたから朝。だとは限らないわ。女の直感は案外、外れる方が多いの。
だからそう思ったら、当たり前に時間を確認したくなった。
壁にある古い掛け時計を思い出す。アナログだけど、白い文字盤に真っ黒な針の時計だからきっと、私にも見えるはず。でも、こんなに素晴らしい目覚めなのに実は寝てからほんの少ししか経っていません。とかだったら(…とても勿体無い気分になるわ。)そんな事をぼんやり考えながら。(だから夜明け迄後少しであって。ココさんが起きる前に、持ち帰ったレポートを…)なんて事も願いながら。
頭の下で心臓の音の分だけ、血管や堅く隆起した筋肉を跳ね上がらせている腕に気を配りながら、そっと寝返りを打つ。
そうしたら、私の視界一杯にもっと濃い影が映って、描いていたようなアナログ時計は薄ぼんやりどころか全く見えなかった。
暫く数度数度と瞬きをする。瞬きすると薄暗い中でもピントが合わさって、それが一体何なのか分かってしまった私の顔は、今にもくすくす朗らかな気持ちで笑い出して仕舞いそうな表情になる。くすくすくすくす、喉を震わせたくなる。
…馬鹿ね、私。
頭の下の枕が決して私に投げやりじゃなかった時点で、頭の上から寝息が聞こえてきた時点で、気付くべきだったわ。

そっと、こちらを向いて寝息を立てているココさんを、彼の二の腕に頭を預けたまま見上げた。
腕枕は、慣れないうちは首が痛くなって大変だったけれど最近は、逆に普通の枕を柔らか過ぎると感じてしまって、寝付けない。(いつかの夜にぼんやりとした心地のまま、そう言えば…。と、これをお話ししたら、彼は。そうか…うん。そうか。なんて、嬉しそうににやけてらしたわ)
肝心の時間は彼の広く逞しい肩に時計が遮られて居て、私からは頭が少し覗いて見えるだけ。
勿論、頭を上げて見ようとしたけれど寝返りを打ったせいでお察しの良い彼の片腕がのっそりと私の肩に巻きついてしまったから、動けなくなった。
時計の針よりも彼の寝息を確りと拾ってしまうこんな時、私はついにやけてしまいそうになるけれど、同じくらいに悲しくなってしまう。
それは、いつも私を映して下さる綺麗な綺麗な烏色の瞳が薄い目蓋で隠れたままになっているから。(その代わりに境界を縁取る長い睫毛は上と下が合わさるとランコムのマスカラを塗った様にもっと美しく艶艶としてしまう事を知った。)
いつも綺麗な微笑みを崩さない形の良い唇も、無防備に薄く開いているから。(でもそこから覗く粒の揃ったつるつるぴかぴかのアイボリーは、歯医者さんで見る模型のように綺麗。)
そして何より、ビスクドールみたいにすべすべのお肌には朝になると、耳の横の濃い髪の名残からちくちくの無精髭が生えているから。(優男候の彼の容姿が一気にワイルドな魅力に溢れてドキドキとしてしまう)
何度、貴方で見えなくなるからとお願いしても、いつかね。なんて微笑むばかりで決して壁掛け時計の位置を変えて下さらない意地悪さんの事を思い出してしまうから。(…僕の後ろに時計が有れば、君は少なくとも一回は、僕を見てくれるだろ?って。何時かに聞き出した不器用な甘えたと一緒に)
いつもいつも、こんな時は、相対する感情が共存する。独占的な腕の力と、放任的な美しい寝顔を見る度に。

だから、ちく、ちく、ちく。と。
決して何者にも関与しない秒針には成れない私は、彼の寝息に関与してしまう声を溢してしまいたくなるのを堪えて笑う。
うすーく暗い部屋の中の更に彼と私とで温かいベッドの中で、胸から沸き上がってきた物を成る可く今は面に出さない様に努めて、この時期になるといつも冷えている爪先を、寝息を立てている彼の臑にそっと差し込む。
男の人だからかそれとも美食屋候の体躯だからか高い体温と、ざら、と指に当たる堅くて細い感触に、わらってしまう。…やっぱり、ココさんは見かけによらず、とても男性的。

「…ん」

あら。

「んー…」

あらあら、ま。
少し、悪戯をしすぎたからかしら。冷たかったかしら。ココさんの綺麗な眉間に皺が寄った。
微かに開いていた口も閉じて、私の肩を包んでいる掌と対の手が私の背中に回り込んできた。つまり彼はもう今、その腕の中に私を抱き込んで、私の額を鎖骨の下に押し付けて、言ったの。

「……ダメ」
「、はい?」

私はくすくす可笑しいのを我慢して、囲われた腕の真ん中から、ココさんを見上げる。

「…ココさん?」

彼は眉間に皺を寄せて微かに身じろいでいるけれどまだ眠いのか、目蓋は閉じたまんまだった。
でも私がそっと名前を呼ぶと、薄く、目を開く。暫くぼんやりとした眼と目が合い続ける。
私は何だか睨めっこをしている気分になってしまって、なってしまったら直ぐに彼に負けてしまった。

「もう、あんまり、見ないで」

くすくすくす。笑う。
だってね、もうね。この彼の顔で、私の中でせめいでいた感情の勝敗が決まってしまったの。
前髪の短い部分なんて、ぴょんぴょん跳ねているのだもの。
これこそきっと、私しか知らないのでしょうね。
だから、くすくすくくす。笑っていたらちょっと、ココさんは拗ねた顔をした。眉間に皺を寄せて間延びした声を出して私をきつく抱き込むのは、きっとこんな風には笑われ慣れていないから。また、笑いが零れてしまう。
そんな私にココさんはくっ付け合った胸から体重を少しかけて、笑うなよ。って、仰る代わりに私の名前を囁いた。

「…クラル、」

少し拗ねて掠れた、寝起きの低音。
耳元に吹き掛けられたから、少し跳ねて恥ずかしくなる、私の心音。

「…ココ、さん?」
「ダメだ…」

私は恥ずかしいまま、可笑しくなる。

「何が、ダメ…なの?」
「……だろ」
「…なあに?…聞こえないわ」

かさかさ囁くねぼすけさんとの会話は、私の言葉もぼやけてしまう。何時もより、ずうっとカジュアル。

「ココさん…?」
「…まだ、暗いんだろ」

尋ねる風なのは、彼の目は暗さを感じないから。

「…はい」
「なら…クラルも」また、私を呼んで「…寝てろよ」
「…ココさんは、眠いの?」
「…ねむい」

それは少し、不機嫌な声。だけど素直な頷きに、私はまた笑う。彼はまた、諫めるように私を呼ぶ。

「…寝ろって」

私の近くにはヴァニラのみたいな甘いノートが燻っている。甘い甘い、温かい甘さ。ヴァニラなのに、温かいなんて。くらくら笑っちゃう。
だって、お互いに、砕けきってる。

「…私は、目が覚めちゃいました」

呟くとココさんは小さく唸って、

「ったく……」

そうしてそれから大きな掌で私の背中を、ぽん・ぽん・ぽん。と、叩き始めた。
それは子守唄の曲調でそして、喉を震わせる低いかさかさのハミング付きで。

んーん…んーんー…

優しく優しく、唄う。
けれど幾ら耳を澄まして記憶のレコードを探ってもそれは全く知らないリズムだから今、私は思うの。
ココさんが私に歌ってくれるこれは、彼の貴重な幼少期の遺産のひとつなんじゃないかしら、と。この余分な物が何一つ無いメロディラインが、ココさんの声から掌から、綺麗に鼓膜に背骨に響いてくる心地良さは、在る日の幼い彼が、在る日の大人から確かに愛されていた、確かな証明。

んー…んん…んーん…

本当は、こんな風に子供みたいに扱われるのは好きじゃないけれど。でも、彼の中に刻まれている歌が、その時の彼はきっと想像すら出来なかった相手(それは一緒のベッドで一緒の秒針の聞いて一緒の冷たい空気を吸っている)、つまりは私に聞かせて私の眠りを誘ってくれようとしているその愛情には、好きとか嫌いとかは関係無い、愛しさを感じる。内側に、心細さを持った、愛しさで、私はくすくすと、考える。
私が居ない時があった彼が居る事を、何時から私は不思議だと思うようになったのかしら。(そんなの、当たり前の事なのに。ココさんが居なかった生活が私にもあったように、私が居ない生活が、ココさんにもあって…それはとても当たり前の事だったでしょう。独りで寝ていた時間の方が、今でも遥かに長いのに…)
私はもう、柔らかい枕で眠るのは苦痛で、どんなにすっきり目が覚めても、ココさんに囲われてしまえばあっさりと自分を後回しにしている。
子供みたいに扱う彼の手も、結局は大好きなのだから。

…んー…ん……

段々と囁きが霞んできた。
途切れ途切れになってきたハミングと、力がなくなってきた彼のリズムを刻むテンポに今降りた新しい寂しさを感じつつも、それより胸が温かい事のが大きくて。私は、歌を辿りながら彼の胸にすり寄る。
ココさんは満足そうに笑った時に出す吐息を溢して、私をきゅうと抱く。良い子だと私の額にリップノイズを響かせて(…本当は、寝惚けた振りをしているんじゃないかしら)上機嫌に私を包み込み、体を沈める。
私を抱き枕にしている彼の腕の力は強く、寄り掛かってきた体は力が抜けた分だけ私ごとマットレスに沈むから、私は、落ち着いてきた寝息を聞きながら秒針が次を刻む迄にぼんやりと思うの。
…体が大きくて筋肉の綺麗な形が良く出ているくらいに逞しいから、ココさんはとても堅くて重い。
触れ合う体温はとても高いから、ココさんに長く抱き締められていると冬でも、少し汗ばむ。
甘い甘い彼の香り。暑すぎる彼の温度。まだ耳に残っている彼の掠れたハミング。背中に刻まれたテンポ。じわじわと色が薄くなっていくカーテン。時計の音。規則的な寝息。私は、そっと微笑う。

目は相変わらず、すっきりと、冴えている。




mae tugi

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