*旅の終着*

微睡みの車窓-1




「───アーサ、こちらへおいで」

 優しげな……しかし何処か愁いを帯びた低音でそう囁いたのはこの国 、シュサイラスア大国の国王・ライオネル。

 アーサと呼ばれた人物。
 ライオネルが息子・ラインアーサを愛情を込めて呼ぶときの愛称だ。しかしラインアーサの足は動かなかった。目の前の光景を現実として受け止められずにその場に立ち竦んでいた。

「……アーサ。母様の最期さいごをきちんと看取ってあげなさい」

 いつもに増して優しい筈のライオネルの声に、どうしてか怯えてしまう。それでも精一杯声を絞り出した。

「……いやだ」

「アーサ…?」

「母様が死ぬなんて信じない! そんなこと、あるわけないっ!!」

 ラインアーサはそう声を荒げると部屋を飛び出した。扉を出てすぐのところで、父王の側近・コルトにぶつかった。

「アーサ殿下っ!? どちらへ…」

「どいてくれっ…!」
(───嘘だ…! 母様が死ぬ……死ん、だ…? そんなことあるわけない、だってついさっきまで、笑ってたじゃあないか……!!)

 狼狽するコルトを押し退け、ラインアーサはまるで逃げる様に廊下を駆け抜けた。
 突き付けられた現実から逃げたい……。
 ラインアーサはとにかくその場から離れたかった。───母・エテジアーナの部屋から。
 途中、自身の足元を取られて思い切り地面に倒れ込んだ。口の端が切れ、血の独特な味が口の中に広がる。それでも構わず、すぐさま起き上がると無我夢中で走った。
 気がつけば、城壁の横手にある庭の端まで来ていた。いつも無意識にここへ来てしまう。此処はラインアーサのお気に入りの場所。
 庭を抜けるとすぐ脇には湧き水を水源とする小川を挟み、王宮を囲む様に小さな森が広がっている。その森の中でも一際大きな樹の上に秘密基地の様な物を作り、何かある度にそこへ息抜きをしに来ていた。しかし今日はその秘密基地に行く気力もなく小川の畔に座り込み項垂うなだれる。

「……何やってるんだろ、俺」

 小川のせせらぎや、いつもと変わらぬ小鳥のさえずりを聞いていると、昂ぶった気持ちと上がった息が徐々に落ち着いてきた。陽の光が小川の流れに反射し煌めく。
 ラインアーサは眩しくてその光から瞳を逸らした。
 エテジアーナは元々身体が強くなかった。しかしその身を追い立てるように、各国で内乱が起こったのだ。
 一見平和なこの世界で、何が原因で内乱など起こったのか。まだ少年のラインアーサには到底理解できなかった。
 目の前で姉のイリアーナが人質としてさらわれ、エテジアーナはそのことが元で虚脱状態となり、病に伏してしまった。依然としてイリアーナは行方不明のままだ。
 ラインアーサは自分の力のなさを悔やんでいた。だからこそ必ず父の力になり、この手で姉を探し出してみせるという想いを胸に刻込んだ矢先、危篤の知らせを受けたのだ。
 空を仰ぐとラインアーサは誰にも気付かれぬ様、手の甲で目尻を拭い立ち上がった。現実から逃げていても母や父、王宮の皆に心配をかけてしまう。

「戻らないと……」

 その時、突如背後から子供の泣き声がきこえてきた。

「うえぇぇん! ぱぱぁ!! どこぉ?」

 迷子だろうか?
 おそらく外の森から王宮の敷地内に迷い込んだのだろう。声の方へ振り向くと三、四歳程の幼い少女が泣きながら彷徨っている。簡素だがよく見ると上等な服は異国の物だろうか。この辺りでは見かけない薄い千草色ちぐさいろの髪に、抜ける様な白い肌。
 涙に濡れたその顔立ちは、はっとするほど可憐で……率直に言ってしまえば、美少女だ。
 恐らく先の内乱で、他国から中立のこの国シュサイラスアへと疎開してきたのだろう。身なりから推測するに、身分の高い家の者の様に思えた。早く保護して親を捜索しなければ。今の自分に出来る事はそれ位しかない。思い立ったラインアーサは少女に駆け寄り、屈み込んで目線を合わせてやった。

「……えっと、君……どうしたの?」

 務めて明るく声を掛けたつもりだったのだが、少女に思い切り怯えた顔をされてしまい複雑だ。

「……お、おにぃちゃん、だれなの?」

 しかし驚いたのか、少女の涙は引っ込んだ。こちらを見つめ返すその大きな双眸には涙が溜まり、夕陽に照らされて淡く虹色に煌めいている。

 ───あまりに綺麗で、思わず見惚みほれていた。

 穏やかな風が二人の間を吹き抜けて、ラインアーサの髪をふわりとさらう。が、気がつくと少女はまた泣き出しそうになっていた。

「あ……ああ! 君、迷子だろ?」

「……うん」

 取り敢えず場を繋ぐ様にそう問うと不安げにこくりと頷かれた。

「俺の名前は、ラインアーサ」

 慌てて己の名を名乗る。

「……らい、あー?」

「違うっ…! ラ イ ア じゃあなくて、ラインアーサ!」

 自分の名前はそんなにも言いづらいのだろうかと少々気が立ってしまった。そもそも、周りや実の父にさえ真名まなではなく愛称で呼ばれるのだ。この事は常々疑問に思っていた。何故ならラインアーサと真の名で呼ばれることは滅多にないからだ。
 強めに言い直した声色に驚いたのか、少女の眉が八の字に下がる。瞳が再び潤み今にも涙が零れ落ちそうだ。

「っふぇぇ……」

(ま、まずい、これは泣く!)

 ここで再び泣かれるのも厄介だ。

「ああ、もう。ライア! ライアでいいよ。だから泣かないで? ほら!」

 ラインアーサはなるべく優しい声でそう言うと、にっこりと笑顔を作って見せた。正直、母の事が気掛かりできちんと笑えているかわからなかったが、目の前の幼い少女を安心させようと半ば必死だった。すると少女は恐る恐る顔を上げて、ラインアーサの顔をそろりと覗き込んできた。

「……?」
(?? なんだ…?)

「……らいあ、おにいちゃん、、わらったおかお、とってもかわいい……きらきらのおひさまみたいね」

「っ…え、はぁ? 可愛い!? お日様?」

 唐突にそんな事を言われ狼狽えていると、少女はラインアーサの顔に小さな手を伸ばしてきた。

「あ! ここ、ち、でてるよ……いたい? スゥがなおしてあげる。だから、ライアおにいちゃんも、なかないでね……」

 少女は覚束無い手つきでラインアーサの口の端に触れた。

「なっ……!?!?」
(ななな、なんなんだ!!? それに俺は泣いてなんか、ない…っ)

 さっき迄の取り乱した自分の姿を見透かされた気がして、ラインアーサの頬は一気に熱くなった。

「ライアおにいちゃん、すごくおめめあかいもん。おけががいたくてないちゃったの? あのね。スゥもよくおけがするの。だからパパがね、こうするとすぐになおるって……」

 たどたどしく話す少女の小さな頭がラインアーサの顔に重なり小さな水音が耳に届く。

「っっ!!?」

 口の端に温かく小さな唇の感触。
 ピリッと電撃の様な小さな刺激が走った。同時にふわりと花の様なとても良い香りがする。その瞬間、ラインアーサの思考は停止した。
 ────今、何を……?
 考えの纏まらない頭で必死に考える。今しがた出会ったばかりの、しかもまだ幼い少女に、突然唇を……奪われたのだ。
 何処と無く気恥ずかしい気持ちを打ち消す様に、ラインアーサは左右に激しく頭を振った。

(さっきの、電気みたいな衝撃はなんだ…? まさか……)
「……君、名前はスゥって言うのか?」

 何とか気を持ち直して、そう尋ねる。

「うん! スゥだよ! どぉ? ライアおにいちゃん、スゥのおまじないでいたいのなおった?」

 まっすぐにラインアーサを見つめてくる瞳は涙が晴れても尚、淡い虹色を湛えていてとても美しい。

「あ、ああ…! 本当にもうぜんぜん痛くないよ、ありがとうスゥ!」

 口の端に指先で触れると、その傷は本当に癒えていた。

(まさかこの子……癒しの煌像術ルキュアスを使えるのか?)

「どういたしまして! あ、あのね。スゥ、パパをさがしてるの……」

 一転して少女はとても不安げに、さみしそうな顔でラインアーサにそう打ち明けた。どうやら父親とはぐれたらしい。
 気が付けば、夕陽はすっかり落ちて辺りも薄暗くなってきていた。すぐ夜が来てしまう、そうなれば人を捜すのは困難になる。
 ラインアーサは目の前に困っている人がいると放っておくことが出来ない性格である。その所為か、どうしても自身のことを後回しにしてしまう所があるのだが───。
 間もなく夜になる。
 とりあえずこの少女。スゥを先に王宮で保護し、親の捜索には王宮の警備隊を手配するのが望ましい。そう判断し、ラインアーサは少女に手を差し伸ばした。

「よし。おいで、スゥ! 俺が一緒にパパを探してあげるよ」

「ほんとう? ありがとう、ライアおにいちゃん!」

 そう言いラインアーサの手を取るとスゥは笑顔を見せた。
 ────それはこちらまで嬉しくなる。大輪の花がほころぶ様な……そんな愛らしい笑顔だった。
 ラインアーサの胸がドキリと跳ねた。また頬が熱くなるのを誤魔化すようにスゥの手を引きながら空を見上げた。

「すぐに暗くなるから急ごう!」

 ラインアーサが王宮の方へ足を踏み出すと、先程まで穏やかだった風が急にざわつき森の樹々が揺れた。



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