*遷り変わる星霜*

ひたむきな胸中-1




 ───スズラン。
 何時から、こんなにも心を占める様になったのだろう。いくら追い出そうとしても、頭の隅にはいつも彼女の存在があった。王宮の横庭で再会した時からだろうか。
 いや───。はじめて出逢ったあの日から、ラインアーサの心には何時だってあの笑顔≠ェあった。辛い状況に陥った時期も、諦めそうになった時も笑顔を忘れずに乗り切って来られたのは、彼女との出逢いがもたらしてくれた想いがあったからこそだ。

「くそっ! なんて土砂降りだ」

 酒場バルへの道のりが何時もより長く、もどかしく感じる。こんな時こそ移動術が使えたらと切に思う。大切な人の元へ瞬時に飛んでゆけたら、と。
 ラインアーサはスズランの気配を探り透視を試みるも、走りながらでは集中する事が出来ず何も感じ取れなかった。それがまた焦りの原因となり不安を煽る。

「スズラン、頼むから無事でいてくれ!」

 大雨の中を走り、漸く酒場バルに到着する頃にはすっかりずぶ濡れになったラインアーサだったが、構わず扉を開き店の中へと石段を降りてゆく。店内の様子を確認すると雨宿りで寄ったのか客は数名いるものの、客足はまばらだった。頭からすっかりずぶ濡れになっている為か周りからの視線を浴びたが、お構いなしに店奥のカウンターを目指す。入店した直後に店内をぐるりと見回したが、何処にもスズランの姿が見当たらない。

(スズラン! どこだ!? まさか既に……)

 逸はやる気持ちを抑えきれずにラインアーサはカウンターにいるマスターへと声を張り上げた。

「マスターっ! スズランは、スズランは何処にいる!?」

 カウンターに両手を着いてそう息巻くラインアーサにこの店のマスター、ユージーンが驚いた様子だが落ち着いた声で返答をくれた。

「おや、貴方様は…! うちのスズランがどうかなさいましたか? その前に、その様に濡れていては風邪を…」

「マスター! 今日一日何も変わった事は起きてないか? スズランは無事なのか?」

「え、ええ。無事も何も今、裏で空き瓶の片付けを…」

「裏庭っ!?」

 ユージーンがそう言い終えたか否か、ラインアーサは勝手にカウンター奥手の部屋へと入ってゆく。

「困りますよ、いくら貴方様でも! そちらは私室になって…」

「悪い…。緊急事態なんだ。ここから上がらせてもらう!」

 ユージーンの言葉はラインアーサの耳に届かなかった。奥の倉庫から裏庭へと上る階段を見つけ、駆け上がり勢い良く扉を開け放つ。そのまま裏庭に飛び出すと、依然として止みそうにない大粒の雨の中で必死に酒樽や酒瓶を片付けているスズランの姿があった。

「っ…スズラン!!」

 すぐ様駆け寄り性急にその細い身体を抱きしめる。

「きゃ…っ!」

 突然の事に驚いたスズランの手から空き瓶がするりと滑る。しかし落下直前で素早く瓶を受け止めそのままそっと地面に置くとラインアーサは改めてスズランを抱きしめた。荒い呼吸を整え声を絞り出す。

「……ょ か、、た…っ!」

「っ…なんで、どうして……ライアがいるの?」

 甘く香る君影草。澄んだ声。
 華奢だが女性らしい身体、柔らかい髪。抱きしめながら全てを確かめラインアーサは漸く安堵した。

「……よかった、無事で…っ」

「っや、、離して…! 突然なんなの?」

「っ…スズラン、話がある。とりあえず早く中に入ろう」

 ラインアーサはあくまでもスズランを腕に抱いたまま酒場バルの中へと移動しようとする。しかしスズランが小さな抵抗を見せた。

「やだ! はなしてっ! わたしに触らないで!!」

「……っ」

 スズランの言葉が棘の様に胸に突き刺さる。この言葉を理解するのに一瞬の時間を要した。が、すぐに自身が盛大に嫌われていると言う事実を思い出し、少しだけスズランの身体から離れた。それでもスズランの手首を掴むと目線を合わせ少しだけ微笑みかけた。

「…っ! お願い。その手を離して! わたし…っ」

 ラインアーサは呼吸を整えスズランと瞳を合わせたまま丁寧に、ゆっくりとした口調で願い出た。

「悪いけど嫌でも我慢してくれ。今この手を離す事は出来ない! 緊急事態なんだ、マスターとスズランに大事な話がある。頼むから俺と一緒に来てほしい……」

「緊急、事態…?」

「そう、緊急事態なんだ…」

 こんな時だというのにスズランの不思議な色に煌めく瞳に魅入られ惚けてしまいそうだった。スズランもまた、ラインアーサから視線を逸らさないままでいる。
 見つめあったまま暫しの沈黙が訪れた。
 その間も冷たい雨は二人の身体を容赦なく打ち付ける。

「スズ!!」

 叫びの様な呼び声に沈黙が破られると、その場にセィシェルが現れラインアーサは我に返った。

「…!」

「……セィシェル」

 二人の間に弾丸の如くセィシェルが割込んでくる。

「何してんだよ、スズ! 早くそいつから離れろ!! おい、あんた! スズからその手を離せっ!」

「っ…嫌だ。それは出来ない!!」

 普段ならセィシェルとは張り合わずに躱す所なのだが今はそんな余裕など無く、つい声を荒げてしまった。

「っな!? 大体何なんだよあんた! 最近ずっと俺たちの周りをうろつきやがって…。はっきり言って目障りなんだよ! これ以上スズに手出ししようってんなら容赦しない」

「ちがうっ…俺はただスズランを守りたいだけだ!」

「はぁ?! 守る? 何から?? 俺だってお前みたいな男らからずっとスズを守って来たんだ! 怪我したくなかったら早く俺たちの前から消えろよ!!」

 セィシェルが鋭い目つきをこちらに向けてくるが、ラインアーサも負けじと睨み返す。

「やめて……二人とも」

 大雨の中、雨音に掻き消されそうなほど弱々しく震えたスズランの声にはっとした。ラインアーサは冷静さを保つ様に低い声を絞り出す。

「……とにかく今はお前にかまっている暇などない。俺はスズランとマスターに話があって来た。お前は店に戻ってくれ」

「はっ! こっちは話す事なんかないね! 今すぐ帰るのはあんたの方だ!!」

 両者供一歩も引かず睨み合いが続く。
 つい手に力を込めてしまいラインアーサに腕を掴まれていたスズランが痛みに顔を歪ませる。

「ライアっ、、腕……いたい! はなして…っ」

「わ、悪い! つい……大丈夫か?」

 スズランの悲鳴にすぐ手の力を緩めたが、白く細い腕にはくっきりと赤く指の痕が着いてしまっていた。スズランの瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。

「っ…いたいよ、、」

「痛くするつもりじゃあっ…わ、悪かった! 泣かないでくれ!」

 ラインアーサは痛みを軽減しようと即座に癒しの風を施した。赤味は消え去り、痛みも殆どなくなった筈だ。しかしスズランの涙は止まるどころか増して溢れ出した。どうしたら良いのかわからず慌ててスズランの顔を覗き込む。だが、そうすると露骨に顔を背けられてしまう。

「っ…ふ、、…っうう」

「ああ、もう。本当悪かったよ! お願いだ、泣かないで……」

 おろおろと狼狽えるラインアーサの横でセィシェルのあからさまな溜息が聞こえてくる。

「はぁぁ…。何が守りたいだ。あんたが一番スズを傷つけてるじゃあねえか…!!」

「俺が、スズランを傷つけている…? どうしてそうなるんだよ…」

「また自覚なしかよ? 俺は…。絶対に認めたくないけど、だけど…っスズが好きなのは俺じゃあなくてあんたなんだよ…! なのにあんたはっ…」

「やめて…っ!」

 スズランが懸命に首を振りながらセィシェルに向かって叫んだ。ラインアーサは突然の話の流れについてゆけず、再度質問を投げかける。

「…? っ…今なんて……」

 するとセィシェルが苛立ちを露わに半ば怒鳴る様な口調で繰り返した。

「だからっっ! まだわかんないのかよ…! スズはあんたが好きなんだ!!」

「?! …っなに、言って……そんな訳、ないだろ」

 にわかに信じられないラインアーサは確認する様にスズランに視線を戻すが、本人は俯いたままでどんな表情をしているのか窺い知る事が出来ない。

「……勝手な事を言わないで…っ! わたし、あなたの事なんて好きじゃないっ!!」

「っ!」

 やはり予想通りの返答だ。そんな事わざわざ言われなくても知っている。しかしそこにセィシェルが反論した。

「どうだかな。お前、最近毎日溜息ついてばっかじゃあねーか! こいつの事好きなんだろ? その位お前を見てれば分かる……」

「っちがう! 好きじゃない!」

 スズランはセィシェルの発言を頑なに否定する。

「違わないだろ! ……だったら、なんで最近笑わなくなった? スズが好きなのはこいつだろ…っ俺の気持ちは迷惑なんだろ!? でも……それでも構わない! 俺はお前が好きなんだ!! だからっっ」

 セィシェルが何を言っているのか理解できない。スズランは先程から何度もラインアーサの事は好きではないと宣言していると言うのに。

「───待ってくれ、話がよく見えない。それに今は緊急事態って言っただろう! とりあえず店の中に入って話を聞いて…」

「……帰って…!」

 土砂降りの中でスズランが小さく呟いた。漸くこちらを向いたその瞳は、雨で濡れているのか涙で濡れているのか判らなかったがとても苦しげな表情だった。

「スズラ…」

「帰ってよ! あなたに出すお酒は一滴もないの! もう、店に来ないでくださいっ…」

 スズランのその言葉に心臓がずしりと重くなる。やはりラインアーサの想いは一方通行だ。

「おいスズ、いいのかよ……」

 ラインアーサは意を決してスズランの瞳を見据えるとにこりと微笑んだ。
 そして耳元に口を寄せ優しく囁く。

「分かった…。じゃあ本当に今日で最後にするから」

 ラインアーサは片手でスズランの頬を優しく包み込む様に触れ、瞼にそっと唇を落とした。

「涙が、止まるおまじない……」

「…っ」

 最後にもう一度あの笑顔が見たくて幼い頃の様に おまじない≠ニ称した。
 だがやはりスズランは笑顔を見せず、呆けた様に言葉を失ったままこちらを見つめ返している。同様にセィシェルも茫然とその様子を眺めていた。

「……おい! セィシェル。頼みがある」

「なっ、なんだよ!」

「スズランを早く店の中に連れて行ってくれ。そしてマスターを呼んで来てほしい」

 ラインアーサはスズランの手を引いてセィシェルに軽く頭を下げる。

「何なんだいきなり! 言われなくてもそうするし! それと親父となに話そうってんだよ……親父だって店があるから、連れてくるなんて…」

「───セィシェル。この方の言う通りにしておくれ……」

「親父!?」

 声がした方へ振り向くと、酒場バルの裏口の扉の前にユージーンが傘をさして立って居た。

「セィシェル。スズを部屋で休ませたらカウンターはお前が入れ」

「は? 俺が!? 無理だって!」

「厨房はレフに任せて来た。ソニャにも少し場を離れると言ってあるから大丈夫だ……」

 ユージーンが何時になく落ち着いた口調と真剣な眼差しでセィシェルを諭す。その様子にセィシェルは諦めたかの様に小さく息を吐いた。

「……わかったよ。親父がそこまで言うならよっぽどなんだな? 俺はとにかくスズを部屋に連れてく。ほら、スズ行くぞ!」

 セィシェルがスズランのもう片方の手を引いて歩き出した。ラインアーサと軽く繋いでいた方の手が自然とほどける。

「…あ……!」

 瞬間、スズランが縋る様な視線でこちらを見上げたのでラインアーサはその手を追う様に腕を伸ばす。しかし途中で諦め、引っ込みのつかない手を力一杯握りしめた。
 セィシェルに連れられてスズランが酒場バルの中に入るのを見届けると、ラインアーサはユージーンに頭を下げた。

「ありがとう。マスター」

「おやめください…! 貴方様が私めに頭を下げるなど!!」

 ユージーンは慌てて傘をラインアーサに渡すと、その場に片膝を着いて跪いた。
 今更傘をさしても手遅れな程、ラインアーサの服とマントは雨水を含みずしりと重い。まるでラインアーサの今の胸中の様だが、そうも言っていられない。

「マスターこそやめてくれ!! それよりもマスターは俺の事知ってるのか…!?」

 ラインアーサは傘を手にユージーンに詰寄る。しかし、ユージーンはその姿勢のまま続けた。

「アーサ様…。我が子の数々のご無礼、誠に申し訳ございません。セィシェルもスズランも、これまで貴方様にとんでもなく失礼な言動を…」

「いや、本当に違うんだマスター。こっちが何も言ってなかったんだ…。だから二人は全然悪くない。お願いだから顔を上げて欲しい」

 そもそもラインアーサは地位を利用し、権力を振りかざすのを好まない。それでもユージーンは中々顔を上げようとしなかった。

「……じゃあ、着替えを貸してくれないか? あと、マスターに大事な話がある。聞いてほしい」

「仰せの通りに…」



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