*遷り変わる星霜*

情報収集という名の-1




 報告書類を読み上げるハリの声が執務室に響く。しかし何処か上の空なラインアーサの耳には届いて来なかった。

「ライア。聞いてます? 今日一日、いえ。最近ずっとうわの空ですが。……それに、溜息が多いですね。まるで恋煩いでもしているかの様です」

「……」

「ライア…!」

「……え、ああ。悪い、はじめから頼むよ」

「全く。これで何度目だと思ってるんです?」

「ごめん」

 今日一日このやり取りを何度か繰り返している。ラインアーサは日々公務に没頭し、例の想いを振り切ろうとしていた。だが、不意に気を抜くと考えてしまうのどうしてもスズランの事だった。

「公務とは言え、最近根を詰めすぎかと…。疲れが取れていないのならもう一日休暇を取りましょうか?」

「大丈夫だよ。この仕事を終えれば旧市街の視察へ出れるし、ジュリにもそう伝えてある」

「ですが、旧市街の件はそう無理してまで視察に行かなくても。最近は目立った報告もありませんし」

 目立った報告がないことにラインアーサは一先ず安堵する。
 あの日……。スズランが旧市街の粗暴者に絡まれていたのを思い返すだけで身の毛がよだち、焦りに似た怒りの様な感覚にさいなまれた。
 平和を誇るシュサイラスア大国の名に恥じぬよう奮励ふんれいするライオネルを支え、いずれはその国王と言う座を受け継ぐ覚悟は出来ている。
 スズランの事を抜きで考えるにしても、この愛する自国ではどんな小さないざこざも起こって欲しくないと願っている。ラインアーサは頬杖をつき、また小さく息を吐く。

「じゃあ今夜は息抜きに付き合えよ、ハリ。ちょうど週末だし」

「今夜、ですか…?」

「ん? もしかして都合が悪かったか? ハリに会わせたい人がいるんだけどな」

「少し用事がありまして。それはまたの機会に」

 ハリ自身もまた日々の執務をこなし、抜かりのなさは誰よりも完璧だと言っていい程だ。

「なら俺一人で久々に羽でも伸ばしてくるかな」

「……伸ばし過ぎは駄目ですよ? 貴方は直ぐに気が大きくなるというか、そもそも酒に弱いですからね」

「はは、そういうハリは隠れ酒豪だからな…」

「ライアが弱過ぎなだけです。自国ではこの程度普通ですから」

 何気ない会話の中で上がったハリの言葉にラインアーサは心底驚いた。ハリが自国≠ニいう言葉を使い、それを話題に出すのは初めての事だったからだ。

「っハリ、今……自国って! その自国ってルゥアンダ帝国の事だよな? もしかして、何かの記憶…」

 ラインアーサは思わず掛けていた椅子から立ち上がり、仕事机に手を着き身を乗り出した。その勢いで書類が床に散らばった。

「……いえ。今ふとそう思っただけです」

 一瞬ハリが考え込む様な表情をしたが、指先を眉間に押し当てそう呟いた。記憶を無理に引き出すのは脳に負担を掛けるらしい。実際ハリも思い出そうと記憶を辿ると頭痛が起こる様で、ラインアーサも無理はして欲しくなかった。
 ならばやはり今日会わせたいと思う人物との接触は、ハリにそういった負担を強いる可能性があるため無理には会わせない方が良いのかもしれない。

「……そうか。やっぱり今日は俺一人でゆっくり息抜きしてくるよ」

 ハリは落ち着いた動作で散らばった書類を拾い集めると仕事机に揃えて置きなおした。

「ライア。陛下やイリア様に心配をかける行為だけはくれぐれも…」

「ああ、もう分かってるって! 最近ハリはだんだんジュストベルに似てきたんじゃあないか? 説教っぽい所とか特に!」

「それは光栄ですね。この国においてジュストベル様は私の一番の師範しはんですから」

 そう言いながらハリが僅かに微笑んだ様に見えた。それもまた珍しい事だ。
 ───今日のハリはやけに表情豊かだった様に思えた。それに何時もより、会話も口数も多い様に感じるのは気の所為ではない筈だ。ハリの表情が豊かになるのは、当然ながらラインアーサにとってとても喜ばしい事だ。

「少しづつでもいい。ハリの記憶が戻るのなら俺は何だって…」

 ラインアーサは記憶が無いままのハリに、自身の側近の仕事を強いてきた事がずっと気掛かりでならなかったのだ。何でも卒なくこなすハリにいつか恩返しが出来たらと思っている。

 そんな面持ちでBAR・Fruto del amorバル・愛の果実の入り口の前でとある人物を待ち伏せした。
 週末で何時もより人の流れが多い。だが、待てども待てども目的の人物は現れない。開店前から入店客をさりげなく観察していたつもりだが、考え事をしていて見逃しただろうか。確認の為仕方なく酒場バルの中へ入る事にした。

「もうここに来るつもりは無かったんだけどな。やむを得ないか…」

 一度決めた事を覆す様で気が進まないが、入り口の扉を開け石段を一段づつ降りてゆく。既に賑わい始めた週末の店内は活気があり、外との寒暖差にほっとする。この人々の活気が好きだ。民の暖かさが伝わってくる様な感じがラインアーサの心を弾ませる。しかし、今回は別の目的で此処へ来ている為気を引き締めた。
 楽しそうに酒や食事を楽しむ客を横目に店内を見渡すものの、やはり目的の人物は見当たらない。同時にスズランの姿がない事に安堵したが、少し残念のような複雑な気持ちになった。

「……居ない、か」

 目的の人物とは、エリィの事である。ラインアーサが毎日通っていた頃は、彼女も常連の如く当たり前に姿を見かけたものだが。

「此処に居ないのなら別の店か? それとも…」

 捜すのを諦め酒場バルを出ようと出入り口に戻ろうした時、ちょうど華やかな女性達が三人程入店して来たのが目に入った。確か、エリィの知り合いだったと記憶している。案の定、女性たちはラインアーサを見つけるなり駆け寄ってくる。

「あらぁ! ライアじゃない! 久しぶりね。ここ暫く見なかったからもう会えないのかと思ってたのよ? ねぇねぇ。良かったら奥の席であたし達に付き合わない? また色んな国のお話をたくさん聞かせてほしいわ!」

 一際目立つ美貌の女性が、上目遣いと甘い声色でラインアーサに声をかけてきた。その他の二人にもあっという間に囲まれてしまった。悪いが今は女性達に構っている暇などない。

(確か彼女達の名前は…)

 ラインアーサは少し首を傾げ考え込むと、すぐに申し入れを断る姿勢に出た。小さく息を吐きながらよそ行きの笑顔を貼り付け申し訳なさそうに告げる。

「ああ、久し振りだなティルダ。イベッテにルースも! また会えて嬉しいよ。せっかくの誘いは有難いけど、また今度相手して欲しいな。今日はちょっと急ぎの用事があるんだ」

 こんな時、女性の誘いを無下に断ってはいけないと知っている。取っておきの笑顔で対応するのだ。すると女性達は名を呼ばれただけでラインアーサの笑顔にうっとりと見惚れ、頬をそめた。

「まあそうなの~? 残念だわぁ。そういえばエリィも残念がっていたわよ! あの子、だいぶ貴方にお熱だったでしょう? 貴方が急に来なくなったものだから他の酒場バルへ捜しに行ったりしてたのよ?」

 計らずともエリィの話題になり、ラインアーサはティルダに問いかけた。

「……ああ! 今ちょうどそのエリィを捜してるんだ。今日ティルダたちはエリィと一緒じゃあないのか?」

「あらまあぁ! せっかくライアの方から会いに来てくれたのに! なんかね、あの子ったらこの間そろそろ国に帰るとか言ってたのよね」

 国に、帰る? 今帰られては非常に困る。
 これはほとんど直感なのだがエリィは他国の、それもルゥアンダ帝国の情報を持っているとラインアーサは踏んでいた。もしそれがどんなに些細な事だったとしても、ハリの為に成り得る情報は収集しておきたい。

「あの子、もしかしたら週明けあたりにこの国を発つかも知れないわよ。良かったら探してお別れの挨拶でもしてあげて?」

「そうなのか。じゃあここの他にエリィが行きそうな店、もし心当たりあるなら教えてくれると助かるんだが…」

「そうねぇ、ここからすぐ近くの果実酒が売りの軽食屋とかかしら。あ、南側にある崖の上の酒場バルとかにも良く行くって話してたわ!」

 どちらもそこそこの人気店だ。ラインアーサも何度か足を運んだことがある為、場所は分かる。

「教えてくれてありがとう! 早速行ってみるよ。ティルダ、君たちに会えて良かった」

 ラインアーサはティルダの手を取り、にっこりと微笑んだ。実際ここで彼女らに会わなかったら今日は諦めて帰っていたかもしれない。

「 いゃぁん、あたしもライアに会えて嬉しいわぁ! でも、悔しいけどあなた達ってお似合いよね。エリィと上手くいったらあたし達にも報告してほしいわ? うふふ」

 ティルダは顔を紅潮させ、ラインアーサに熱い視線を送ってくる。何やら妙な勘違いをされている様だがそれを訂正している暇が惜しい。

「ああ、もう行くよ。じゃあ…」

 ティルダ達に別れを告げると、強い視線を感じその方向に向き直る。其処にはいつから立っていたのか、スズランがほうけた様な表情でラインアーサを見つめていた。



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