男運のないOLが七海さんに心も身体も奪われる@


 定時に仕事を終わらせ、社内の化粧室でメイクを直しコテで髪を軽く整える。仕上げにお気に入りのトワレを軽くふり、全身鏡に自分の姿を映し入念にその姿を確認。本日初卸のリボンが大き目のボウタイブラウスの結び目を整えて、さぁ行くぞとヒールの音を響かせ化粧室を後にした私は、これから付き合って三ヵ月の恋人とデートである。
 エレベーターホールでエレベーターを待っている間、ボーナスで奮発したブランドもののバックからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。
 光を灯したスマホの画面には、彼からのメッセージが一通。時刻は、待ち合わせ三十分前。嫌な予感が胸のあたりに充満し始める。
『会社の人と飲みに行くことになった。今日は無理』
 絵文字は勿論、謝罪の一言もない一行が、彼とのトーク画面に映し出された。湧き上がってくる怒りと悲しみをなんとか心の中で処理しながら、私は盛大な溜息を吐いた。小さな音を立てて開いた、帰宅する他の会社員でいっぱいのエレベーターを見送って、今一度ボタンに指をかける。再び転倒したオレンジ色がじわりと滲んだ。
「おーい!お洒落しちゃって、これから彼氏とデートかなにか?」
 耳元で声がし、同時に背後から顔を覗き込まれる。同期入社の同僚は、私が目尻に涙を溜めているのを見るなり、何があったと眉根を寄せた。
「っ…ねー、聞いてよ。っ、ありえない、またドタキャンされた」
 目尻を濡らしていた涙を拭うと、情けない声を出しながら同僚の眼前にスマートフォンの画面を突き出す。
「…またあのクソみたいな彼氏?」
 同期は眉間に刻んだ皺を深くして、ゆっくり腕を組みながら問う。その間に、もう一度エレベーターが私達のオフィスがある階に停車し、通り過ぎた。
「今からデートだったのに…もう、なんでいつもこうなの」
「分かったから、取りあえず飲み行こう。話は飲みながら聞くから」
 彼女は慰めるように私の肩をぽんぽんと叩いた後、胸当たりまである軽くウェーブした髪をかき上げながら言う。
「え、でも、予定とかないの?折角の定時上がりだったのに」
 人事部に所属する私と違い、同期は証券会社でも花形のディーラー職に就いており、いつも多忙を極めている。そんなスーパーウーマンがこの時間に帰宅するのは予定があるからだと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「いやぁ、私も最近は七海くんを見習って定時退社を心掛けてるんだよね。今まではだらだら仕事しちゃってたなってつくづく思う。効率も上がるしアフターシックスも有効に使えるしね。ね、七海くん」
 言いながら、彼女は私に向けていた視線を横へとスライドさせる。その視線を追えば、七海くんこと七海健人さんが、私が二度も見送ったエレベーターのボタンを押したところだった。
 七海さんは彼女と同じ部署で、入社は私達よりも半年ほど遅い。年齢もたしか一個下。しかし恐ろしく仕事ができる男で、社内でもちょっとした有名人だ。
人事に所属する私は、彼の活躍を耳にする機会も多い。加えて、証券会社は精神不調者が多い職種の一つでもあり、七海さんの同僚の体調不良者の相談を、人事で受けたことも何度かあった。
「人間の集中力には限界があります」
 七海さんは腕時計を確認しながら事務的な口調で返答する。
「うんうん。お陰様で私も、逆に最近生産性上がったきがするもん。あ、そうだ七海くん。折角なら一緒に飲みに行こうよ」
「ええっ?」
 同期の思いがけない提案に、私は素っ頓狂な声を上げる。
「だって男性の意見もあったほうがいいでしょ?特にあんた、碌な男に引っかからないんだから」
「で、でも」
 口籠りながら、彼女と七海さんの間で視線を移動させる。私達は良くても、付き合わされる七海さんのことを考えると気が引けた。
「お誘いありがとうございます。折角ですからご一緒させていただきます」
「えっ?」
「やったー!よし、今日は飲もう!」
 七海さんから返ってきた答に目を見開く。同期は両手を広げて万歳のポーズをし、タイミングよくやってきたエレベーターに嬉々として乗り込んだ。
「行きますよ」
「あ、え、あ、はい!」
 私に一瞥をくれ、先に乗るよう促してくれた七海さんにペコリと頭を下げ、今度はがらんとしているエレベーターに飛び乗った。

 本当はデートで訪れるはずだった店は、会社員で賑わう薩摩料理を扱う人気店だ。二人だった予約を急遽三人にしたにも関わらず快諾してくれた店員に礼を述べ、私達はグラスを合わせた。
 木や竹で作られた高級感のある照明が和モダンの店内を一層お洒落に見せているのに、気負わず食事を楽しめる雰囲気があるこの店は、日本酒をはじめ、様々な種類のお酒を楽しめるのも魅力的だ。
「それで、あんたはいつまであんなクソ男と付き合ってるの?」
 向かいに座った同期はビールジョッキを半分ほど空にして、グラスの縁についたルージュを指先で拭いながら視線を向けてくる。
「クソ男って…」
「クソ男でしょうが。もうこれでドタキャンされるの何回目?絶対に遊ばれてるって」
「そ、そんなはっきり言わなくても」
 肩を竦めながら、握ったグラスの真っ白な泡と黄金色を口に含む。
「いやいや、この際はっきり言わせてもらうけど、絶対に碌な男じゃないから。出会いは、えっと、合コンだっけ?」
「…ナンパだけど…」
「ナンパが悪いわけじゃないけど…。で、何してる人なんだっけ?」
「広告系の営業…らしい」
「らしい?広告系ってどこの企業?」
「それは…知らないけど。聞いたけど教えてくれなくて」
 畳み掛けるように質問を重ねてくる同期に委縮しながらぼそぼそと答えれば、彼女は鼻先でひっかけるように笑った
「彼女に勤めてる会社を教えないとか、ないわ。限りなく黒に近いというより真っ黒よ。ね、七海くんもそう思うよね」
 残りのビールを飲み干しジョッキを叩きつけるようにテーブルに置いた同期は、私の隣に座っていた七海さんに水を向ける。彼は、さつま揚げに伸ばしていた手を止め、私をちらりと流し目で見た。外国の血が入っているのだろうか。鼻梁はすっと筋が通っており、店内の照明を取り込んだ瞳はまるで湧き出る泉のように澄んでおり、美しい。
「世の中には人に言えないような仕事もあります」
 思いがけず援護を得られ、私はぱっと顔を輝かせる。同期は不満そうに眉をしかめた。
「ですが――」
 しかし、七海さんは目を細めて諫めるように続けた。
「女性との約束を何度も反故にするのは理解できない」
 どくりと心臓が跳ね、頭に一気に血が昇るような感覚があった。
「さっすが七海くん。分かってるー。あんたも七海くんみたいな男にしたらいいんだよ。こんないい男そういないよ」
 店員を呼ぶため手を挙げた同期が、七海さんの肩を叩いて冷ややかな視線を送ってくる。私は溜息を漏らし、首を左右に揺らした。
「とばしすぎだよ。そんな風に絡んだら七海さんにも迷惑でしょ」
「迷惑じゃないよね、七海くん。それに今、フリーなんだって」
「え、七海さん彼女いないんですか?意外ですね、こんなに恰好良くて仕事もできるのに」
 私は目を丸くしてなんとなしに口にする。グラスに口を付けようとしていた彼の動きが再び止まる。
「ふふ、七海くん。恰好よくて仕事もできるだってー良かったね」
「ありがとうございます」
 同期はニヤニヤした笑みを浮かべながら七海さんを小突くも、言われ慣れているのか、彼は事務的な礼を述べるだけだった。私は再び口を開く。
「やっぱり良い男すぎると逆に女性もいけないのかもしれないですね。振られるのは悲しいし、身の程知らずって思われるのも嫌だし」
「まぁ、それは一理あるかもね」
「では、男性からいけば問題ないということですね」
 横から心地よい低音が口を挟んでくる。
「え?いやぁ、まぁ確かにそんな展開があったらドキドキしますよね。でも現実は甘くないです」
 私はかぶりを振り、お通しを摘まんで口に放り込む。実際、今の恋人のような男にしか巡り合うことが出来ない現実が私にはあるのだから。
「そもそも、今の恋人のどこに惹かれてお付き合いしているんですか?」
 七海さんがどこか挑戦的にも見える視線と一緒に、手厳しい言葉を寄越す。恐らく、私のことを馬鹿でアホで憐れな女だと思っているのだろう。
「えっと…それは」
 私は言葉に窮した。実際何処に惹かれているかと問われると、恋人のここが好きだと胸を張って言えるポイントが瞬時に思いつかなかった。
「なんだー、結局大した理由はないんじゃないの!ほら、もう女には時間がないんだからそんな男のことはさっさと振ってやりなさい」
「で、でも。なんだかんだで会った時は優しくしてくれるし、身体の相性は悪くないし、それに…一人は寂しいし」
 咄嗟に言い訳がましく言うが、適切な発言を出来ていなかったことは、額に指をあて眉間の皺を深くした七海さんと、呆れたように首を振った同期の顔を見れば一目瞭然だった。まだ一杯目で大して酔っぱらっていないにも関わらず、身体の相性云々は明け透け過ぎたと反省する。
「一人は寂しいかぁ。確かにあんた、占いでぼっちゾーンに星があるって言われたんだっけ」
「ちょっと違う!ぼっちじゃなくて、ぼっちに耐性がない寂しがりなんだって」
 先日行った有名な占い師の言葉を思い出し、ゆっくりと肯く。すると七海さんが――あくまでも想像だが、軽蔑の意を込めた流し目で私を見た、ように思う。この目が言わんとしているのは、占いなんて信じる奴は馬鹿過ぎる、といったところか。
「私はもっといい人が現れると思うけどね。案外相手は近くに居たりするもんだよ」
 同期は脂がたっぷり乗ったぶりの刺身を醤油に浸して口に入れると、咀嚼しながら口元に笑みを浮かべた。
「そんな簡単に言わないでよぉ。ごめんなさい、七海さん。付き合わせた挙句、しょうもない話ばっかり聞かせて」
「いえ、お気になさらず」
「あ、そういえば、先月七海さんが相談してくださった同僚の方、来週から無事復帰ですよ」
 眉一つ動かさない七海さんに苦笑を漏らしつつ、話を転じる。話題は、先月七海さんから相談を受け、休職対応をした彼の後輩にあたる人物の話である。
「そうですか」
「はい、ひと月で随分良くなったみたいでした。これも早めに相談してくださった七海さんのお陰です。きっとお忙しい部署で、七海さん自身も大変なのに、いつも周囲の方へも気を配ってくださりありがとうございます。お陰様で、人事はとても助かってます」
 襟を正して一礼する。かしこまり過ぎていたのは、早くも酔いが回ったからかもしれない。
「私達も貴女のような人がいてくださって助かっています」
 頬杖をつき顔を僅かにこちらに向けながら、七海さんは目を細めた。
 再び、心臓がどくどくと大きな音を立てた。顔がぼっと熱くなる。お礼なんて言われ慣れていない。恋人から感謝や謝罪の言葉を貰う機会もそうそうない。そんな私にとっては、彼のお世辞かもしれない一言が肺腑を衝いた。
「あ、あ、ありがとうございます」
「あはは、顔真っ赤じゃん。めっちゃどもってるし」
 同期は私の頬を掴みながらケラケラと笑った。まんざらでもないみたいに赤くなってしまった自分が恥ずかしく、私は顔の火照りが治まる暫くの間、自身の膝を凝視した目を上げることが出来なかった。 

*

 恋人から、自分の誕生日は空けていると返信がきたのは、件の飲み会から二週間ほど経過した日のことだった。定時後のオフィスのカフェスペースには、コーヒーの芳香が漂っている。
 残業が確定し沈んでいた気持ちが少しだけ浮上してくる。緩む口元を引き結んで、善は急げとある場所へ電話をかけた。
 ある場所とは、ビブグルマンにも掲載され、週末は予約を取ることが出来ない人気店だ。雰囲気抜群のワインと薬膳中華料理が有名な店は、彼の誕生日のその日、キャンセルが入ったタイミングであったため、19時からの予約も確保できた。いよいよ運が向いてきたのかもしれない。
「お疲れ様です。随分と楽しそうですね」
 もうひと踏ん張りとカウンター席を立ったところで、背後から声をかけられる。驚いて振り向けば、自分よりもずっと高い位置に端正な顔があり、こちらを見下ろしていた。エメラルドやペリドットのような宝石を彷彿とさせる瞳は、窓から射し込む夕日を反射し、相変わらず美しく輝いている。
「七海さん!先日はお付き合いいただきありがとうございました」
「いえ、私の方こそ楽しかったです」
「本当ですか…それならいいんですけど」
「それで、何か良いことでもあったんですか?」
 七海さんは私の隣に来ると、カウンターの上に社員が自由に飲めるように設置されているエスプレッソマシーンのボタンを押しながら問うてくる。ガーガーというエスプレッソを抽出する音が、小さなカフェスペースにはやけにうるさく響いた。
「えっと…実は、来週の彼氏の誕生日を一緒に過ごせることになりまして」
 言いながら口元が緩みそうになるのを必死で堪える。
「そうですか。それは良かったですね」
「はい。それに、ずっと行きたかった人気店の予約も運よく取れて。…今まで頑張ってたのを神様が見ていてくれたのかなって。だからもう少し頑張ってみようかなという気になって。仕事も鬼のように残ってるけど、なんとかその日は定時で上がれるように今日も残業を頑張ろうと…」
 そこまで言ったところで一旦言葉を切る。七海さんにも私の恋人のクソっぷりはばれているのに、盛大な惚気は彼を呆れさせるだけだろうと頭が冷静になったからだ。私は慌てて言葉を継いだ。
「って、ごめんなさい。こんな話されても、懲りないなって思いますよね」
「いえ。こんなに思われる彼氏が羨ましいとは思いましたが」
「え?」
 気まずさに泳がせていた視線を上げ、思わず七海さんを見上げる。もしかして七海さんは、過去の彼女に蔑ろにされた経験があるのだろうか。言葉の真意が気になったが、彼は話を続ける気はないようで、楽しんでくださいと言い置いて、淹れたてのエスプレッソが入った紙コップを持って去っていく。どうやら七海さんは、今日もきっかり定時退社のようだ。
 相変わらず仕事が出来て隙のない人だな。そんなことを思いながら、飲み終わったインスタントコーヒーのカップをダストボックスに放って、私は彼が行く方向とは反対のオフィスへ戻った。

 それから一週間、私は一日三時間、多い時で五時間の残業も厭わず仕事に明け暮れた。そしてそんな忙しい中でも、恋人に渡すようにと小さめだがホールのシフォンケーキも準備した。当日は一度も行ったことのない彼の家にお邪魔して、一緒に食べようと心に誓っていた。恋人から事前に了承は得られており、テンションが上がらずにはいられなかった。
 今まで家に連れていってもらえなかったのは、自分が遊び相手だからではないかと勘繰った部分があった。でも、その不安もめでたく払拭されそうだ。
 しかしイベントにハプニングはつきもののようで、終業時刻ぴったり、ラップトップを閉じてオフィスを飛び出したタイミングで、通り雨のように仕事が降ってきた。
「ごめん。週明けの防災訓練の準備手伝ってくれないかな。今日担当してた子がお休みになっちゃって。金曜だし、予定あるかな?」
 エレベーターホールで出くわしたのは、十年先輩である人事部のお局的存在だ。入社時から世話になっている彼女の眉は、八の字を形作っている。余程困っているに違いない。
 夏が遠ざかり、街路樹が色づき始め風が少しずつ冷たくなるこの季節は、防災訓練の時期である。毎年担当は持ち回り制で、今年は新卒の子にお鉢が回ってきていたが、確かに朝の勤怠報告で休みの連絡がきていたのを思い出す。
 私はウェアラブルウォッチを確認してから小さく息を吐き、手伝いますと力強く告げた。店の予約時刻は十九時であり、まだ十分余裕はある。
「本当に?助かる。恩に着ます!」
「私にも何かお手伝いできることはありますか?」
 先輩が声を弾ませたのと、背後から声が聞こえたのはほぼ同時だった。
「な…」
「七海くん!」
 私よりも早く、先輩が七海さんの名を呼ぶ。どうやら彼は、今日も定時で退社予定だったらしい。営業職でないにも関わらず、相変わらず見た目に隙がなく、今日も素敵なスーツを着こなしている。
「週明けの防災訓練の準備をしなくちゃいけないんだけど、そこそこ重量がある備品を運ばなきゃいけなくて、正直男手は助かるのよ。手伝ってくれるの?」
「少しでも人では多い方がいいでしょう」
 七海さんの返答に花が咲くように顔を輝かせた先輩は、有難うと私達に何度か礼を述べ、先に防災訓練用の備品が格納されている地下倉庫へと向かった。
「本当にいいんですか?そもそもこれは総務や人事部の仕事の一つで、七海さん達のような稼ぎ頭にお任せするような仕事じゃ」
「職種の優劣などありません。それに、貴女も今日は恋人と約束があるのでは?」
「それは…そうなんですけど」
「であれば、一分でも早く片付いたほうがいい」
 煮え切らない返事をする私に小さな溜息を一つ吐くと、七海さんはジャケットを脱いで、真っ白で清潔そうなシャツの袖を捲る。現れた筋肉質な腕に、思わず目を奪われた。
 上背があるせいか一見ほっそりしているように見えるのに、近くで眺めると、七海さんの胸筋や手足の筋肉は恐ろしく発達していることが分かる。これ、絶対脱いだらヤバいやつだ、と想像するだけでにやけそうになる口を引き結ぶ。
「何か可笑しいことでも?」
「え、いや、すごく良い体をされてるなって。脱いだら凄いんだろうなって思ったら」
 そこまで言って、はっと両手で口を塞ぐ。こんなセリフを口にしたら、このご時世ハラスメントで訴えられても文句は言えない。ましてや素面で本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「ご、ごめんなさい!別に変な意味じゃ」
「確かめてみますか?」
「えっ?」
 かつでないほどの近距離で、腰を僅かに屈めて耳元に唇を寄せた七海さんが、囁くように言った。低音が鼓膜を震わせる。その色気に思わず身体が固まって、私は二の句が継げなくなった。
「…冗談です」
 七海さんはどこか罰が悪そうに首をかくと、行くぞと私を視線で促した。私も恥ずかしさを誤魔化すかのように威勢よく返事をし、彼の大きな背中を追いかけた。
 エレベーターホールに設置された大きな窓から見える空は、橙色と藍色のグラデーションで染まり始めていた。

 七海さんのお陰で、作業は覚悟していたよりもずっと早く終わった。先輩は泣きそうになりながら礼を述べ、まだ別の仕事があるからと忙しそうにオフィスに戻っていった。
「七海さん、本当にありがとうございます。これで時間に間に合いそうです」
 肩を並べてオフィスを出ると、頭を下げて改めて彼に礼を言い、鞄からスマホを取り出し時刻を確認する。するとその刹那、不吉な振動と共に画面にメッセ―ジ通知が表示された。恋人からのものだ。
「…これ、デジャブじゃん」
 メッセージを開ける前から、この後の展開は予測できた。私は雨粒が落ちるようにポツリと呟き、ゆっくりと画面をタップする。七海さんは私の表情で何かを察したのか、張り詰めたような表情を浮かべている。
『会社の人と会食になった。今日はそっち行けそうもない』
 画面に表示された素っ気ない一文。一瞬、涙腺が危うくなった。同時に噴火口へせり上がる溶岩のように怒気が突き上げてくる。しかしその両方をかなりの努力で我慢して、私は七海さんの眼前にスマートフォンの画面を突き出した。
「見てください、七海さん。これ、笑っちゃいますよね。直前にドタキャンとか…まぁ、いつものことなんですけど」
 無理に明るく努めているのが分かるのか、七海さんは先程よりもさらに表情を険しくしていた。彼は優しい人だな、と改めて思う。今日も私が早く上がれるようにと残業を手伝ってくれ、さらにはドタキャンをくらった同僚を不憫に思ってくれて。
 私達の間に、重たい静寂が訪れる。七海さんは私にかけるべき言葉を探しているのかもしれない。そう考えると余計に惨めで、堪らず口火を切る。
「あの、七海さん。もし良ければ、あ、本当に良ければで全然いいんですけど、今から夕食…付き合ってくれませんか?このお店、今回を逃すと行ける機会がないかもしれないし、勿体ないので」
 おずおずと背の高い七海さんを見上げる。美しい瞳と視線が絡む。彼の背後には藍色の空が広がり、星が瞬き初めていた。
「店の予約時間は?」
「え、あ、えっと、十九時なんですけど」
「場所は?」
「えっと、横浜の湾岸エリアの方で」
 自身の時計をちらりと確認するが早いか、七海さんは私の手を掴み歩き出す。
「え、あの、七海さん」
「もうあまり時間がない。急ぎます」
 早口に言う七海さんの足は駅ではなくタクシー乗り場へ向かっていた。
「い、一緒に行ってくださるんですか?華金なのに、あの、突然誘っちゃいましたけど、予定とかは」
「生憎貴女のように誕生日を祝ってくれる素敵な恋人もいませんから」
 七海さんの思いがけない言葉に、胸がきゅっと窮屈になった。彼の恋人になる女性は、きっと幸せだろう。レディファーストでタクシーに乗せてくれた彼を見ながら、私は少しだけ寂しい気持ちになった。

 横浜のベイエリアの路地裏を入ったところに店を構える薬膳中華料理店は、情熱的な深紅を基調としており、ダイナミックな吹き抜けと洗練された家具やインテリアが優雅な雰囲気を醸し出していた。
 案内された席は窓際で、丸く切り抜かれた窓からは海沿いの夜景を眺めることができ、まさに恋人達のデートに相応しいお店だった。
 我ながら奮発した、と改めて思う。同時に、ここまでしてあげたい恋人だったのだろうかと脳裏に疑問が挟まるも、気づかない振りをして、ウエイターが広げたドリンクメニューに視線を落とした。
「今日は付き合ってくださってありがとうございます。一週間お疲れ様でした」
「貴女もお疲れ様でした」
 白い泡立つ琥珀色の液体が注がれた繊細なシャンパングラスを傾け乾杯する。この店はシャンパンだけでなく、ワインの品揃えも充実しており、ソムリエが薬膳料理とのマリアージュを考えて厳選した銘柄が日替わりでいただけるらしい。
 料理の味付けはどれも繊細で、ワインとの相性も抜群だった。どうやら七海さんはグルメのようで、ソムリエ以上に分かり易く説明してくれ、想像以上に話しに花が咲いた。
七海さんはそのクールな見た目からどこか冷たい印象を受けるが、本当はとても優しくて情熱的な人のような気がした。
「七海さんは、週末はいつも何をして過ごされるんですか?」
 デザートのシャーベットを口に含んで溶かした後、私は徐に尋ねる。冷たさと甘さが舌の上で広がって、唾液が口内に滲む。
「そう変わったことはしていないと思います。そういう貴女はどうなんですか?」
「そうですね…私は平日は全力で仕事を頑張るので、週末は結構だらだらしちゃうことが多いかもしれません。でも本当は…」
「本当は?」
 そこで一度言葉を区切ると、七海さんが続きを促す。
「本当はもっと休日に恋人とデートが出来たらいいなって思います。実は…今の彼とは土日に出かけたことも一度もなくて。一度だけ休日デートをしようってことになって、はりきって美術館のチケットまで取ったんですけど、それも当日に連絡とれなくて、友人に付き合ってもらったんです。…二週間後は、今度は私の誕生日なのでお出かけ出来たらいいなと思ってましたが、まぁそんなの当然覚えてないでしょうし。…って、口に出すと本当に碌でもない男ですね。ごめんなさい。また負のオーラを引き寄せるような話をしてしまって」
 七海さんの目が鋭く細められるのを見て、私は逃げるようトイレへと席を立つ。本当に私は大馬鹿者だ。折角美味しい料理を食べに来て、七海さんも付き合ってくれたというのに、これでは彼にも後味悪い思いをさせてしまう。
 フェイスパウダーをたたいてリップを引き、軽くメイクを直してテーブルに戻ると、「そろそろ出ましょうか」と七海さんへ声を掛ける。時刻は二十二時を回ったところであった。
 チェックのためウェイターを呼ぼうとすれば、七海さんに挙げようとした手を制される。
「え?」
「今日は私が」
「え、え、そんな、だめです!」
 慌てて大きくかぶりを振るも、七海さんはさっさと立ち上がりジャケットを羽織るとエントランスへと長い足で歩いていく。
 ありがとうございますと慇懃に礼を述べる店員達を見るに、どうやら既に会計も済まされているようだ。私は益々慌てて先に店を出た彼を追いかける。
「ちょっ、七海さん!やっぱりダメです。私が無理やりお誘いしたんですから」
「私も美味しい食事と酒を頂きましたし、貴女のお陰で楽しい時間を過ごせました」
「で、でも。それじゃ私の気がおさまりません」
「でしたら、少し付き合ってください」
 そういうと、七海さんは私に合わせて歩調を緩めた。私は観念して頷き、彼の横に並ぶ。冷たい潮風が、頬を掠めた。
 広く整備された歩道からは、ライトアップされた観覧車やランドマークの高層ビルが見えた。夜空を映した海に煌びやかな光が反射する光景は、何度見ても目を奪われる景色だ。   
 アルコールが回っているせいなのか、久しぶりのデートと張り切っていつもよりヒールが高い靴を履いてきたせいなのか、足元が覚束ない。
 ヒールの先がタイルの間にめり込んで躓きそうになった私を見かね、七海さんが私の手を取った。大きな手の温もりに、ぶわりと身体の温度が上昇する。脈が奔り始めた。
「あの、七海さん……ケーキ食べますか?」
 どういうつもりで私の手を握っているのでしょうか?親切心から?それとも一夜限りの都合のいい女として?
 聞きたいことが山ほど浮かんできたが、それらを無理やり呑み込んで、私は突飛な提案を口にする。案の定七海さんは一瞬面食らったような表情をしていたが、ありがとうございますと首を縦に振り、近くのベンチへ私を誘導した。
「はい、こちらシフォンケーキです。一応手作り…となっております。あ、ちゃんと使い捨てのカトラリーも持ってきてます。お口に合うといいのですが」
「…愚問です」
 それだけ言うと、七海さんは丁寧にラッピングを解いた。それはつまり美味しいと確信してくれているということか。
 いただきますと手を合わせた後、シフォンケーキをペロリと平らげてくれた。その一つ一つの所作が美しすぎて、まるで英国貴族のようで、思わず見とれてしまっていたのにはどうか気づかないで欲しい。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「ありがとうございます…なんか、逆に食べていただいて申し訳なかったです」
 ゴミになった箱やラッピングを袋にひとまとめにし、ベンチを立って隣にあったゴミ箱へ放ると、私は深々と七海さんに頭を下げる。
「いえ。こちらは感謝したいくらいです」
「いえいえ、七海さんに感謝しなきゃいけないのは本当に私の方で」
「先ほどの話ですが」
 七海さんが、私の言葉に被せて口を開く。気づけば手首は彼の大きな掌に掴まれていた。
「…あの、七海さん?」
「貴女の誕生日は、私に付き合っていただけませんか?」
「え…え?」
 それは先程の遣り取りの件だと思い出す。しかし七海さんの言葉の真意が分からない。恋人でもない女の誕生日に付き合って欲しいとは、七海さんが私に気があると勘違いしてしまいそうになる。
 いやいやそんなはずはないだろうと心の中でどこか浮かれる自分を叱咤して、私はゆっくり首肯した。どうせ恋人に会う予定もないし、そもそも、先ほど私の気がおさまらないと言った手前もある。恋人がいるのに他の男と出かけるのは自分の倫理観に反していたが、七海さんは同僚だからと無理やり自身を納得させた。
「詳細は追ってご連絡します。連絡先を教えていただけますか」
「あ、は、はい!」
 スマートフォンの電話帳に、彼の名前と番号が追加される。私はそれを、どこか浮き立った気持ちで眺めていた。先ほどから心臓がぎゅうと鷲掴みにされるような感覚を何度も味わっている。
「送ります」
 そういうと、七海さんはそっと私の手をとって歩き出す。まるで恋人のように当たり前に握られた手を、私は振り払うことが出来なかった。
 光を灯したマリーンルージュが、ゆっくりと海を滑っていく。
[newpage]
「なんか嬉しそう…もしかして、何かあった?」
 週明けの業務開始五分前、頭を仕事モードに切り替えるため、カフェスペースで熱々のブラックコーヒーを飲んでいると、背後から同期に声をかけられる。彼女の手には持参のマグカップが握られており、私に含み笑いを向けながら、器用にコーヒーメーカーにカップをセットする。
「何か…なくはないけど」
「何々、何があった?…まさか、あのクソ男じゃないでしょうね」
「違う…違うよ。アイツには先週末もドタキャンされて謝罪なし」
 忌々しげに呟く私に、彼女は渋面を作って頭を左右に揺らす。
「ない、本当まじない!」
「うん…私もないよなって思ってるんだけど…」
「まぁ気持は分かる、情が湧くよね。あんた優しいから。でも、そんなもん新しく好きな男や恋人ができたら綺麗さっぱり消えるから」
「新しい人なんて…」
 先週末の七海さんとの出来事を想起し、口籠る。
「できたんだ」
「いや、まだ好きとかじゃ」
「別に好きじゃなくて、気になる人でもいいじゃん。で、誰?」
「えっ」
 同期は淹れたての珈琲を舐めるように一口飲むと、私の顔を覗き込み、興味深げな視線を送ってくる。
「うっ…あの…えっと、その…な、七海さんに、誘われて」
「ほうほうほう」
 彼女は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑みを作り、髪をかき上げた。
「な、何?もしかして、何か知ってたりするの?」
「えー、知ってるって?」
「その…例えば…七海さんの恋愛関係のこととか」
「さぁ、どうかなー。っていうか、本人に直接聞いてみればいいじゃん」
 同期は私にウインクを飛ばすと、くるりと踵を返し、自身のデスクへと向かっていった。その背中を見つめながら改めて考える。私は七海さんのことをどう思っているのだろうか。七海さんはどうして、私を誘ったのだろうか。





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