夏油さんと喧嘩して仲直り


 9月も中盤を過ぎた週末、私は今日もラルゥさんの店で額に汗して働いていた。現在夜中の三時半。連休を控えた今日は、客が引きも切らない大盛況で、私はまだ自宅に帰れずじまいだった。
「悪いわね。遅くまでいてもらっちゃって」
 首を右へ左へ倒して関節をゴキゴキと鳴らしながら、ラルゥさんが声をかけてくる。ようやく最後の客が帰った後のテーブルを片していた私は、首を横に振った。
「いいんです。明日は夏油さんの手伝いの予定もなかったですし」
「お給料は弾むわよ。それより、途中からちょっと元気なかったじゃない?客にお触りでもされた?」
 シンクに溜まったグラスを洗い始めながら、ラルゥさんはカウンター越しに探るような視線を向けてくる。
「あー…えっと」
「なによ。悩みがあるなら話しちゃいなさい。人生経験はそれなりに豊富よ」
 綺麗に片目を瞑るラルゥさんに「同い年でしょ」と苦笑を返し、少し逡巡した後ゆっくりと口を開く。
「悩みっていうか…ちょっと気になることがあったんですけど。…ラルゥさん、さっきのお客さん達がしていた話、聞いてました?」
「最後の風のお客様達のこと?えーっと、なんだったかしら」
 水商売の女性を「水」、風俗で働く女性を「風」と呼ぶのだと、ラルゥさんから教えてもらった。
「ほら。とあるイケメン宗教家の話です」
 そこまで言うと、ラルゥさんが思い出したように大きく肯いた。
「確かに話していたわね。それで、その宗教家がどうしたの?」
「その宗教家…その、いわゆる性交のパワーで不浄を祓うとかなんとかって言ってて…。そんなの明らかにやりたいだけの悪質詐欺に見えるんですけど…でも、なんかそのセックスが凄い御利益があるって話してたじゃないですか…」
「あんたもしかして、その宗教家が傑ちゃんなんじゃないかって気になってるの?」
「え、ちっ、違います!」
 ムキになって言い返すも半ば図星を言い当てられ、羞恥で顔が熱くなる。
「うふっ、顔真っ赤よ。そぉ、やっぱり傑ちゃんのことが気になってるのね。無理もないわよねぇ、イイ男だし」
「だから違いますって!私はただ、もしそれが本当なら美々子ちゃんや菜々子ちゃんに良い影響がないなと思っただけで…」
「あら、でもそれが仮に真実でも、美々子や奈々子にばれなければ全く問題ないじゃない?だって傑ちゃんには伴侶はいないわけでしょ。ついでに言っとくと、彼に抱かれて喜ばない女性はいないわよ」
 勝手に話を進めるラルゥさんに抗議すれば、彼は眉を聳やかし淡々とした口調で指摘した。私ははっとなって口を噤む。
 確かにラルゥさんの言う通りだ。夏油さんが信者に性交パワーと称してセックスをしていたって、私には何の関係も問題もないはずだ。それなのに、心の中で蟠っているこのもやもやしたものは何だろう。
「確かに…そうですよね。すみません、なんか変なこと言って」
「ねえ、あんた」
 ラルゥさんが何かを言いかけた間合いで、カウベルが鳴る。既にドアノブにはcloseの看板をぶら下げており、閉店後に誰だろうと眉を顰めて入り口を見れば、店に入ってきたのは夏油さんだった。
しかし彼は一人ではなかった。ボンキュッボンというオノマトペが背後に見えるくらい抜群のスタイルを持ち、街ですれ違えば思わず振り返ってしまうような美貌を持つ女性が、夏油さんの隣に立っていた。
「あら、珍しいわね」
 呆気にとられる私を余所に、ラルゥさんは顔見知りなのか、夏油さんとその美女にカウンターの椅子を勧めた。私は動揺を悟られないようにしながら、急いでカウンターの内側に回りおしぼりを用意する。
「あの、おしぼりどうぞ」
「あら、ありがとう」
 女性は私にニコリと笑みを向け、受け取ったおしぼりで手を拭いた。形の良い爪はパールで彩られており、女性らしい細い指だった。途端に、ネイルもしていない自分の指が恥ずかしくなり、私は手を引っ込める。夏油さんの視線を感じるが、私は彼の方を見ることができなかった。
「今日は二人揃ってどうしたの。こんなに夜遅くに」
「いや、彼女とは店の前で会ったんだよ。私は別件」
 ラルゥさんが意味深な笑みを浮かべながら訊ねると、夏油さんはさらりと言った。
「あら、そうなの?」
「ラルゥ。私、焼酎の水割り頂戴」
「もう店仕舞なんだけど。しょうがないわね、一杯だけよ。傑ちゃんは?」
 女性がオーダーしたドリンクの準備をしながら、ラルゥさんが夏油さんに水を向ける。しかし彼は小さく首を振って、座ったばかりの椅子から立ち上がり、私の名を呼んだ。
「は、はい!」
 大きく返事をすれば、ちょいちょいと手招きされる。
「もう店仕舞なら、彼女は不要だろう。悪いけど連れて帰るよ」
「遅くまで拘束しちゃってごめんなさいね。今日は忙しいから助かっちゃったの。また宜しくね」
「あ、はい。じゃあお先に失礼します」
 私はラルゥさんと女性にペコリと頭を下げ、エプロンを外して荷物を持ち、先だって店を出ていく夏油さんの後を追う。
「あの子が例の夏油様の?」
「そう。うちの大事な従業員ちゃんなんだけど。なーんか見ててもやもやするのよね、あの二人。今日だって、どうせ遅くなって心配だから彼女のこと迎えに来たんでしょうに。傑ちゃんも素直じゃないのよね」
「彼女の方も鈍そうね」
「こっちで何か仕掛けてあげないと難しいかしら」
「ラルゥ。余計なことすると夏油様に嫌われちゃうわよ」
「それはやぶさかではないわね」
 私と夏油さんがいなくなった店内でそんな会話がされているとは露知らず、私は彼の背中を追いかけた。あっという間に追いつく。いつからだろう。夏油さんが、私の歩幅に合わせて歩いてくれるようになったのは。
 真夜中の新宿は、相変わらず煩いくらいのネオンが瞬いており賑やかだった。短いスカートを履いた女の子やキャッチの男性が、暇そうにスマホを眺めていた。その横を通り過ぎながら、店を出てから無言の夏油さんに声をかける。
「あの、こんな真夜中に何か用事があったんですか?」
「そんなことより、こんなに遅くなるなんて聞いてないけど?」
 夏油さんは私を流し目で一瞥し、素っ気ない口調で言った。些か棘のある言い方に、疲れも相俟って私はついムッとなって言い返した。
「そんな言い方ないじゃないですか。今日は週末でラルゥさんのお店も忙しかったんですから。自分の意志で働かせてもらったんです」
「じゃあ連絡の一つでも寄越したらどうだい?君はうちの居候なんだから、家主に迷惑をかけない配慮はすべきだ」
 突き放すような言い方に、鼻の奥がジーンとなって目頭が熱くなってくる。涙が零れないよう必死に目に力を入れ、私は左手の薬指を見せつけるように突き出して抗議する。
「確かに連絡をしなかったのは悪かったと思います。でも夏油さんに何か迷惑をおかけしましたか?家のことはしっかりやっているつもりですし、私の所在はこの呪物の赤い糸のせいですぐ分かるんですから、連絡の一つや二つしなくても問題ないですよね?」
「そんなに文句があるなら出ていけばいい」
 夏油さんは地を這うような声で言った。私を見る切れ長の瞳は、鋭く冷ややかだった。
「っ…そんな言い方なくないですか?確かに私は夏油さんにおんぶに抱っこですけど…夏油さんの教団のお手伝いだって精一杯やってるつもりです。それがたとえ関心しないやり方でも、目を瞑ってますよ。…本当は、本当は若い女性達をたぶらかして、性交パワーの御利益とか言って、そういうこともしたい放題してるんじゃないんですか!」
 つい感情的になって、先ほどの疑念が口から滑り出る。言い過ぎたと撤回しようにも時は既に遅く、目の前の夏油さんは端正な顔をこれでもかと顰めていた。
「…いったい何の話をしてるんだい?」
 後には引けず、私は開き直って続けた。
「今日、ラルゥさんのお店でお客さんの女の子が話しているのを聞いたんです。宗教家の中には、自分の容姿の価値を分かってて、信者と情を交わすことでご利益をもたらすって布教する人達もいるって…」
「それが私だって言いたいの?」
「そういうわけじゃ」
「仮にそうだとして、君には関係のない話だろう?私の団体だ。やり方に口を出される権利はないと思わないかい」
 夏油さんは嘲笑するような笑みを浮かべ、ラルゥさんと同じことを言った。その通りなのだ。夏油さんが何をしようと、私には関係ないはずなのに。どうして、どうしてこんな胸が圧迫されたように苦しいのだろうか。
「もう…いいです」
「好きにすればいいよ。君ひとりどうなろうと私には関係ない」
「っ…夏油さんの馬鹿!」
 私は地面を強く蹴り、来た道を引き返していた。背後から追ってくる気配はない。涙が弾け飛んだ。
「っ…はぁ、はっ、ラルゥさぁぁぁぁん」
 行くあてもなくラルゥさんの店に戻れば、既にカウンターに美女の姿はなく、彼女が使用したであろうグラスを洗い終えた彼が、面食らったように私を見た。
「ちょっと、どうしたのよ」
 そのまま地面に崩れ落ちた泣きじゃくる私を、カウンターから慌てて出てきたラルゥさんが起こして椅子に座らせてくれた。
「ひっぐ、うぇっ、うっ、うっ」
「泣いてちゃ分かんないでしょ」
「夏油さんにっ…夏油さんに、私がどうなろうとか、関係ないって、ひっく、言われて。やり方に文句があるなら、ひっぐぅ、出て行けってっ」
 しゃくりあげの声をあげる私の背中をさすりながら、ラルゥさんが盛大な溜息を吐いた。疲れているところ申し訳ないと思うも、涙は止まってくれない。
「ほーんと、世話が焼けるわね。あんた、今日は私の家に泊まりなさい。傑ちゃんと仲直りできるまで、うちに居てくれていいから」
 本当に不器用なんだから。
 ラルゥさんの心底呆れたような呟きは、私の泣き声に掻き消された。

*

 夏油家から家出をし、既に五日が経過していた。美々子ちゃんと菜々子ちゃんからのメッセージは一日に複数回受信するのに対して、夏油さんからの連絡はあの夜以降一度もない。
「いい加減仲直りしたら?」
 朝食のトーストを齧りながら、ラルゥさんは呆れたように言った。向かいに座った私はフォークでハムエッグをぐしゃぐしゃと解しながら、小さく溜息を吐く。
 ラルゥさんの自宅は、店から十五分ほど歩いたところに数年前に建てられたばかりの新築タワーマンションだった。謎に包まれていた私生活を垣間見て、私はラルゥさんを尊敬した。
 新宿区の一等地に部屋を借りられるだけの財力。掃除の行き届いた部屋、料理の上手さといった家事力の高さ。是非とも嫁にもらいたいと冗談で溢したら「生憎女と付き合う趣味はないの」と一蹴されてしまった。
「だって、夏油さんに出て行けって…関係ないって言われたんですよ」
「そんなの、売り言葉に買い言葉に決まってるでしょ」
「でも、私も夏油さんに酷いこと言っちゃって」
「あんたのそれも売り言葉に買い言葉だったんでしょう。きっと傑ちゃんも同じように後悔してるわよ」
 ラルゥさんは舐めたように綺麗な皿をシンクへ運びながら、「さっさと食べちゃいなさい」とまるで我が子を躾けるように言った。
「…どうして、どうして夏油さんが後悔してるなんて分かるんですか。本気かもしれないじゃないですか」
「それは勿論…」
 そこまで言って、ラルゥさんは言葉を切る。私は眉根を寄せて彼を見た。
「それは勿論…なんですか?」
「それは勿論、傑ちゃんは優しい男だから」
 例によってラルゥさんは綺麗なウインクを飛ばしてくる。なんとなくはぐらかされたようで腑に落ちないが、結局夏油さんの真意など本人にしか分からない。
 私も、いつまでも冷戦をしていたいわけではなかった。夏油さんに失礼な言葉を浴びせてしまった自覚はあるし、彼との会話がない日々は張り合いがなく寂しかった。それでも、自分から謝る勇気が出ない。もう一度あの冷たい瞳で拒絶されたらと思うと、怖くて仕方がなかった。
 日中用事を済ませてから店に出勤するというラルゥさんを見送ってから、私は家に置いてもらう代わりに引き受けた家事を済ませる。それが全て終わったところでソファに腰掛ければ、ローテーブルに放ってあったスマホの画面にメッセージ履歴が光った。慌てて手に取ってみると、メッセージは美々子ちゃんと菜々子ちゃんとのグループチャットからだった。内容を確認すれば、ランチのお誘いだ。
 二人が私の家出の理由をどう聞いているかは分からないが、心配してくれていることは間違いない。胸が温かくなると同時に、心苦しい気持ちが湧き上がってくる。
「了解です、と」
 私は直ぐにスタンプで快諾の意を伝えると、そのまま画面をブラックアウトした。情けなく眉尻の下がった女の顔が映っていた。

「こっちこっちー」
 指定された店に行けば、既に美々子ちゃんと菜々子ちゃんは到着していた。二人が選んだお店は、新宿に最近できたばかりのピザ屋さん。自由にトッピングが選べ、写真映えすると若者にも大人気のお店だ。勿論味も折り紙付き。
 二人のセンスに感動しながらピザを注文し終えると、私から口火を切る。
「今日来ること、夏油さんにはちゃんと伝えてある?」
「言ってないし。だって夏油様に行ったら止められちゃうもん」
「ええっ!それ、大丈夫かなぁ」
 あっけらかんと言う菜々子ちゃんにひとり慌てていると、彼女は早々に核心を突いてくる。
「ねぇ、ラルゥのお家で修行してるって本当?」
「え?」
 どうやらそういうことになっているらしい。それにしても修行とは、と思いつつ曖昧な笑みを浮かべて頷けば、菜々子ちゃんは「やっぱりー」と呆れたように息を吐いた。
「やっぱり嘘じゃん。夏油様もなんか様子がおかしいし、絶対嘘だと思ってたんだけど」
(ば…ばれてる)
 どう説明したらいいものかと考えを巡らせていると、美々子ちゃんがぽつりと口を開く。
「いつ戻ってくるの?」
「あ、えっとね」
「今、夏油様の具合があんまりよくなくて」
「……え?」
 美々子ちゃんの言葉に、目を丸くして僅かに身を乗り出す。丁度店員がピザを運んできて、テーブルに並べていく。それを見届けてから、私は再び口を開いた。
「美々子ちゃん、夏油さんの具合が良くないって、どういうこと?」
「分かんない。でも最近本当に具合悪そうだからちょっと心配」
「病院はちゃんと行ったの?どんな症状?」
「夏油様は普通の病院は嫌がって行かないから。症状は分からないけど、顔色が凄く悪くて」
 美々子ちゃんの言葉を聞きながら、頭に一つの可能性が過り、私は自分の左手の薬指を見つめた。ひょっとすると、呪い殺される予兆なのではないか。背筋が刃物で撫でられたようにひやりとした。
「今日はそれを伝えておきたかったから。あ、ここは奢ってよね」
 菜々子ちゃんは締め括るように言うと、焼き立てのピザに器用にナイフを入れて食べ始めた。それに倣い、私もピザを一切れ取って口に入れる。美味しいはずの食事が、まるで砂でも噛んでいるように味がしなかった。
 二人と別れると、少し早いが私はラルゥさんの店へと向かった。平日夕方の新宿は、仕事終わりの多くの会社員で賑わっていた。夏油さんなら絶対に近づきたがらないだろうと考えながら、先ほどの美々子ちゃんの言葉を頭の中で反芻していた。
――顔色が凄く悪くて
 そこでふと考える。もし夏油さんに命の危機が迫っているのであれば、私も同じような症状が起きるのではないか。しかし私はぴんぴんしている。これはどういうことだろう。もしかして、赤い糸で繋がってしまった当初のように、夏油さんの方で呪力を制御してくれているとか?分からない。本人に聞いてみないことには。
 答えの出ない自問を繰り返し、ラブホ街を通り過ぎていると、私の目は、よく見知った人物達の後ろ姿を捉えた。思わず足が止まる。
 見慣れた五条袈裟とスタイルの良さを強調するロングドレス。ラブホ街の一画にいたのは、夏油さんと先日一緒にラルゥさんの店に来たあの美しい女性だった。
 私は目を疑った。どうして二人がこんな場所にいるのか。男女がラブホ街にいる。導かれる答えは一つしかない。夏油さんは具合が悪いんじゃないの?美々子ちゃんと菜々子ちゃんを放っておいて自分は綺麗な女の人と宜しくやってるの?
 怒りと悲しみが一緒になって湧き上がってくる一方で、彼のプライベートにまで口出しする権利などないと自嘲する。私は夏油さんの恋人でもなんでもないし、ただの居候の身だ。夏油さんがどんな女の人と付き合って、キスして、セックスしようが、関係ないはずなのに。
 きゅっと唇を噛んで、視線を引き剥がすようにして踵を返し、思いきり地面を蹴る。視界の端に、ちらちらと赤い糸が光る。どうか夏油さんが私に気づきませようにと祈りながら、私はラルゥさんの店まで全力で走り続けた。
 営業開始時間になっても、私のパフォーマンスは最悪だった。頭の中には、日中の美々子ちゃんの言葉と、先ほど目撃した光景が何度も過り、私は今日三度もグラスを落として割ってしまった。
「ちょっと!」
 とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、客が一旦捌けたタイミングで、ラルゥさんが打ち据えるような声を出す。
「は、はい」
「やる気がないなら帰りなさい。何度もグラスを割られたら迷惑よ」
「っ、ごめんなさい。ちゃんと切り替えます」
「いいわ。やる気のない子に居られても店の雰囲気が悪くなるだけ。今日はもう上がりなさい」
「でも」
「これは店主命令よ」
 平手打ちするような厳しい口調で言われてしまえば、反論の余地はなかった。
「…はい」
 消え入りそうな声で返事をすれば、肺の息を全て吐き切るような盛大な溜息が鼓膜を揺らす。上目遣いにラルゥさんを見れば、彼は手のひらを返したように優しい笑みを浮かべていた。
「傑ちゃんのことがそんなに気になるんなら、家に帰りなさい」
 はっと息を呑んでラルゥさんを見る。彼には全てお見通しのようだ。それでも私は小さく首を振る。
「…そんなんじゃ、ありません」
「そう。じゃあ明日に備えてしっかり休むことね」
 とぼとぼと店を後にしてラルゥさんの自宅へ帰り着くと、電気も点けずにソファに倒れ込む。カーテンを開け放った大きな窓からは、宝石箱のような東京の夜景が見下ろせる。
 ラルゥさんに喝を入れられても尚、私の脳味噌の殆どを夏油さんが占めていた。こんな状態では、明日の勤務にも支障が出ることは火を見るより明らかだ。
 気持を固めた私は、ソファから立ち上がっていた。
 この世界で、夏油さんは私の恩人だ。ちゃんと先日の無礼を詫びて、彼の様子を確認しよう。私にできることがあれば彼を助けたい。それが、私が夏油さんに返せるものだ。
 ラルゥさんに書置きを残してマンションの扉を開けたその時だった。ぼふっと、硬いものに衝突する。視界が黒く塞がれて、こんなところに壁などなかったはずだと眉を顰めれば、白檀の香りが鼻孔を掠めた。顔を見なくても、それが誰なのか直ぐに分かった。
「……夏油…さん?」
「…なんだ。普通に元気そうじゃないか」
 夏油さんは気の抜けたような声を出して、そのまま壁伝いにずるずると座り込んだ。
「ちょっ、夏油さん。こんなところじゃ目立ちますから。…ラルゥさんのご自宅ですけど、取りあえず中に入ってください」
 いくら内廊下とはいえ、フロアの住人が通ればこの五条袈裟の男に不信感を抱くだろう。私は彼を無理やり立たせると、半ば強引にラルゥさんの自宅へと連れ込んで、ソファへ腰掛けるよう促した。人ひとり分空けて夏油さんの隣に腰を下ろすと、気まずい沈黙が横たわる。その圧迫感に堪えられず、私から口火を切った。
「あの、夏油さん。さっき仰ってた『普通に元気そう』って、どういう意味ですか?」
「ああ、ラルゥから君の体調が随分悪そうだって聞いたから。それで、もしかして呪物に関係することじゃないかと思って来てみたら」
「え、待ってください。私も、美々子ちゃんと菜々子ちゃんから夏油さんの具合が悪そうだって聞いて」
「私が…」
 同じタイミングで小さく息を呑み、顔を見合わせて嘆息する。
「……もしかして…なんか仕組まれてましたかね」
「もしかしなくてもだろう。…まったく、君が家を出ていくから」
「そ、それは!夏油さんが出ていけなんて言うから」
 そこまで言って口を噤む。これでは、先日と同じことの繰り返しだ。私は夏油さんに向き直り、ガバリと頭を下げる。
「この間はごめんなさい。夏油さんの家にお世話になっているにも関わらず、ご心配をおかけするようなことをして。…事前に連絡すべきでした」
 夏油さんは何も言ってくれない。無言の圧力が怖くて中々顔を上げられずにいると、顔の下に大きな手が伸びてきて、それが私の顎を掴み、強制的に上を向かせた。切れ長の瞳と視線が絡み合う。
「もういい。何もないならそれで」
「は…はい」
 その声の切実さに、心臓がドクドクと太鼓のように鳴り始める。体を巡る血が沸騰しているように熱い。
(どうしよう。私きっと、顔真っ赤だ)
「そ、それと!あの、信者の人と性交してるんじゃないかとか、本当に失礼なこと言っちゃってすみませんでした。それに、例えそうであっても…私がそんなこと言う権利はないのに」
 恥ずかしさを誤魔化すように慌てて付け加えれば、夏油さんは眉間に渓谷のような深い皺を刻んだ。
「君はどう思ったの?」
「へ?」
「私がそういうことをしてたら、どう思う?」
「それは…」
 夏油さんの射貫くような視線が痛い。見つめられている部分から発火してしまいそうだ。ごくりと唾を飲み、消え入りそうな声で呟く。
「…ちょっと、嫌でした」
「ふーん」
 夏油さんは意地悪そうに口角を吊り上げた。悔しくて、断じて恋愛感情などではないと反駁しよう口を開く。
「あくまでも、一般論としてですからっ!それに、夏油さんにはその…ちゃんと恋人の方がいらっしゃるんですから、その方にも失礼だと思いますし」
「恋人?誰のこと」
 夏油さんは身に覚えがないと言わんばかりに首を傾げた。
「この間、ラルゥさんのお店に来たあの綺麗な女性です。今日だって…一緒にその…ホテルから出てきましたよね。…夏油さんの五条袈裟目立つから」
「なんだ、見ていたのか」
 心臓が小さな針で刺されたようにチクリと痛んだが、気づかない振りをする。
「ほら、いらっしゃるじゃないですか。恋人」
「菅田は恋人じゃない。今日はたまたま彼女に呼び出されただけで、ホテルから出てきたのは君の思い違いだよ。なんであんなところに呼ばれたか分からなかったけど…なるほど、君の通勤経路だったってことか」
「…え」
 夏油さんはひとりだけ納得したように息を吐き、ようやく私の顎を掴んでいた手を引っ込めた。すると今度はくるりと体の向きを変え、ソファにごろりと横になって、私の膝の上に無遠慮に頭を乗せてきた。突然のことに、状況を把握するまで数秒の時間がかかってしまった。
「なっ、な、何するんですか!」
「君が色々と気を揉ませるから、疲れたんだよ」
「へ?」
「膝くらい貸せよ」
「は、はぁ?」
 一方的な言い分に不平の声を漏らせば、夏油さんの手がするりと顔に伸びてくる。大きな手に、私の頬はすっぽり収まってしまった。
「げ…とう、さ…ん」
「猿どもと交尾なんて御免だよ」
「猿って」
 口を挟もうとするも、夏油さんの続く言葉に遮られる。
「抱いてみたい女は、いるけどね」
「…は、はい?」
 それはなんの暴露なのだろう。混乱で疑問符を頭の上に浮かべていると、するりと手が落下して、代わりにすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。
「…ね、寝てる…」
 呆れたように肩を落としながら、私は彼の整った顔を見下ろした。無防備な寝顔は、まるで少年のようだった。
「いつもこんなに可愛かったら文句ないですけど」
 ポツリと呟きながら、暫らく彼の寝顔を眺めていた。
 数時間後、帰宅したラルゥさんが、眠りこける私達に苦笑しながら毛布を掛けてくれたことを知るのは、翌朝の話である。

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