教祖を名乗る怪しい男の元にトリップした


 私には大金をはたいてでも切りたい縁が二つあった。
 一つは、他の人には見えないものが見えてしまう、この奇妙な体質だ。元々私は見える人間ではなかった。しかし中学の頃、私を溺愛していた叔父の死を契機に、妖怪のような怪物のような、そんなおぞましいものが見えるようになってしまった。名のある神社や寺で厄払いをしても祈祷を受けても、自分で物忌みをしてみても、一切の効果は得られなかった。
 もう一つは、悪い男を引き寄せてしまう悪運だ。処女を捧げたモラハラ男を皮切りに、学生時代からアラサーの今になっても、男運は散々だ。ある人は、寄ってくる男は自分の価値だという。しかし自分としては、見える体質が変な男まで引き寄せてしまっているのではないかと都合よく考えたい。
 そして私は今、京都で最も有名な縁切り神社を訪れていた。周囲を見渡せば、本当に縁を断ち切る必要があるのかと勘繰ってしまうほど、着物で綺麗に着飾ってはしゃぐ女子達で溢れている。まったく、こっちは本気で悪縁とおさらばしたくてはるばる東京からやってきたというのに。
 奮発して一万円のお賽銭を放り込み大社で参拝を済ませると、形代と呼ばれる身代わりのお札を購入し、断ちたい縁を書いていく。この神社の縁切りは人間関係だけでなく、ギャンブル、酒、煙草など、自分が断ちたいものであればなんでもご利益があるそうだ。
『見える体質と縁が切れますように』
『悪い男運を断ち切ることができますように』
 切実な願いを書き記した形代を握り締め、私は列の最後尾へと並ぶ。縁切り石の穴を潜る順番待ちの列だった。お社の中心に堂々と鎮座する石碑の真ん中には、人が丁度ひとり通れるくらいの穴が開いており、形代を持ってその穴を潜ると、悪縁を断ち切ることができると言われている。そのご利益は日本最強と名高く、いつも多くの客で賑わっているというわけだ。
 私の前に並んでいた女性の二人組が、穴から顔を出して互いに写真を撮り合うのを見届けたら、次は私の番だ。
 大きな深呼吸を一つした後、私は四つん這いになり、真っ暗な穴へと顔を突っ込んだ。
 穴は一メートルもない短いもので、自分の体が全て収まってしまうということもない。出口はすぐそこで、通り抜ければ神社の風景が広がっている、はずだった。
「……な……に」
 目の前には、立派な三つ揃えを纏ったいかにも金持ちそうな男が宙に浮いており、苦しそうに首元を押えて足をばたつかせていた。
「ぐぅあっ、っ、くるし…何をする、げと…っ」
 男は喉に貼り付いたような声で切れ切れに言った。白目を剥いており、酸素が行き渡っていないせいか、顔は血が凍ったように真っ青だ。男の首を掴んで宙に持ち上げていたのは、ゆうに二メートルほどありそうな、一つ目の鬼のような妖怪だった。多分、他の人には見えない何か。
 悪い夢を見ているのだろう。私はぎゅっと目を瞑りぶんぶんと頭を振ってから、祈るような気持ちで再び目を開けた。しかし、無常にも目の前には同じ光景が広がっていた。一体どういうことだろう。私はただ悪い縁を断ち切りたくて、石碑を潜っただけだというのに。
「あれ。…君、いつからそこにいた?」
 ふいに、斜め上の方から声が降ってくる。私はその時初めて、今にも息絶えそうな男の前に、五条袈裟を纏った長髪の男がいることに気がついた。その人相に、「殺される」と瞬時に覚悟した。
 呼吸が速まり、心臓が激しく脈打つ。世界がぐらぐらと揺れ、気が遠くなっていく。
「もしかして、見えてるのかな」
 五条袈裟の男が、興味深そうにこちらを覗き込み、パチンと指を鳴らした。次の瞬間、断末魔のような声が鼓膜を劈く。
(なに、なに、なに――)
 ああ、眩暈がする。息が苦しい。
 私の意識は、そこで途絶えた。

*

 スイッチを入れられたように、ぱちっと目が覚めた。瞬きを繰り返す四つの目がこちらを物珍しそうに見下ろしており、私は「ぎゃっ」と色気のない声をあげて跳ね起きる。
「夏油様ー。おばさん起きたよ」
「おばっ!?私はこう見えてもまだ二十七!」
 まだ夢の中にいるような心地で、それでも聞き捨てならない言葉に反論したところで、はっとする。
 ここはどこで、私は何をしているのだろう。目の前には、珍獣にでも遭遇したかのように私を見つめる高校生くらいの少女が二人。ぐるりと見回した部屋はコンクリートのうちっぱなしで、どこか寒々しい雰囲気がある。
 そうだ。私は京都で有名な縁切り神社で参拝して、石碑を潜ったらこの世のものではないなにかが人の首を絞めているのを目撃して、それから――。
「へぇ、奇遇だね。同い年だ」
 背後から、声が聞こえる。意識が途絶える直前に耳にしたあの声だ。恐る恐る首を捻れば、例の男が立っていた。着替えたのか、五条袈裟でなく、普通の黒いシャツとパンツを身に纏っていた。
「あ、ああああああの、私はいったい」
 本能的なものなのか、この人に逆らってはいけないと脳が警鐘を鳴らしていた。私は自分が寝かされていたソファを慌てて飛び降り、シンプルなラグが引かれた床に正座する。
「君、気絶して私の目の前で倒れたんだよ」
「そ、そうでしたか。それは、お手数をかけて大変失礼しました!わざわざ助けていただいたのですね。てっきり殺されるかと」
「殺しても良かったんだけどね…ちょっと気になることがあったから」
 男の口からまるで挨拶するぐらいの気軽さで飛び出した物騒な言葉に、背筋が寒くなる。やはり殺すつもりだったのだ。決して相手を逆撫でするようなことを言ってはいけない。今は彼らのこのアジトから抜け出すことを最優先にしなくては。私は慎重に次の言葉を探す。
「き、気になること…でしょうか?」
 顔を強張らせた私に、夏油さんは「冗談だよ。面白いね」と薄く笑ってから続けた。
「君がいたあの路地は、三方が厚くて高い壁に塞がれてる場所なんだよ」
「はぁ」
「つまり、私の目を盗んであの場所に来ることは不可能。…なんであそこにいることができたんだい?」
 そんなのこっちが聞きたいたいわ!という言葉を呑み込んで、左右に首を振る。信じてもらえるかは賭けだが、洗いざらい話してしまおう。
「それが…分からないんです。京都の神社で参拝をしていたはずなんですけど…石碑の穴を潜ったら、その…あそこに出たものですから」
「えー何それ!うそくさぁ」
 私達の会話を眺めていた少女の一人が、眉間に皺を寄せ、声に不審の色を絡ませながら言った。想定内の反応に、私は「ですよね…」と消え入りそうな声で呟く。
「菜々子うるさい。まだ夏油様がお話されてるでしょ」
「だって明らかうそじゃん」
「二人共いいから。で、まだ聞きたいことはいくつかあるんだけど」
 夏油様と呼ばれた男は二人を取り成し、手品みたいに手中から四角いカードを取り出した。顔を近づけてよくよく確認すれば、それは私の免許証だった。
「そ、それっ!私の免許っ」
「ここに書かれている住所、君が住んでいる家があるところ?」
 慌てる私を気にする風もなく、男は尋問するように問うてくる。
「そう…ですけど」
 勝手に持ち物を物色されていたことに恐怖を覚えるも、とにかく逆らうのは得策ではない。ゆっくりと首肯すれば、男はひょいと片眉を持ち上げた。この男、よく見るとかなりのイケメンだ、と一瞬場違いなことを考える。
「……あの、何か」
「免許証は本物っぽいんだけどね」
「ど…どういうこと、でしょうか?」
「調べてみてもないんだよ、ここに記載されている住所が」
「え…」
 男の言葉に、天啓のように一つの可能性が閃く。これって、小説とか漫画とかでよく見る、トリップ的な何かなのでは?
「あと、君は呪いが見えるね」
「呪い…」
 呟きながら、気絶する前に目にした、あの巨大な一つ目鬼のような類を指すのだろうとあたりをつける。
「さっきも呪霊が見えていただろ」
「は、はぁ。…昔から妖怪のような変なものが見える体質だったので、それと縁を切りたいのもあって、京都の有名な神社を参拝していたところだったんですけど…」
「…ふーん」
 男は顎に手をやって、なにやら思案している。私は胸の前でそろそろと手を上げ、控えめな声でお伺いを立てる。
「あの…私そろそろ…失礼させてもらってもよろしいでしょうか?」
 言ってから、でも、もし仮にトリップ説が正しければ、この家を出た私は路頭に迷うのでは?と不安になる。だってこの男は免許証に記されている私の住所が存在しないというのだ。しかし、この胡散臭そうな奴と一秒でも長く一緒にいる選択肢は存在しない。現在進行形で、神経が剥き出しになっているみたいにひりひりと命の危機を感じる。
「ああ、引き止めて悪かったね。暗いから気をつけて」
「…え?」
 男は素っ気ない口調で言うと、私に免許証を差し出した。ぽかんと口を開けたままそれを受け取る。あっさりと解放され、肩透かしをくらった気分だった。だって私、見てはいけないシーンを目撃した都合の悪い女なのでは?この家に監禁でもされようものなら、靴でもなんでも舐めて、絶対に口外しないので解放してくれと懇願するつもりでいたのに。
「夏油様―。お腹空いた」
「うん。これから用意するから待ってて」
「あとぉ、原宿連れていってくれる約束は?」
「んー、暫らくはちょっと厳しそうだなぁ」
「えー、またぁ?」
 三人が他愛ない遣り取りをしながら、リビングの端に設えられているキッチンへと向かっていく。もう私のことなど、道端の石ころ以上に興味がないようだ。
「…お、お邪魔しましたー。ご迷惑おかけしました」
 枕元に置かれていた荷物を掴んで、私はそろそろと彼らのアジトを後にする。外に出ると、湿気をたっぷり含んだ空気が毛穴を塞ぐように纏わりついてきた。匿われていた場所は、住宅街の奥まったところにひっそりと佇む、二階建ての建物だった。
 そこでふと気づく。ここは一体何処だろう。慌ててスマホを取り出しマップアプリを起動しようとして愕然とする。スマホの電波は「圏外」と表示されていた。
「う、うそっ!圏外!?な、なんで?」
 何度か電源を入れ直してみるも、その表示は変わらない。焦燥感を募らせ頭を抱えていると、数十メートル先に交番があるのを発見する。これ幸いと駆け込めば、ここが、東京二十三区内の駅近であることを若い警官は丁寧に教えてくれた。
 スマホが使えないため切符を買って電車を何本か乗り継ぎ、家の最寄り駅に到着する頃には、これは少しリアルな長い夢だと信じ込もうとする自分がいた。だって、どう考えてもおかしいことだらけだ。トリップなんてあるはずがないのだ。きっと縁切り神社へ参拝に行ったのも夢で、実際の私は京都に向かう新幹線の中で転寝をしているに違いない。
 しかしいざ自宅に帰ってみると、そこに私の住むマンションはなかった。見たことがない別の一軒家が建っている。
――調べてみてもないんだよ、ここに記載されてる住所が
 男の声が、まるで耳元で囁かれているようなリアルさで再生される。
「…な、なんで」
 乗り継いできた電車だって、駅だって、私が知っているものと変わらない。それなのに、なぜ私の家だけそこにないのか。いや、本当に私の知る街と変わらなかっただろうか?今一度、思い返してみる。見たことのない店や家が、いくつも建っていなかったか。目の前に広がるのは私が知っている街のようで、微妙に異なっている、ということにようやく気づく。
「うそっ…うそうそうそ…どうしよ…」
 狼狽し意味もなくスマホを確認するも、表示は圏外のままだ。落ち着け、落ち着け、と呪詛のように自分に言い聞かせる。夢なら冷めろと頬を引っ張ってみるが、意識が浮上する気配はない。
 逸る鼓動を押えるように深呼吸をする。家がないのであれば、今日の宿を確保しなければならない。落ち着ける場所で、現在の状況についてじっくり考えてみよう。私は駅へと踵を返す。その途中財布を確認するも、千円も入っていなかった。キャッシュレスが主流の昨今、現金は殆ど持ち歩いていなかった。途中のコンビニに入りATMにキャッシュカードを突っ込む。しかし、お取り扱いできませんと呆気なく吐き出された。
「…これも?うそでしょ!?」
 半狂乱になって声を上げると、店内の人々の視線が集中する。逃げるように店を後にして、先ほど乗ってきたものと反対の電車に乗り込む。
 家もない。金もない。この状況で警察に行けば、不審がられるのは火を見るより明らかだ。免許証はあっても、確かな身分を証明できるものがないのだから。先ほど道を教えてくれた親切な警察官に胡乱な目で見られるのを想像しただけで気分が落ち込む。
 本当にこれは夢なのだろうか。その可能性は、私の中でゼロに近づいていた。認めたくないが。そして今私が頼れる人は、残念ながら一人しか浮かんでこない。
 一時間後、私は再び彼らのアジトである部屋の前に立っていた。震える指先で玄関の呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして扉が開く。
「やぁ、おかえり。やっぱり戻ってきたんだ、思ったより早かったね」
 中から出てきた長髪の男は、まるで私が戻ってくることを確信していたような口ぶりで言った。彫刻刀を滑らせたような切れ長の瞳が、怖いくらい楽しそうに弓の形をしていた。
「え、やっぱり?あ、あのですね、私――」
「立ち話もなんだから、取りあえず入りなよ」
 骨ばった大きな手で、どもる私の手首をがっしりとホールドすると、彼は躊躇なく家に招き入れた 。

*

 翌朝、私は居候先となった家のキッチンで、四人分の朝食を拵えていた。完成したハムエッグを四等分に分け、冷たい水で洗って千切ったレタスを添える。あさりの味噌汁と白いご飯をよそい、柔らかな木目のダイニングテーブルに並べていたところで、住人たちが眠そうな目を擦りながら起床してきた。時刻は午前七時なり。
「おはようございます。夏油さん…と、美々子ちゃんに菜々子ちゃん」
 昨夜から世話になっている家主へ慇懃に頭を下げると、彼は欠伸で挨拶を返しながら席に着く。既に夏油さんから私のことを聞かされていたのか、少女二人は特に驚く様子もなく、彼に倣い食卓に着くなり不満の声を漏らした。
「えー、白米じゃん。朝はパン派なのにー」
「菜々子。我儘言わない」
「取りあえず食べよう。味はともかく見た目は美味しそうじゃないか」
 三者三様好きなことを宣って、律儀に手を合わせていただきますと言う様子を眺めながら、どうしてこんなことになっているのだと、私は無意味な自問を繰り返した。
 一晩寝て目覚めたら昨日のことは夢でした、と問屋は卸さなかった。全ての運が逃げていきそうなほど盛大な溜息を吐きながら、昨晩この家に舞い戻ってからの遣り取りを思い返す。
<やはり貴方様の仰る通り…その、住所に家がありませんでして>
 改めて彼らのアジトに身を寄せた私は、長い足を組んで悠然とソファで寛ぐ男の前に跪いていた。既に子供達は各々の部屋に戻ったのか、二十畳ほどある広いリビングに、今は私と男の二人だけだった。男は夏油傑と名乗った。
<だろうね。そもそも住所が存在しないわけだし家があるはずないんだけど。携帯も圏外で銀行口座も使えないみたいだから、戻ってくる確信はあったよ>
<そ、そこまで分かっていたんですか。っていうか私が気絶してる間に勝手に荷物…>
<ん、何?>
<…うっ、な、何でもないです>
 夏油さんが、わざとらしく耳に手をあて問い返してくるものだから、仕方なく口を噤む。
<こっちも半信半疑だったからね。私達が住む世界とは別の場所からやってくる、所謂タイムスリップ的なものなんて、荒唐無稽すぎるだろう>
<仰る通りです。…私も夢だと思いたいです>
<荒唐無稽でも、それでしか説明がつかない。…興味深いよね>
 夏油さんは綺麗な歯並みを覗かせながら口角を持ち上げる。私は必死だというのに、この状況を楽しんでいるように見える。
<あの、それで夏油さんに折り入ってお願いがあるですが。…夢が醒めるまで、いや帰る方法が分かるまで?違うな、えーっと食い扶持が稼げるようになるまでで構いませんので、私を、私を家に置いていただけないでしょうか。勿論タダでとは言いません!家事でも育児でも、何でもやらせていただきますから>
 額を床にくっつけ懇願する。恐怖と屈辱で脳がパンクしそうだった。しかし、今の状態では数日分の衣食も確保できない。背に腹は変えられない。
<いいよ>
 またもや呆気なく許可を得られ、私は弾けるように顔を上げる。すると、夏油さんの手がするりと伸びてきて、親指と人差し指で挟まれるように頬を摘ままれる。顎クイ、なんて胸キュン的なものではないが、私をじっと見つめる顔があまりにも整いすぎていて、気恥しくなってくる。
<あ、あにょ(あの)>
<他には?>
<はぇ?(はい?)>
<他にはなにか特技とかないの?>
 男が、頬を掴む指に力を込めた。このまま顎の骨を砕かれそうな勢いに、私は必死に頭を捻る。困った。自慢できる特技なんて一つも思いつかない。
<コニュニケーションが得意でふ。は、はとは、趣味で本を書いてましゅ(コミュニケーションが得意です。あとは、趣味で本を書いてます)>
 かっこ同人誌、という言葉はあえて口にしない。
<へー。本を書けるんだ>
 すると夏油さんは、意外にも片眉をひょいと持ち上げて食いついてきた。微かに上がる口許に、うっすらと背筋が寒くなる。
<あ、あふまでも趣味でふので(あくまでも趣味ですので)>
<取りあえず明日からの家事は君に任せるよ。部屋はいくつか空いているところがあるから好きに使って>
 夏油さんは私の頬から手を離すと、話しはこれで終わりだと言わんばかりにソファから立ち上がる。
<い、いいんですか?>
 突然目の前に現れたこんな胡散臭い女の言うことを信じて、さらには食住も提供してくれるなんて、夏油さんは存外悪い人ではないのではないか。先ほど見たおぞましい光景を記憶から消去してしまえば、彼はただのいい人だ。
<私はエコなんだよ。使えるものは使った方がいいだろう>
 使えなかったら殺る。彼の胡散臭そうな笑顔がそう言っている気がした。やはりこの男を信用しきってはいけない。とにかく今、身寄りのない私は彼に逆らって怒らせてはいけない。
<お役に立てるよう精一杯務めさせていただきます>
 そして私はその言葉通り、今日から夏油家の家政婦として、朝食の準備に勤しんでいるというわけだ。
「君も食べたら」
「はい。では、有難く」
 夏油さんに促され、自分の朝食を盛りつけた皿を持って彼の隣に座る。ふわふわに炊きあがった白米の甘い香りが鼻孔を掠めると、ぐるると大きな音で腹が鳴る。三人の視線が私に集まり、カッと頬が熱くなった。
「すごい音だね。そんなに空腹だった?」
「ごめんなさい。…昨日の昼から何も食べてなかったので。…実際、色々ありすぎて食欲なんてなかったんですけど」
 誤魔化すように手を合わせ、朝食を口に運ぶ。夏油さんに拾ってもらえなかったらこうして朝食にもありつけなかったわけで、感謝を込めて一口一口を噛みしめる。
「今日は私に付き合ってもらうよ」
「へ?」
 唐突に言われ、私は箸と茶碗を持ったまま、目を瞬いて彼を見る。
「人手不足なんだ。コミュニケーションは得意なんだろう?」
「まぁ、そうですね。えっと…お仕事かなにかで」
「今日は座談会があるんだよ」
「は、はぁ。座談会…ですか」
 そういえばこの人は何の仕事をしているのだろうと、改めて首を捻る。出会った時は五条袈裟を纏っていたが、僧侶か何かだろうか。
「座談会や勉強会みたいなイベントはコミュニティの強化や信者に力を見せつけるにもいい機会だからね」
「へ、へぇ」
 夏油さんの説明を聞けば聞くほどわけが分からなくなり、私は曖昧に笑ってごまかす。信者という言葉に、嫌な胸騒ぎがする。それを引き剥がすように頭を左右に小さく振り、話題を転じてみる。
「えっと、美々子ちゃんと菜々子ちゃんは日中は学校かな。まだ時間は大丈夫?」
 言いながら、空気がピリッと張りつめたのが分かった。これは聞いては駄目なやつだったか、と臍を噛む。
「二人の教育は信頼できるところに一任してるんだ。昔は私が教えていたけど、今はなかなか時間がとれなくてね」
「そうなんですね!今はフリースクールとかも沢山ありますもんねぇ」
 取り繕うように言って強制的に話題を終了させ、白米を口に掻っ込む。この三人がわけありなのは昨日から分かっていたことだ。年齢的にも本当の親子ではないだろうし、とにかく居候の身が他人様の家庭に首を突っ込むべきではない。
 食事を終えたら後片付けを済ませ、朝一で回した洗濯機から脱水が完了した洗濯物を取り出し、バルコニーへ向かう。この部屋は、バーベキューでも出来そうなほど広いルーフバルコニーが設置されており、外に出れば、既に夏の陽射しで温まっている朝の風が肌を撫でた。季節は、私が神社を参拝していた日と変わらず、梅雨が明けた夏の始まりだった。
「そろそろ出るよ」
 三人分の洗濯物を干し終え、腰に手をあて背中を伸ばしていると、五条袈裟に着替えた夏油さんに声をかけられる。
「はい。洗濯も干し終わったので私はいつでも大丈夫です」
 見ているだけで暑苦しくなる衣装に同情の視線を送っている私に気づいたのか、夏油さんは「見ためより暑くないんだよ」と、可笑しそうに言った。ふいに見せた無邪気な笑顔がまるで少年のように幼く見え、一瞬呆気にとられてしまった。
(なんだ。可愛く笑うじゃん)
 口が裂けても本人へは言えないため、心の中でぽつりと呟き、私は夏油さんに付いて家を出た。

*

 どこかの総本山と見紛うほど立派で異彩を放つ建物を前に、私はあんぐりと口を開けていた。
「こ…これは」
「宗教団体の本部だよ」
「へ、へぇ。じゃあその…夏油さんはそこの関係者か何かで」
「これは私の教団」
「へ、へぇぇ」
 昨今ニュースを賑わせている数々の事件のせいもあり、宗教への良いイメージはない。信者を騙して金を巻き上げ、骨の髄までしゃぶりつくし、用済みになったらぽいだ。こんな立派な建物を建造できるくらいだし、相当悪質な運営をしている可能性もある。朝食の時に感じた胸騒ぎは本物だった。
「顔、真っ青だね」
 内部へ入りピカピカに磨かれた廊下を進みながら、夏油さんはすっかり委縮している私を振り返りながら言う。
「えっと、あはは。まぁ、あんまり宗教とかはよく分からないものですから」
「日本人の宗教アレルギーは今に始まったことじゃない。学校でも教えないからね。でも君も含め、人々は断片的に宗教を摂取しているんだよ。例えばホラー映画とか、学校の七不思議とか、日常的に霊的なものを感じている。それを上手くあてはめる概念がないだけなんだよ」
「…は、はぁぁ」
 頭の上に沢山の疑問符が浮かんでいく。夏油さんは淀みなく続けた。
「君も神社の参拝に行ったと言っていたよね。つまりそれって神頼みだろう?」
「確かに…仰る通りです」
「宗教に関心がなくてもここぞという時には神頼みをする。人は明確な信仰の対象が欲しいんだよ。私はその対象を提供しているだけ。ほら、何事も形があったほうが取っ付き易いだろう」
 駄目だ、全く話についていけない。これが宗教の教祖というものか。私は夏油さんの言葉を全て聞き流すことにした。真剣に聞き入っておかしな思想を吹き込まれても厄介だ。
「君も懐柔され易そうだよね」
 唐突に水を向けられ、余計なお世話と言い返したいのをぐっと堪える。しかし「懐柔され易そう」とは、夏油さんは阿漕な商売をしている自覚はあるらしい。
「まぁ、若い頃はねずみ講的なものに引っかかりそうになった経験はありましたけど。すべての病が治る超神水的なものとか、あらゆる厄を祓うお守りとか、あるじゃないですか。…流石にそういう非科学的ものは、ねぇ。自分の目で見ないことには絶対に信じませんけどね。私これでも一応理系なんで」
 少し反論するような口調で言う。夏油さんは私の話を聞いているのかいないのか、作り物のような笑みを貼り付けたまま何度かうんうんと肯いて、大きな扉の前でぴたりと足を止めた。
「さぁ、到着だ」
「ここは?」
 どうやら講堂か何かのようだ。中からは人の声が漏れ聞こえており、既に多くの人々が集まっていることが分かる。
「君は最後にこれを売り捌いて、話を聞いているふりをしてくれればいいから」
 そう言うと、夏油さんは懐から何かを取り出す。放られたそれを両手でキャッチし確認すれば、なんとも間抜けな顔をした木彫りの猿がぶら下がった安っぽいキーホルダーだった。
「あの、これって」
 思わず聞き返すも、その答えを聞く前に、夏油さんは両手で勢いよく扉を開け放っていた。
「皆さん!お待たせしました――」

 やはりこれは悪い夢なのではないか。私は、今日の座談会中に何度も自分の頬を抓った。しかし、リアルな痛みが残るだけだった。
 私は今日、奇跡を目の当たりにした。水で全ての病が治るとか、お守りで全ての厄が祓えるとか、そういう類のものではない。夏油さんの言うところの呪いが形を成した「呪霊」が、するすると彼の掌に球体となって吸収されていく、という奇跡だ。
 今にも首を吊りそうな顔をしていた信者は、文字通り憑き物が落ち、晴れ晴れとした表情を浮かべる。その人相の変わりようと言ったら、まさに奇跡だった。
 夏油さんは一体何者なのだろう。会場に来るまでは、胡散臭い新興宗教のトップで、阿漕な商売をして設けていると信じて疑わなかったが、ひょっとすると、本当に神の使いか何かで?
「いやいやいや。そんなわけないでしょ」
 独り言ちて、自分の考えを打ち消す。
 がらんどうになった講堂にぽつんと設置されたキャスター付きのテーブルに突っ伏し、指に引っ掛けた猿のキーホルダーを見つめる。こんなガラクタに何十万もの値をつけているのだ。因みにこれはお守りでもなんでもなく、量産されたただの安いキーホルダー。仏教でいう数珠、キリスト教でいうロザリオのようなものらしい。それでも信者達は有難がって買っていく。
「…こんなものに…うんじゅうまんえん…」
「や」
 突然背後から声をかけられ、肩をびくりと震わせて恐る恐る振り返る。座談会という名の悪質販売会に参加していた信者達を見送っていた教祖様のお帰りだ。
「お、お疲れ様です。夏油さん」
「君もお疲れ様。流石コミュニケーションが得意と豪語するだけあるね。お陰で助かったよ」
 夏油さんは衣類に消臭スプレーを噴きかけてから、私の隣に腰掛けた。臭いの心配をせずともいい香りがするのに、と余計なことを考えながら小さく首を振る。
「私は何も。このお猿さんキーホルダーが欲しいという方に(うんじゅうまんという法外な値段で)お売りして、お話をお聞きしていただけですから」
「ばっちりさ。猿ども…おっと失礼。信者は宗教という同じ価値観を持つ人々と結びつきたいんだ。当然自分の話も聞いて欲しい。そして、それがまた新たな入信者を呼ぶ」
「はぁ。よく分からないですが、お役に立てて良かったです」
 今日は悪徳商法の片棒を担がされたが、どうやら私は期待以上の仕事ができていたようだ。善良な人々を騙しているみたいで良心の呵責を感じるが、役に立たないと夏油さんに切捨てられることは免れそうだ。何度も言うが、今の私は、住むところも生きていく手段もないので、彼の気に障ることを絶対にしてはならない。
「あの、一つ伺ってもいいですか」
「何だい?」
「その…さっきの呪霊でしたっけ?あれを取り込むのってどうやって」
「ああ、あれは私の術式さ」
「じゅつしき…ですか」
「簡単に言えば特殊体質みたいなものだね」
 夏油さんはスマホを取り出して、画面に指を滑らせながら言った。なるほど。夏油さんの特殊体質ということは、やはり彼にだけ与えられた超能力的なものなのだろう。本来なら驚くべきところだが、昨日今日で色々なことがありすぎて感覚が麻痺している私は、納得して首を縦に揺らした。
「今朝のことだけど」
 スマホの画面に視線を落としたまま、夏油さんが唐突に話題を転じる。私は目を少し開いて、今朝のこと?と聞き返す。
「子供達のこと」
 それだけ聞いて、学校うんぬんのことだと直ぐに合点がいき、私は慌てて謝罪する。
「朝はすみませんでした、突然変なこと聞いて。もう余計な詮索はしませんので」
「あの子達には、もっと広い世界を見せてあげるべきなんだろうね」
「…え?」
 綺麗な横顔に影が落ちる。夏油さんの言葉はどこか自嘲的だった。
「私が過保護過ぎるのかもしれないな」
「…それってつまり、学校に行かせないでフリースクール?に通わせてることですか。…個人的な意見ですけど、夏油さんが過保護過ぎるってことはないと思いますけど。確かに義務教育は大切だし、学校での集団生活で養われるものは沢山あるけど、ポジティブなことばかりじゃないです」
 きっぱりと言い切ると、夏油さんは驚いたように顔を上げ目を瞬かせた。私は続ける。
「夏油さん、美々子ちゃん、菜々子ちゃん。三人の関係は存知ませんが、家庭の数だけ教育方針があっていいと思うんですよ。本人たちが健やかに育って幸せならそれで。まだ一日も一緒にいないですけど、三人ともとっても幸せそうに見えましたし」
 私と違って、と最後に取ってつけたように言えば、夏油さんはふはっと息を吐き出して、緩やかに口元に弧を描いた。信者の前で声高らかに演説をしていた時の胡散臭い笑みとは比べものにならない優しい微笑に、彼が二人のことを本当に大切に思っているのが伝わってきた。胸がじんと温かくなる。
「ねぇ。今度さ、あの子達を原宿に連れていってやってくれないかな」
 ゆっくりと椅子から立ち上がると、夏油さんは私を見下ろしながら言った。
「原宿?原宿って、あの原宿ですよね。若者に人気で、クレープとか食べられて。…それは勿論、いいですけど」
「そのクレープが食べたいらしいんだよね」
「あー、分かる。私も中高生の時は原宿でクレープ食べたかった!…でも、私でいいんですか?」
「いいよ。多分二人も喜ぶと思うから」
 帰ろう。そう言って踵を返した夏油さんの大きな背中を慌てて追いかける。「帰ろう」だなんてまるで家族みたいで擽ったい、と呑気なことを考える。昨日まであれほど畏怖の対象だった彼が、今はそうでもないことが不思議だった。
 夏油傑。よく分からない男である。

back / top