俺にキスしろ | ナノ
3
いつだったか、古谷君とセックスはしてもキスは一度もしたことがないことを友人に話した時、彼は
『それってなんか虚しくねぇ?よく耐えられるな』
と呆れていた。
別に気にしなかったわけじゃない。いや、寧ろセックス中虚しくなるくらい考えたことだ。耐えられたというよりは、諦めに近い。仕方ない。相手は古谷君だから、って。だってそうだろう?みんな彼が欲しくて、だけど彼は誰のものでもない。それこそが俺を保つ唯一の皮肉な事実。
だけどそうやって自分を保てていたのは、それは俺が何も知らなかったからだ。
***
何度も言うが、俺はゲイじゃない。
ただ好きになった古谷君が男だったってだけ。
世の中には色んなホモセクシュアルがいて、中身も男性なんだけどただ同性が好きだったり、見た目だけが一般の男の人もいれば、女装をしたりメイクをしたりする人だっている。もっと言えば整形をして女性に近付こうとする人もいる。
性別はグラデーションだとどこかで聞いた通り、他にも様々な人がいる。
そう、例えば、生まれ持って女性のような魅力がある人とか。
「君でしょ?古谷君のお気に入り」
大学じゃ特に連む友達もいないため、今日も一人で学食を食べていると、いきなり目の前の椅子が引かれて知らない人がそこに座った。そいつは断りもなく、今女子に人気のヘルシーな定食の乗ったお盆を置きながら俺にそう声をかけてきた。
少し赤みのある頬に、丸々とした瞳、ぷっくりとした赤い唇。体も華奢で今の動作一つとっても、まるで女のようだ。
初対面だしあんまりじろじろ見るのはよくないかと思い、チラッと見ただけだが、そういう印象だった。
きっとこの人も、古谷君のセフレなんだろうな。
声をかけられたからには一応返事はするべきだと口に含んでいたご飯を咀嚼し、口の中を空にする。その間、彼は目を眇めて俺を見つめながら、ドレッシングのかかったサラダを口に運んでいた。
「その訊き方で『はい』なんて答えられる人がいると思うか?」
いや、いるもんか。彼相手にそんな浮かれられる奴がいるなんて思えない。
「…惚けないでくれる?それとも何?古谷君から声を掛けられたからって調子に乗ってるの?」
苛ついたように言われるが、俺は惚けてなんていない。俺は古谷君にとって数あるセフレの中の1人に過ぎないのだから。彼が俺に声をかけたのだって、気紛れに過ぎない。
「そんなつもりはないけど、俺に何か用だった?」
たまにあることだ。俺が古谷君に誘われたから。俺が古谷君とセックスをする回数が少しだけ多いから。ちょっと古谷君に雑に扱われたりすれば、その不満を俺にぶつけたがる。俺は1人でいることが多いし、いい的なんだろう。
きっといつもと同じだ。
「僕は中江っていうんだ」
「そう。俺は前田だ」
早く終わらせてくれと心の中で祈ってると、目の前の彼はカタ、と箸を置くと頬杖をついて俺を見つめてきた。なんだかいちいち癪に触る態度だ。
思いの外強い視線を刺してくるものだから、ため息をついて俺も箸を置いた。
「どう見ても僕の方が可愛いのに」
その言葉につい目を丸くしてしまった。いや、当たり前だろう。俺は友人の贔屓目で綺麗だと言われることはあっても、女性的な可愛らしさなんてこれっぽっちもない。それに比べて中江君はまるで少女だ。
「確かに可愛いとは思うけど…」
「…っアンタに言われても気持ち悪いだけだから!」
「ああ、そう…」
形の良い眉を寄せて怒る中江君に、ため息を吐きたくなる。納得がいかなさそうな顔してたから同調しただけなのにこの仕打ち。いよいよ彼が何をしたいのか分からなくなってきた。
ご飯が冷めてしまうのは勿体ないから、さりげなく再び箸を持つ。箸先を皿に向けると、また前から不機嫌そうな声が届く。
「そんな薄い唇にキスしたって楽しくないでしょ」
「…なに?」
「前田君なんかより絶対僕の方が満足してくれてるのに、なんでアンタなんか…」
カランカランと音を立てて、皿の上に俺の手から箸が落ちた。
突然のことに少し驚いた様子の中江君。
「は、ちょっと、なに?」
「今、キスって…」
「キスが何?自分だけだと思わないでよね、僕だっていつも全部飲み込まれるような深いキスしてもらってるんだから!」
少し興奮したように捲くし立てる中江君に反応ができない。
箸を離した手が微かに震えるのを視界に映しながら、乱れそうになる呼吸を抑えるのに必死だ。
長いことそうしていると、気味悪そうにした中江君が音を立てて去っていった。
だけどそんなのも気にしてられない程に体が冷えていくのを感じる。
古谷君は誰にもキスはしないんだと思ってた。
だからみんな一緒だって思ってなんとか抑えていたのに。
全部飲み込まれるような深いキスだって?
俺は唇に触れてすら貰えないんだ。
誰だよ、俺を彼の『お気に入り』なんて言った奴は。
「あーあ、地雷踏まれた感じ?」
back|bkm|next