はぁ、はぁ、と自分の荒い息が耳元で響く。
誤算があった。
別に元々計算していたわけではないから誤算というのもおかしいが、とにかくバーナビーは今とても困っていた。
バーナビーはとにかく追っ手を払うべく全力疾走し続ける。
資産家同士の結婚というだけあって、ガードが異常なまでに固かったのだ。
しかも相手側はバーナビーがもし逃げ出すことがあっても良いように準備していたらしく、どこにも逃げ場が無いくらいに固くガードされている。
屋外には人が多すぎるために、一か八かバーナビーは広い教会の中で逃げまわっていた。
能力を使って走っているわけだが、教会の中では天井があるため上から逃げ出すことは出来ないし、いくらガードマンとはいえ能力でどうにかすると怪我をさせてしまう。
バーナビーは走りながら、自分の小指についている緑色のおもちゃの指輪を見詰める。
プロポーズの言葉と一緒に贈られた、大切なものだ。
(虎徹さんに会うまでは、逃げ切らないと)
すると、廊下の前方に大勢のガードマンが立ちはだかる。後方にも沢山のそれがいた。
挟み撃ちにする気だったらしい。まんまと嵌まってしまった。
逃げ場といったら自分のすぐ横にある扉しかない。
しかしこの扉の向こうは、講堂だ。今バーナビーの結婚相手とイワンが式を挙げようとしているまさにその場所だ。
前から後ろから迫って来るガードマンにバーナビーは小さく舌打ちする。
――仕方ない。
バーナビーは自分の横にある扉に体当たりすると、講堂に駆け込んだ。
その瞬間、教会の鐘が大きな音を立てる。
無情な福音だ。
虎徹はその音を、教会を目の前にして聞いた。
式が始まってしまったらしい。
虎徹はそれでも構わず走り続けた。バーナビーに会わなければならない。
バーナビーが、永遠の愛を誓ってしまう前に。
あと数十秒の能力を使って固く閉じられた教会の扉を破壊するように開ける。
「バニー!」
大声を上げると、来賓席に座る招かれた客達が一斉にこちらを見る。他のヒーロー達は虎徹を見て歓声を上げた。
神父の前に立つのは、結婚相手らしい男と、その男に腕を捕まれている、何故か髪や服が乱れきったバーナビーと、理由はわからないがその場で男からバーナビーを引きはがそうとするイワン。
「―…虎徹さん!」
「バニー、バニーこっち来い!」
バーナビーが勢いよく男の腕を振り払い、虎徹の方に駆け寄る。
思いっ切り虎徹の腕に飛び込んだバーナビーが、虎徹の背中にしっかりとしがみつく。
「バニー、遅くなってごめんな」
「来てくれないかと、思いました」
「本当は来るつもりはなかったんだよ」
包み隠さずに正直に話すと、虎徹にしがみつく手にもう少し力を込める。
「会わない方が、バニーにとっては幸せなのかもしれないって」
「そんなこと…!」
「でもさ、楓がそんなのバニーの幸せじゃないって言ってくれてさ…ベンさんも応援してくれた」
「楓ちゃんが…?」
「ああ、楓が、俺とお前で結婚しろって。そしたら俺も我に返ったっつーかさ…俺でもバニーを幸せに出来るよなって思った」
すると、顔が涙に塗れたバーナビーが虎徹の腕から少し離れ、虎徹を正面から見詰めて言った。
「それは違いますよ」
「…え、」
「あなたでも僕を幸せに出来るわけじゃない。あなただけが僕を幸せに出来るんです」
そう言って泣きながら微笑んだバーナビーが、自分の顔の横で左手の甲を見せる。
小指には、緑色のおもちゃの指輪が嵌まっていた。
「あ…悪ィ、指輪用意出来なかったわ」
「…良いんです、これで…っ」
満面の笑みを浮かべて言ったその言葉の語尾は、嗚咽のような泣き声で震えた。
「お前、顔ぐちゃぐちゃだぞ…カメラ入ってなくて良かったな」
「…っ、はい…」
「バニー」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向けさせ、虎徹はその濡れた両頬を両手で包み込む。
「俺、チャーハンしか作れない。お前もチャーハンしか作れないよな」
その虎徹の言葉に、バーナビーはしゃくりあげながらこくりと頷く。
「ずっとチャーハンが主食でも、良いよな」
そんな遠回しの、二度目のプロポーズに、バーナビーは本格的に嗚咽が堪えられなくなり口を歪ませる。
「バニーちゃん、…バーナビー」
今までずっと微笑んでいた虎徹の顔が引き締まる。
間近で見る虎徹の表情は、真剣そのものだった。
「一生、愛してもいいか?」
教会の、神父や十字架の前ではなく、来賓席の間の中途半端な通路で。
片方は髪や服を乱れさせたまま涙でぐしゃぐしゃな顔をして、もう片方は礼服などでもないただの普段着を着たまま。
「…もちろん…です、…ただし」
しゃくりあげるような声の隙間で必死に言葉を紡ぐバーナビーが続ける。
「僕も一生あなたを愛します」
わあ、とヒーロー達の歓声が上がる。
虎徹に恋をしていたはずのカリーナも、嬉しそうに手を叩いていた。
「み、認めないぞ!」
そんな空気を裂いたのは、バーナビーの結婚相手のはずだった男だ。
その声に、言葉に、周りは静まり返る。
「こんなの…こんなの、おい誰かアイツをここからつまみ出せ!」
「…そうはさせないよ」
口を開いたのはマーベリックだった。
メディア王のマーベリックがそう言ってしまえば、この結婚も破棄されたも同然だ。
結婚相手だった男はその場にへたりこむ。
「虎徹君」
マーベリックが虎徹の方に歩み寄る。
「私にはやはりバーナビーを幸せにすることは出来ない」
バーナビーの頭をぽんぽんと撫でながら、マーベリックは言った。
「本当は、あの時…君がバーナビーを抱きしめなかったら、約束は守っていたとしても結婚は許さなかったと思う」
「…社長…」「私との約束よりも、バーナビーを優先してくれて、ありがとう」
マーベリックは、虎徹が約束を破ったことを咎めてはいなかった。
それでも結婚を許さないと言ってしまったのは、「約束を破るのは軽い人間だ」と言ってしまっていたことへの意地だった。
「バーナビー」
「…はい」
「彼に、幸せにしてもらいなさい」
「……はい…!」
マーベリックは思う。
私の親友が――バーナビーの両親が亡くなってから、彼がこんなに幸せそうに笑ったことはあっただろうか。
幸せにしてあげたいと思っていたし、自分が出来ることは全てやり切った。
それでも幸せにしきれなかったのは、「父親」が与えることの出来る範囲の外の幸せが足りなかったからなのだろう。
やはり、彼には鏑木虎徹の存在が必要だったんだ。
バーナビー、エミリー。
私の親友達。
貴方達の愛した息子は、私に無償の幸せを与えてくれた。
今度は、彼が幸せになるべきなのだね。
「マーベリックさん」
バーナビーが、マーベリックに抱き着く。
「マーベリックおじさん、僕、幸せになります」
「―…ああ」
それからふっと、僅かな温もりを残してマーベリックの腕から離れたバーナビーが、虎徹の正面に向き直る。
「バニー」
「虎徹さん」
軽く、それでも重く、口づけを交わす。
永遠の愛の誓いだ。
唇を離すと、バーナビーがふっと微笑んだ。
「控え室から逃げるとき、ヒーローの皆さんに贈られた言葉があるんです」
「ん?なんだ?」
――セレブレイト!
(いつも俺の隣で笑っててくれ)
(それだけで、十分ですから)