「おおー、良い部屋だなー」
良い香りが立ち込める畳の部屋に、虎徹とバーナビーは立っていた。
「どうぞごゆっくりおくつろぎ下さいませ」
「おお、ありがとうな」
宿の人が丁寧に部屋の説明をしたあと、正座で襖を閉めて出ていく。
そのタイミングで、バーナビーは本日何度目かもわからない溜息をついた。
「ああ…帰りたい…」
「お前そればっかだな…」
「僕は何故こんな所にいるんでしょうかね…」
来たくて来た訳では無い。
虎徹もバーナビーも、上からの命令で来たのだ。
労働法がどうこうと騒ぐ上司の、2人で旅行にでも行ってこいという突然の提案。
"嫌ならやめろ"の脅し文句に負けてしまったのだ。
会社が適当に手配してくれた、日本風の旅館に来たバーナビーは、数えるのも不可能なくらい何度も溜息をついていた。
何からでも楽しみを見付けられる虎徹は、折角だからと旅行を少し楽しみにしていた。
しかしバーナビーは違う。そういう順応性は無いから、さぞかし苦痛なことだろう。
「なぁ―…、ちょっとは楽しめよ…」
「どうやったら楽しめるんでしょうかね…。あぁ、せめてオジサンと別の部屋だったら…」
「可愛くねぇガキだな」
誰がガキですか、という呟きに対して「誰がオジサンだ」と返すと子供っぽい気がして、その言葉は無視した。
「バニーちゃん風呂行かねぇ?」
「…一緒にですか」
「そういうもんだろ?」
「……そうかもしれませんね」
その返答で、虎徹は察した。―バーナビーは日本文化を知らない。
きっとそうだ。一緒に入るのが当たり前だと言ったら、普段だったら絶対にしない混浴だってすると言ってくれた。
「バニーちゃんはいこれタオルと浴衣」
浴場に行くために、虎徹は備え付けてある押入れからタオルと濃紺の浴衣を取り出し、バーナビーに手渡す。
すると、バーナビーはそれを見つめてぼそりと単語を反芻した。
「…ゆかた」
「浴衣、知らない?」
「知ってます、そのくらい…何故今これを?」
あぁ、と虎徹は納得する。
中途半端にしか日本の知識が無い人は、浴衣といえば夏祭りのような時に着る特別な衣装なのだ。旅館で、しかもこれから風呂に行くという時に渡されても全く意味がわからないだろう。
「それ、パジャマみたいなもんなんだよ」
さ、行くぞと促して、未だ解せなさそうなバーナビーを温泉に向かわせた。
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やや細身の背を晒しながら、虎徹は湯に足を踏み入れる。
足元を探るようにそう深くはない湯に両足を浸けて膝を降ろし、肩近くまでの湯に滑り込んだ。
「ふぃー…」
オジサン臭い声を出しながら湯に浸る虎徹の背後で、バーナビーは辺りをキョロキョロと見回していた。
「入んねぇの?」
「…、まさか屋外だとは思いませんでしたよ」
ここは露天風呂だ。近場の温泉の湯を使っているらしいが、その辺の説明は碌に聞いていなかったのでよくわからない。
硫黄の良い香りが鼻を包み込む。
「屋外って言えば屋外だけどよ、誰も見てねぇよ?」
「……」
「疲れに効くらしいぜ?気持ち良いぞー?」
おずおずと、タオルを身体に巻いたままバーナビーが湯に近付いてくる。
乗せられた、とバーナビーは自分でも思ったが、そんな風に言われるとなんだか入らないわけにはいかない気がした。
虎徹の横の湯に白い足を入れたバーナビーは、その熱さに顔を歪める。
「……、熱い」
「ちょっとずつ入れば意外といけるもんだぞ」
「…大体、こんなに水位が高いなんて信じられません」
日本以外の所の大体は半身浴が主流だ。浴槽の中でシャワーを浴びるタイプの、それ。
そこにも文化の違いがあったか、と失念していた。
「もうちょいあっち行くか」
湯の中を、しゃがんだ体勢のまま虎徹が移動する。
それを、湯の外からバーナビーが追い掛けた。
「こっちは湯が注がれて来る所から遠いから、ちょっと温い」
「…本当ですね」
「入れるだろ?」
柔らかい泉質の湯に、タオルを取ったバーナビーは肩まで浸かった。
暖かく身体を包み込んでくる湯に、思わずさっきの虎徹と同じような声が出そうだった。
そのまま二人とも、黙ったまま空を見上げていた。
険悪で無い、心地好い沈黙だった。
澄み渡った夕焼け空には、星が綺麗に瞬き始めていた。
肉体的にも精神的にも癒されて溶かされていくような感覚に、犯罪都市で戦う自分達への罪悪感のようなものが込み上げて来た。
「…寝るなよ?」
くつくつと笑いながら虎徹に声を掛けられ、バーナビーは遠退きかかっていた意識を取り戻した。
気が付いたら自分の頭が虎徹の肩に乗っていたという状況に、バーナビーは思わず赤面した。
「星、綺麗だな」
「…そうですね…、シュテルンビルトの空には星がありません」
「そうだったか?」
「全然、見えないんです」
澄み切った空気も、清々しい環境も無い犯罪多発都市の空は、いつも灰色だった。
「…オリオン座」
「…、…バニーちゃんの口から星座の名前が出るとはねぇ」
「どういう意味ですか、似合わないとでも言いたいんですか?」
ふふ、と笑うと、虎徹が慈しむような顔で笑った。
「やっと笑った」
「…?」
「此処来てからずっと笑ってなかっただろ?」
「あ…」
此処に来てからの自分の態度を思い出す。
理不尽な上司からの命令に苛立っていたのだが、その苛立ちを虎徹がずっと受け止めていたのだ。
「…すいません」
「なんで謝るんだよ、寝ぼけてんのか?」
「…折角人が素直に謝っているのにあなたって人は」
悪い悪い、と笑いながら虎徹は立ち上がった。
「そろそろ出ないとのぼせるぞ」
「あ、はい」
ふやけた自分の身体に、確かにそうだとバーナビーも立ち上がった。