鉛のように重い身体を動かそうとしてそれが叶わず、その拍子に意識を手にした。

薄く開いた目の前に、何か曇ったものと、それからその向こうに真っ白な板のようなものが広がっている。

自分の事が一瞬わからず、慌てた。

――…鏑木……T…、虎徹

ゆっくりと、自分の名前を思い出す。
そうだ、俺は鏑木・T・虎徹。ワイルドタイガー。この街のヒーローだ。


自分の事を思い出したところで、ここはどこだ、とゆっくりと視線を動かす。
視界の大部分を覆っていた曇ったものは、徐々に面積を縮めていく。

視界の右の方、曇ったものの向こう側で何かが動いた。

何だろう、とそちらに視線を向けかけ、そこで別のものの正体に気が付く。
茫漠と広がっていた真っ白な板は、薄暗い天井だ。

……天井。

ああ、自分は今横たわっているのか。

――懐かしいな。
この真っ白な天井は、家の天井に似ている。
家と言っても、妻と娘と、幸せに暮らしていた時の家だ。

楓は元気だろうか。
何故か、急にそれが気になった。
そういえば最近はたまに電話をするだけで、顔を見ていない。今度会った時には思いっ切り甘やかして、それから沢山「大好きだ」と言おう。


自分が横になっていることに気付いたところで、自分の顔の上に何かが載っていることに気付く。
口元をふんわりと覆う、硬質の透明の何か。
僅かに息苦しい。だが、それを振り払うことができなかった。

ゆっくりと目を閉じて、また瞼を上げる。
さてここは一体どこだ。
何がどうなっていたんだったか。

しかし考えるのも億劫で、ただ目だけを動かす。

ゆるり、と視界が動いていく。僅かに己の体の輪郭を意識する。
身体が鉛になったかのように重く、自分の身体が地へとじわじわ沈み込んでいくような心地がする。

視界に清潔そうな白い布が少しばかり見える。
そうか、身体が載せられているのは寝台だ。

ふと、"あの頃"の自分の寝台を思い出す。
家族3人で川の字になって、いつまでも喋り続けた事もあった。
心の底から楽しかった頃の思い出だ。


透明な液体を湛えた瓶が一つ天井から提げられていて、そこから半透明の線が一本下へと伸びている。
多分あの先は自分に繋がっているのだろうが、視界の中で確認することはできなかった。

だがそれで理解した。
ここは病室だ。

自分は部屋の寝台に横たわって、様々なものに取り巻かれながら天井を見ている。

瞬きする瞼が酷く重い。
は、と自分が息を吐き出す音が聞こえ、そうして漸く自分には聴覚もあったのだと思い出す。
そういえば、身体が聞き慣れてしまって気が付かなかったが、ピ、ピ、ピ、と規則的な電子音も聞こえる。

それもあまり近くからは聞こえず、酷く静かな部屋だった。
自分の途切れ途切れに荒い息づかいだけしか聞こえない。
ゆっくりと頭を動かすと、枕の布と自分の髪の擦れる音がする。それすら聞き取れる、静かな静かな部屋。

ゆるりゆるりと瞬きをしながら視線を動かしていく刹那、何かが目に入った。
光の落ちてくる明かりの真下に何かが居る。

金の輪郭と、何かそれより淡い色の丸い形。
ふつりと動く、二つの切れ込み。

顔だ。
人の顔だ。
自分はあの顔を知っている。

一瞬だけ名前が出てこなくて内心微かに動揺する。

いや、あれはバーナビーだ。
わかる。自分の相棒だ。

バーナビーの、翠色であろう瞳が、見たことのない静かさでこちらを向いている。
常に静かな目をしている奴だが、その類の静かさではない。


――バニー。
心の中で呼ぶ。
本人に向けて直接使うと「バーナビーです」と一々律儀に訂正してくるのが楽しくて、何度も使った。
使いすぎて、この相棒の名前を思い出す時はは"バーナビー"よりも"バニー"の方が先に頭に浮かぶ。

何をやらせても完璧な彼、バーナビーの相棒になれ、と言われた時は「なんで俺が」という気持ちしかなかった。
面と向かって「信用していない」とか「お節介だ」とか言って来る、ただのガキ。そんな風に思っていた。

それでも、ふとした時にする表情を見る度、胸が締め付けられ、あぁコイツは寂しいんだ、そう思ったら、駄目だった。
それからはバーナビーの事で頭がいっぱいになるくらい、コイツを幸せにしてやりたい、そんな風に思った。


そんなバーナビーの力の抜けた眉が、されど微かに顰められている。穏やかな顔、ではない。

そっと突けばその下に渦巻く感情が溢れ出してきそうな、必死で冷静を保とうとしているような静かな顔が、寝台の傍らの椅子に腰掛けてこちらを見ている。

――何て顔をしてんだ。

痛ましいものに向ける、何とも言えぬ胸塞がるような心持ちの、寸前。
つん、と鼻の奥が痛くなるようなあの感覚の、寸前。
こちらの目がつられて溶けてしまいそうな程の労りと涙が、腹の底で渦巻いていそうな、少し手前。

視界にぼんやりと映るバーナビーの唇は、一文字に結ばれたまま動かない。

だが、先輩、と縋るように呼びかける声を聞いたような気がした。

――バニー、そんな顔すんなよ。

仕方無い、安心させてやるか、と唇を歪めて笑いかけてやろうとしたのに、顔が思った通りに動かない。
バーナビーのこんな顔を、見たことがない。

いつでも自分の前では少なくとも己のすることを見定めて動いている、毅然とした顔をしていたように思う。
目の前にあるのは別に何の変哲もない、穏やかな顔だ。
涙一つ零すわけでもない、唇一つ震わすわけでもない、頬一つ揺るがすわけでもない。

それでもそんな顔をして欲しくなかった。

――心配しなくても死なねぇよ。

じっと見つめてくる、目。

――お前にそういう顔をさせとくのは俺が嫌だから。

微かに視界を動かしたことで枕にゆっくり零れる髪の音。

――死なねぇよ、だって俺が死んだらお前、泣くだろ?…泣かしとく訳にはいかないだろ、俺もお前もヒーローなんだから。



自分は生きていて全く平気なのだと伝えるためにゆっくりと持ち上げてひらひらと振った積もりの右手が、中途半端に揺れて、そのまま意識ごと力が抜けた。


[ 2/2 ]

[*prev] [next#]

[目次]
[しおりを挟む]
77


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -