それから数週間。
虎徹は、夕飯を終えたばかりで湿気の多い部屋で、先程ベッドサイドの小さな机の引き出しから見つけ出した白い便箋を片手に一人でソファーに座っていた。
綺麗に四つ折りしてあめその便箋を開くと、中には見慣れきった文字がびっしりと並んでいる。
お世辞にも綺麗とは言えない文字は、こう綴っていた。
――拝啓、鏑木虎徹様。
手紙だ。
そう気がつくと虎徹は、息をするのも忘れて食い入るようにその文字を追った。
拝啓、の使い方は合っていますか?
慣れないことはするもんじゃありませんね。
僕の身体が駄目になったときのために、この手紙を書きます。
あなたは「大丈夫」と言ってくれましたが、念のために。
最初に言っておきます。
もしも過去に、あの事件の日に戻れるとしたら、僕はまたあなたを庇います。
この怪我は僕の誇りです。だって、あなたを守れたんですから。
理不尽な運命ではありません。だから、謝るのはナシですからね。
困ったな、他に書くことが思い浮かばない。
こんなことならもっとあなたに手紙を書いておくんでした。
もっと、伝えたいことは伝えておくべきでした。
あなたと過ごした時間は、信じられないくらい幸せなものでした。
とても短い間でしたが、それでも僕には十分すぎるくらいです。
僕は幸せでした。本当に。
その、あまり綺麗とは言えない文字をそこまで読んだところで、虎徹の目からは涙が溢れ出した。
「バニーちゃん、こんなもん用意してたのかよ…」
あんまりじゃないか、俺にこんな泣かせ方させるなんて。
この手紙を、彼がどんな気持ちで書いたのかを想像するだけで、胸が一杯になる。
ぎゅっと締め付けられるような感覚をおぼえる。
虎徹は腕で軽く涙を拭い、まだあと数行残っている手紙に視線を戻した。
すると。
にゅっと後ろから伸びてきた白い腕がそれを掴んで取り上げた。
「あ」
「…あ、じゃないですよ。何読んでるんですか」
手紙を、その書いた本人に取り上げられ、虎徹は少し不満そうに眉を顰める。
まだ身体がやせ細ったままではあるが、バーナビーは今までと変わらない様子で頬を赤らめていた。
「勝手に見ないで下さい、こういうの」
「えー、これ俺宛てだろ?違うの?」
そういう問題ではないですと文句を付けながら、バーナビーは両手でその手紙をぐしゃぐしゃに丸めた。
「あー…!」
そのままポケットに入れられてしまった手紙を目で追って、虎徹は惜しそうな顔をする。
あれは、遺書だった。必要じゃないということは良いことなのだろうが、最後の数行が読めなかったのはなんだか悔しかった。
「僕、生きてるんですから。別にこんなのいらないでしょう?」
「…あ、それなんだけどさ」
「はい?」
バーナビーの言葉でふと思い出し、虎徹は言いにくそうに口を開ける。
「お前、なんで無事だったんだっけ」
あのあと、あの冷えた廊下で待ち続けていた虎徹の視線の先で、手術室の扉が開いた。
その方に視線を向けると手術室から出てきたのは例の医者で、彼はいつもの無表情で俺の前まで来た。
切羽詰って、慌てて「バニーはどうだったんですか」なんて叫ぶように聞いたのを覚えている。アントニオが自分の身体を押さえて落ち着かせようとしていてくれたが、俺は自分を抑えられなかった。
そしてその状況の中で聞いた「無事だよ」の言葉から、俺の記憶はすっかりなくなってしまった。
「信じられない…あなたお医者様の説明聞いてなかったんですか」
「だって、お前が無事って聞いたら…なんか気ぃ抜けちゃって」若干の後ろめたさから虎徹が頭を掻くと、バーナビーは呆れたように笑った。
「説明して頂いてる間、やけに静かでしたもんね」
バーナビーも違和感はもっていた。
医者の説明に、質問等をしないのはともかくとして、相槌さえ打たないことに。
「だから、心臓が元に戻ったんですよ。戻ったっていうか、復活したっていうか」
「あー、そのへんから聞いてなかった……なんで戻ったんだ?だって最初に心臓抜いて人工のものを入れたんだろ?」
虎徹が言うと、バーナビーは呆れ顔で続けた。
「…本当に"心臓抜いて"って言ってたんですか?」
「え?だ、だって、心臓が打ち抜かれたって…」
はぁ、とバーナビーがため息をつく。
まさかここから誤解していたなんてと小さく呟くのが、虎徹にも聞こえた。
「"心臓を掠り掛けた"って、僕は聞いてますけど?」
「…あ、そうだったかもしれない」
かもしれない、とは言ったが、虎徹もハッキリと思い出した。
そうだ、心臓そのものを打ち抜かれたわけではなかった。心臓に近い位置を撃たれたと、確かに聞いた。
「それから、心臓は抜かれてませんよ」
「じゃあ、人工のものに入れ替えたってのは…」
「入れ替えたんじゃないですよ。"代わりに動く人工の心臓を入れた"んでしょう?本物の上に」
――停止している心臓の代わりになるような人工的なものを心臓の位置に入れて身体を縫った。
医者の言葉を思い出し、はっとする。彼はバーナビーの心臓を抜き取っただなんて一言も言っていなかったじゃないか。
「ってことは…まさか、」
「近くを撃たれたショックで止まっていた本物の方の心臓が、動き出したんです。ずっと心臓マッサージされてるようなものでしたから。お医者様もそれを見込んでたんじゃないですかね」
「そう、だったのか……そっか…よかった……」「仮死化するときに苦しかったの、やっぱりそのせいだったんでしょうか。元の心臓も動いてて、それが意図的ではなくて急に止まるわけですから…僕にはよくわかりませんけど」
ここにきて、初めて心の底から安心しきることが出来た気がする。
虎徹は震える声で「よかった」と何回も繰り返した。
「また止まる可能性は?」
「人間なら誰でもいきなり止まる可能性はあります。けど人並み以上にそれを心配する必要は、もう無いそうですよ」
「良かった…ほんとに良かった」
思わず目頭が熱くなったが、それは必死に堪える。
するとそのとき、虎徹の腕に付いているPDAが鳴った。
こんな夜に事件かよ、なんてことは言わなかった。
「事件だ、行くぞバニー!」
虎徹は反射的にそう言ってから、しまったという顔でバーナビーを見た。
彼の方は呆れたような悲しいような顔で、微笑んでいるだけだった。
「行けませんよ、僕は」
「あ…悪い」
「いえ」
バーナビーの腕には、PDAは無かった。
けたたましい電子音は1人分しか鳴っていない。
「行ってらっしゃい虎徹さん、無理して怪我しないで下さいよ?」
「ああ、行ってくるよ!怪我して婚約者泣かせるような真似はしねーよ!」
「なら良いんですけど。僕の分まで頑張ってきて下さいね!」
そのままバーナビーの額に唇を落として、虎徹は急いで現場に向かった。
現場につくと、そこには誰よりも早く現場に到着し、初登場ポイントを獲得した後のブルーローズがいた。
「あ、タイガー」
「よぉ」
「相棒がいないアンタって、なんか見慣れないわね」
虎徹の横にバーナビーはいない。そのことには虎徹自身も違和感を持っていたが、それは他のヒーロー達も同じらしい。
悠長に会話を交わしている場合でもないのだが、事件内容がそこまで大きなものではないためなんとなく心に余裕があった。
それでも油断してはいけないというのが今回の教訓なのだが。
「で、バーナビーはいつ頃復帰なの?」
「来週あたりかな。一ヶ月安静にしておけって言われてるから、すぐ復帰できるハズだ」
「そう」
あまり素直ではない彼女だったが、どこか安心したような顔をしたのはきっと虎徹の勘違いでは無いのだろう。
そんな彼女に、思わず頬が緩む。すると、ブルーローズが走り出した。
『タイガー、何ぼさっと突っ立ってんの!?犯人が来るわよ!』
「えっ」
『バーナビーが復帰するまでアンタが2人分動かなきゃなの、わかってるんでしょうね?』
「わかってるって!」
マスクの中で響くアニエスの声に苦笑しながら、ワイルドタイガーも走り出した。
これは、小さな世界の奇跡の話。
遠くに見える虎徹の姿を見上げながら夜空に吐いたバーナビー息は、真っ白だった。
2012.01.23