Phantom/イヅギン*

がちがち。がちがち。寒くはないのに指先が震えている。夏の宵独特の湿気と熱気が落ち着き、ともすれば金木犀の香りが香ってくる季節を迎えた。
Tシャツ一枚でも昼間過ごす分には十分であるが、日は次第に短くなり、攻撃的な熱も和らいできている。既に太陽が落ちて久しい。背後には紺色の闇を等間隔で照らす役割を担っている街灯が人工的な光を落としているから、手元はそこまで暗くはない。

イヅルは腕時計にちらりと視線を落とした。もうすぐ午後十時をまわろうかという時分に、多少の焦りを覚え始めたその瞬間、指先に微かな振動が伝わった。直後、カチンと馴染んだ手応えを覚え、思わず膝を立てる。そのまま何食わぬ顔でドアの取っ手を押し下げると、これまで堅牢に侵入を拒んでいた扉が簡単に開いた。ちらりと周りを見回し、人がいないことを確認してから、その隙間に身体を滑り込ませると後ろ手に鍵をかけ直す。

靴を脱いでそれを手に持ったまま廊下に上がった。明かりはつけない。当然だ。扉の隙間から垣間見るだけだった廊下を踏みしめていることに感動を覚えつつ、玄関からまっすぐ目の前にある扉までゆっくりと歩む。よくある1DKの間取りの部屋には、独特の匂いが立ち込めていた。香水と体臭の混じった、イヅルにとっては麻薬的な香りである。それが、この部屋に入ったその瞬間から身体にまとわりつくように充満しているように感じられた。イヅルは正面の扉の前までやって来ると大きく息を吸い込んで、最後の砦を一息に開いた。

目に飛び込んできたのは想像したとおりの部屋だった。家具の少なさからか、あまり生活感は感じられない。壁際の白いシェルフの一部分にはオーディオ再生機が設置されていて、その隣の仕切りにCDが几帳面に収納されている。一方、部屋の中心に陣取っているガラステーブルの上には飲みかけのマグカップと、開いたままのノートパソコンが放置されていた。側に置かれたラックには豊満なバストを湛えた女優が表紙の雑誌が掛けられており、そこだけがこの部屋に不釣り合いだった。部屋に足を踏み入れる。最初の一歩で足の裏に柔らかな感触が伝わったからうつむくと、闇の中から白いシャツがぼんやりと浮かび上がっている。昨夜の帰宅は少し遅めで、そのせいか今朝も寝坊気味だったようだから、慌てていたのかもしれない。
それをほほえましく思い、イヅルはシャツを拾い上げると鼻先に近づけて息を大きく吸った。より濃密に感じられる匂いに、そうしてしばらく酔いしれる。そのまま顔をうずめてしまいたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて床に戻した。それからまず最初に、開けっ放しになっているカーテンを閉める。遮光性の高い、深い藍色をしたカーテンが窓を覆うと、途端に部屋は深い暗闇に包まれる。軽い眩暈を覚えて、イヅルはぎゅっと目を閉じた。それから、背中に背負っているリュックに自分の脱いだ靴を入れ、代わりに別のものを取り出す。電灯のスイッチの位置を確認する。廊下から扉を開けてすぐ右に手を伸ばせばスイッチが押せるようになっていた。左側はキッチンがあるため、スペースとしてはそちらが広い。
イヅルはそこに身を潜めることにした。

おかしなもので、玄関の鍵を開けようと四苦八苦していたときは今よりももっと心臓の音が高く耳元で鳴っていた。にも関わらず一歩足を踏み入れてからは少しずつ呼吸も整い、心音も気にならなくなっている。
それもこれもすべて、この匂いのせいだと思う。この匂いには、時に精神を昂ぶらせ、時に落ち着かせる作用があるに違いない。
あの白い首筋に少しだけこすりつけられた香水と汗を間もなく、ほかでもない自分の鼻腔でじかに嗅ぐことができる。そんなときに、神聖な高揚はあっても下劣な緊張は、あってはならない。
とはいえ、今こうして冷静でいられるのは、理性によるところが大きい。彼を目の前にしてしまったら、自分の理性がどう働くのかなど想像もつかない。

リュックを床に置いて、膝をついて息を潜めて目蓋を閉じた。最初にこの部屋を訪れたのは、いつになるだろうか。昨年が部屋の更新年だったはずだから、もう三年も前になる。
宅配業者でアルバイトを始めてから半年ほど経った、春の日だ。その日は平日で、桜のつぼみがようやくほころび始めていた頃だと思う。花粉症気味のイヅルはマスクをすべきか迷い、結局せずに配達に出たのだ。
何軒か配達をこなすうちに強い風に花粉が舞い上げられ、自然と目には涙が浮かび、鼻がぐずつき出した。
とりあえずあと一軒だけ、と思って急いだのがこの部屋だ。インターホンを押すとすぐにドアの向こうで足音が聞こえ、白い顔がドアの隙間から覗いた。そのときの、横殴りにされた様な衝撃は今でもありありと思い出すことが出来る。ふ、と香った甘いようで鋭い香りが鼻をつき、上から見下ろして来る静かな視線が胸をどくり、と打った。痩せ過ぎのきらいがあるのではないか、と思える長身にさらりとした銀色の髪。扉の淵にかかる長く細い指先。

「ああ、良かった。午前中に来なかったらどうしようかと思ってたんよ」

そう言うと、怜悧にみえるその美貌とは裏腹に柔和に微笑んだ。イヅルがそれに見とれていると、少し怪訝そうに眉を寄せたが、勝手にサインして荷物を受け取ってしまってから、

「花粉症なん?ボクの知り合いもそうや。これ、良かったら使い」

と苦笑混じりに部屋の奥からマスクを持ってきてイヅルに握らせる。

「ほな、ご苦労様」

バタン。扉が閉められる。つう、と鼻から鼻水が流れ落ちて我に返るまで暫く突っ立ったままだった。

そこまで思い出してから、イヅルはもう一度深呼吸をして、腕時計に目をやる。まだそれほど時は経っておらず、十時半には届かないくらいである。
そろそろ帰ってもよいはずだが、明日は土曜で休みだから少し遅いのかもしれない。
ここのところ家で食事を取っていないようだから、外食でもしているのだろう。もしかしたら誰かと飲みに行っているのかもしれない。それを考えると嫉妬で胸が裂けそうになるが、歯を食いしばった。

と、その瞬間だった。
ガチャガチャと鍵が回る音が鳴り響き、イヅルはにわかに緊張する。その直後、人の気配がした。靴を脱ぐゴソゴソという音。
スッ、スッ、と少しだけだるそうに足を引きずりながらその音が近づいて来る。イヅルは身体をバネのようにかがめてその瞬間を待った。

ふわっと風が部屋に通る。黒い影がぬうっとこちらの暗闇に紛れ込んで来た。鼻先にあの匂いを捉えて息を呑む。
人影はイヅルは潜んでいる空間に背を向けて電灯のスイッチを探った。

その瞬間を待ち望んでいたイヅルは不意に立ち上がり、背後からスイッチに向けて伸ばされていた腕を掴むと、空いた手で相手の口を塞いだ。

「!?」

自らの手で口を塞ぐ直前、相手が戸惑いの声を上げるのが聞こえた。イヅルは、相手がまだ状況を飲み込めず、警戒の体勢を取れないでいるうちに、身体にのしかかりながら膝の後ろを蹴る。華奢ともいえる体躯はバランスを崩して、床に倒れた。胸から落ちて、相手はウッと呻く。

イヅルはその背に跨がる格好で、掴まえていた腕を後ろに捻り上げると口を塞いでいた手を外し、反対の腕も掴むと背中で一まとめにした。
そうして腕を押さえたまま、先程リュックから取り出しておいたガムテープを両腕に巻き付けて縛り上げる。
相手は呼吸するのに精一杯でまだ抵抗という抵抗は見せていない。
もはや一ミリたりとも自分では腕を動かせないほど固定したことを確認すると、素早く立ち上がって振り返り、今度は足首をガムテープでまとめる。
そこでようやく事の異常さを認知したらしい相手は、背を反らせてどうにか秀吉から逃れようともがき出した。

「はっ、あ、だ、誰や、こんなこと…っ」

イヅルはそれには応えずに肩を掴むと仰向けに直す。部屋の暗闇のせいで、相手からこちらの顔はまだ見えないだろう。イヅルには、薄ぼんやりとではあるが恐怖と困惑にゆがむ白い顔が判別できた。
まだ何事かを続けようとするその口を、再度手のひらで塞ぐ。相手は腕と足を固定されて身動きが出来ない上に呼吸をふさがれて、慌てたように暴れ始めた。
秀吉は両足で相手の足を挟むと、空いている手でネクタイをほどきにかかる。
そうしている間に口を塞いでいる手のひらに生ぬるい呼気が吹きかかった。パニックを起こしたように必死で息を吸い込もうとするたびに、手のひらが吸われているように感じる。

ネクタイを片手でほどき、次はシャツのボタンを外す。首を左右に振ってどうにか逃れようともがく相手を押さえつけながらボタンを外すのはなかなか骨が折れた。
ほとんど引きちぎるようにしてボタンをすべて外し、中の肌着をズボンから引き抜いて押し上げる。眼前に晒されていく素肌が大きく上下して、大層なまめかしく見えた。

肌着を首元までたくし上げ、胸まであらわにしてしまう頃には、相手はほとんど過呼吸に陥ったように、速く浅く胸を動かしていた。イヅルは抜き取ったネクタイを自分の口に咥え、ピンと張ると相手の口から手を外して素早く両手を使い、猿ぐつわのようにしてネクタイを噛ませる。
相手は窒息状態から解放されて大きく口を開いて息を吸い込んだところだったから、思ったよりも容易だった。ネクタイを強く頭の後ろで結ぶと、イヅルはようやく身体を起こす。ここまでは何度もシミュレーションした通りに事を済ませることが出来た。上出来だった。

見下ろすと、相手は一瞬でも死を意識したのだろう、目を閉じて大きく息をついている。手足の自由を奪われ、己の生死がイヅルに委ねられている今の状況を混乱しつつも理解したようだった。
声を発するわけでもなく、こちらを睨みつけるわけでもなく目を伏せている相手の顎を掴まえて、イヅルは相手の顔をこちらに向ける。

「市丸さん」

名を呼ばれ、相手は弾かれたように目を開けて空色の瞳を恐る恐るこちらに転じた。紛れもなく自身の名を呼ばれ、イヅルのことを判別しようとしているようにも見えるが、しかしそれは無駄なことだ。
イヅルと市丸には互いの面識がない。一度か二度配達に訪れた宅配業者の顔を覚えている者は少ないだろう。
相手は自分のことを知っていて、部屋にまで侵入されているのに、自分は相手のことが分からない。それはどのような恐怖だろう。想像するだけで背筋がぞくぞくした。
案の定、市丸は訝しげに寄せた眉をきつくして目をこらしているが、その表情は更なる恐怖にゆがんでいる。

イヅルは、乱れて顔に張り付いている市丸の髪を指でつまんで整えてやりながら、輪郭をそっと撫でた。市丸は再度目を閉じて、嫌悪に耐えるように眉間に皺を寄せる。
その指で唇をなぞり、首筋を辿って胸の突起に触れるに至り、市丸は信じられないというような顔でイヅルを見上げた。

市丸の視線を痛いほどに感じながら人差し指で、その突起に上から触れる。んん、と呻いて市丸が身じろぎをした。しかしいくら抵抗しようにも両腕は背でまとめられているし、足も自由が利かないために秀吉の行為を阻止することは出来ない。
優しく表面を撫でながら反対のそれを手のひらで包み、指の間に挟むと、市丸は首を振って背を反らせ、再びもがき始める。それを意に介さず、愛撫を続けた。
ずっと、夢の中や想像で触れてきたこの桜色の突起に、今自分の手が触れているという事実に、体中の血液が沸騰するような心地だった。指先の動きひとつひとつに市丸が反応を返すことが信じられず、しばらく強くつまんだり、ひねったりしてその反応を確かめる。
すると突起は次第に硬く立ち上がった。市丸は噛まされたネクタイを強く噛み締めて羞恥や怒りをこらえるような顔できつく目を閉じていた。

イヅルはそこで立ち上がり、壁のスイッチを押す。直後、チカッと天井に備え付けられたライトが点灯し、それから二三度明滅した後に白い明かりが部屋の暗闇を一瞬にして閉め出した。

明るくなった一室で、立ったまま、床に転がっている市丸を見下ろす。市丸は眩しそうに顔をしかめつつも目を見開き、イヅルを見上げている。次は何をするつもりなのかと戦々恐々としているに違いない。イヅルは優越感に頭がクラクラとした。僕がこの人を、見下ろしているのだ。

ゆっくりと市丸の足を跨ぎ、屈むと、痩躯に覆いかぶさる。市丸は真っすぐにイヅルを睨みつけている。
恐れをないまぜにした灰色の瞳から視線を外さずに、口を半分だけ開けて尖らせた舌を出した。そして、先程までの愛撫でつんと立ち上がっている胸のつまみに舌先で触れる。
瞬間、市丸の背がビクンと反り、上半身を左右に振って逃れようと抵抗を見せた。

イヅルが金銭目的でも、怨恨が理由で侵入したのでもないということを、やっと理解したらしい。

首を持ち上げて上に覆いかぶさるイヅルを払いのけようとするが、両足は縛られ、またイヅルの足に捉えられているし、背後で拘束された腕の自由が利くわけもなく、罵りの言葉を吐くことさえ封じられているためになんの効果もなかった。
秀吉はただ黙々と己の欲望のままに、舌で突起を撫でたり、唇で吸うことに没頭した。
頭上では市丸が息を切らしてうめき声を上げているが、イヅルにとっては、それさえ酷く官能的な旋律でしかない。

イヅルはこらえきれず、大きく口を開けて、白い肌にむしゃぶりついた。

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