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疲労困憊、正しくその一言につきる。喧騒さえ耳に入ってこない程には疲れきっていた。スモーカーは一体何杯目になるのかわからないビールの入ったジョッキを持ち上げては呷り、溜息をつくという行為を繰り返している。酷く疲れているはずなのにいくら飲んで酔えそうになかった。いやでも目が冴えてしまう。スモーカーは殆ど徹夜でーー署に泊まり込む勢いで捜査にあたっていたが最初の事件も二つ目の事件もろくに手がかりを得ることが出来ないでいた。時間だけがこうしてズルズルと過ぎ去っていた。そうしている間にも第三の被害者が出るかも知れない、という最悪の事態に対する焦燥だけが身を蝕んでいる。空回りを続けるスモーカーを見兼ねて同僚のヒナが無理矢理休みをとらせたのだ。体力と気力だけが奪われ続け、世間からは無能と揶揄されて、同僚達はげっそりと窶れてしまった。直属の部下であるたしぎも方々を這いずり回って疲労困憊の体である。けれどその誰もが、疲れきった表情の中に悔しさを滲ませていた。スモーカーとて同じ気持ちで、こうして休みを貰っていても事件のことが頭から離れない。こうしている間にも街の何処かで被害者が生まれ、明け方にでも新たな死体が発見されるのではないかと気が気でない。もらった有給を持て余して、陰鬱な焦燥感を紛らわすためにこうして酒をとめど無く飲んでいても一向に気分は晴れることはなく、胃の奥にむかむかとした澱が沈積していくばかりだった。もういい加減帰ろうか、と最後の一口をジョッキからぐいと呷って、腰を浮かしかけた時だった。

視界の端を何かが動いた。大柄な黒い影はその体躯に見合わない優雅な足取りで猫のようにスルスルと混雑したテーブルの合間を擦り抜けていく。紫掛かった黒髪を綺麗に撫でつけた男は、場末の雑多なパブには不釣合いに見えた。男が通り過ぎたテーブルの面々は皆振り返って男を仰いだ。しかし男はそんな視線を気にすることもなく店の最奥に屯している見るからにガラの悪い男達に向かってずんずんと突き進んでいく。その横顔を何とは無しに見詰め、すっと通った鼻筋を横断する物騒な縫合跡を見つけて出して漸くあの時の男だと思い出した。クロコダイル、確かそういう名だった。何処か悪戯めいた色を含んでいた理知的なあの顔はいま、酷く苛立っているように見えた。透き通る様な金目が怒りに燃えている。スモーカーは職業柄か、良くない予想に駆られて思わず立ちあがりかけた。

そしてスモーカーの予想は嫌な方に的中した。クロコダイルは、再奥のテーブルまでたどりつくと何事かと彼を見上げる破落戸の面々を無視して、その中心に座って大口に酒を飲んでいた男に視線を合わせた。見下ろされた金髪の大柄な男はフフフ、と笑っている。夜だというのに外されることのない赤いレンズのサングラスが酷く異様だった。
「良いご身分だな、ドフラミンゴ。人を散々待たせた挙句携帯にも出ないで」
クロコダイルは近くのテーブルから並々と酒が入ったグラスを持ち上げ、ドフラミンゴと呼ばれた男の上で躊躇なく逆さにした。自然重力に従って酒は滴り、氷がこつんこつんと間抜けにドフラミンゴの柔らかそうな髪の毛に降り注いでは床に転がった。最後の一滴までを律儀に男の上に落としてから、クロコダイルはグラスを静かにテーブルに戻す。それを甘んじて、というか反応出来ない侭に受けたドフラミンゴは、理解出来ないといった表情でぽかんとクロコダイルを見上げていた。
「レストランに8時、とお前は言ったな?」
「…今日だっけ」
「もうお前とは金輪際約束事などしない方が良さそうだな」
そう言って入ってきたドアの方に体をくるり、と回転させたクロコダイルの琥珀色の瞳がスモーカーの目を捉えた。悪戯っぽく細められたそと瞳にスモーカーは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
「おれはこいつと遊ぶことにする。詫びの入れ方はわかっているな、ドフラミンゴ」
カツカツと革靴を鳴らしクロコダイルが近づいてくる。
「ここで会ったのも何かの縁だ。酒を奢らせてくれないかね?」
スモーカーのいるテーブルまで来るとクロコダイルは席を立つ様に促した。
「騒がせたな」
クロコダイルは呆然とした顔の店員に100ドル札を気前良く押し付けるとスモーカーの腕を引っ張りそのまま乱暴にドアを閉めた。
閉ざされたドアの向こうで、クロコダイルとドフラミンゴを恐る恐る遠巻きに見守っていた彼らが安堵の息を付いたのが聞こえてくるかのようだった。夜になって幾らか冷やされたとはいえ、真夏の空気は停滞していて酷く暑い。少しだけパブの効き過ぎた空調が恋しくなった。
「おい、どこまで行く気だ」
いくら本気で抵抗していないとはいえ、肉体派で通ってるスモーカーをぐいぐいと引っ張っていくその力に軽く驚く。

「ああ…申し訳ない、スモーカー君、と言ったか、勢いで巻き込んでしまった」
「いや、丁度店を出ようとしていたところだったから」
と言いながら、暫くあの店には行き難い、とスモーカーは思った。もしほとぼりの冷めないうちに訪れたなら噂好きの暇人どもが根掘り聞いてくるに違いない。酒は静かに飲みたい派であるスモーカーにとってそれはありがたくも無い状態だ。
「そうか。もし、君さえよければだが、俺の行きつけのバーに行かないかね?迷惑をかけてしまったお詫びがしたいんだが」

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