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次の一歩で抜け落ちそうな程腐食した、ビルの外付け非常階段を、男を追って一期一振は駆け上がる。入り組んだ街。世間一般からみたら廃墟と呼んでもいいのかもしれない。しかし、カラカラと回る室外機達がここが立派な居住空間である事を証明していた。

「とまりなさい!」

男がこちらを振り向いた。その手には銃。パン、という乾いた音が耳に届くよりも早く、身体は痛みを感知した。
赤。
暴力的な迄の赤色が視界を塗り潰す。上滑る息、腹から流れ出すどろりという何とも不快な感触。それでも何とか視界の端に、逃げて行く男を捉えた。ひゅうひゅうと鳴る喉を押さえ付けて、制止の言葉を叫ぶ。届いたのか、届かなかったのか、逃げる男の足取りは鈍らなかった。次第に小さくなって行く男を、それでも追い縋って足を踏み出す。一歩、二歩、その度に視界が揺れて足が縺れた。自重を支えきれなくなった体は、ついに地面に倒れ伏す。どさりという音さえも他人事のようで、痛みよりも、倒れたのだろうという感覚だけがあった。



消毒液の匂い、薄汚い天井。ベッドサイドの椅子に行儀悪く腰掛けてこちらを見つめている白髪の少年。一期一振はぱちりと目を開けて最初に飛び込んできたものを視認した。
「あ、目覚めたよ。国行ー!」
白髪の少年が誰かを呼んだ。年端もまだ行かない、エレメンタリースクールに通うくらいの子供だ。白髪が外に向かってぴょんぴょんと跳ねており、じっとこちらを見つめてくる瞳はエメラルドの碧眼だった。
ドアが開く音がして、誰か人が入ってくる。国行、だろうか。そちらを見ようとして体がピクリとも動かないのに気が付いた。かつかつと靴音がして人影が近づいてくる。ぬうっとこちらを見下ろして来たのは眼鏡をかけた痩せぎすの男だった。
「起きはったん」
「ええ。おかげさまで。貴方が手当を?」
「べつに。大したことあらへん」
「それであんさん何者なんでっしゃろ。国俊と蛍が家のベランダで、あんさんが血だらけで行き倒れてるのを見つけたんやけど」
国俊、蛍。知らない名前が二つも出て来た。けれど私を見つけてくれたのはその2人の様だった。後でお礼を言わなければ。
「ありがとうございます、私は一期一振、ここにくる前に……」
ここにくる前に?なんだ?その先が出てこない。自分の名前が思い出せない。それどころか今まで何をしていたのかも靄がかかった様に上手く記憶から取り出すことができない。
「わたし、は」
「ちょ、あんさん大丈夫なん?」
頭を抱えた私を、眼鏡の男が慌てた様に覗き込んでくる。
「すみません、思い出せないのです。私が何故ここにいたのか、何者なのか…」
「……」
眼鏡の男はどこからか椅子を引いてくるとそこにだらしなく腰掛けた。
「蛍はあっち行っとき」
蛍と呼ばれた白髪の少年が部屋から出て行ったの見届けて眼鏡の男は口を開く。
「自分は明石国行言います。あんさんはうちの窓の外で血だらけで倒れとった。そこまでの記憶はあらはります?」
「いえ、正直言って全く…。せっかく手当をしていただいてわるいのですが、警察を、呼んでください。身元を調べてもらうなりなんなりできるでしょう…」
明石という男は思案するように小首を傾げた。中途半端に伸ばされた長い毛がサラサラと首筋を流れる。
「警察は、呼ばんほうがええんちゃう?」
「何故です」
明石は、サイドテーブルのうえからジップロックを取り出すと軽く振ってみせた。中には白い粉がぎっしりと入っている。結構な量だ。
「C17H19NO3……簡単にいうとモルヒネやな。なんで一期さんがこんなもん持ってんのか知らへんけど、警察行ったら面倒臭いことになるんと違うん?特に記憶失ってはる様やし。」
「麻薬なんて!自分はそんな人間では…!イッ…」
思わず叫びかけて、腹に走る激痛に丸くなった。
「激昂しはると傷に触りますよって」
明石は冷静にそう言うと「それに」と付け加えた。
「それに、なんです?」
「あんさんのその腹の傷、どう見ても銃で撃たれた跡やで。」
愕然とした思いだった。銃槍を腹に持ち、所持品からは大量のモルヒネ。こんな状況で警察なんて呼ばれたらどうなることだろうか。
「それは…しかし私には全く記憶が…というかこの傷は貴方が手当を?」
明石はふい、と顔を背けた。言いたくない事情でもあるのだろうか。
「まあ、大したことやありまへん。…直ぐに出て行けとは言わんけど歩けるようになったら早々に出て行ってもらいましょ。うちも巻き込まれるのはごめんですよって」
「ご厚情痛み入ります」








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