火青

感情が溢れるものなら、その溢れた感情はどこに向かうのだろう。杯の淵から溢れた水とおなじなら、その行き先は机上であり床であり地面である。そしてやがては自然に空へと帰る。ならばやはり、感情も溢れれば空へと帰るのだろうか。形のないものとして、流れて、消えて。

そうつまり、俺の感情には最初から結末など無かったのだ。溢れるだけ溢れれたそれを人の手でとどめる事など不可能で。だからいま、それ等はただこぼれ落ちて行く。「火神、俺は、いなくなるんだ」男の深海の瞳が俺を見詰める。一寸たりともそらされる事のない視線は息苦しい。認めたく無い現実が、此方を真直ぐに射抜くのだ。何処へ、と問う事は出来なかった。張り付いた喉は音を出す事を放棄している。唇は間抜けにひらいたまま閉じる事をしない。ひゅっ、という短い息だけが辛うじて口から漏れた。「だから、さようならだ、」また、どこかで会えたなら。そう続けて男は笑う。男の真白な着物はここに至って、正に死装束だった。格子木の奥、高い窓一つがつけられた座敷牢で男は数日を過ごしてきた。その数日の間、男はこの座敷牢から一歩も外へは出なかった。牢、なのだから当然の事ではあったが、もし鍵が外れていたとしても男は外へは出なかっただろう。正確には、出られなかっただろう。着物の裾から覗く脚は驚く程に細く、強制的に歩く術を失わさせられたのだと知れて、今更乍、心臓が痛みを覚える。「逃げよう、今からでも遅くない。俺がいれば、俺とお前なら、」逃げられる。張り付いた喉を無理矢理に開いて、そこから飛び出した言葉は紛れも無く本心だったけれど、それは決して真実ではなかった。目の前の男をこの牢から連れて逃げたい。何処までも、例えば誰も二人を知らないところまで。けれど、それは口にする程容易い事では無い。先ず男は自分で歩くことが出来無かったし、そも歩けたとしても国を敵にまわして、生きていける筈も無かった。「分かってんだろ、火神」「けど、それでも!お前を見捨てていけって言うのかよ!」「俺は、此処で、死ななきゃならねぇんだよ!」





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