第十夜

第十夜ぱろの火青

こんな夢を見た。

火神が男に攫われてから七日目の夜にふらり、と帰って来て、帰ってきたと思ったら急に熱が出て今は床に着いているのだと影の薄い少年が知らせに来た。火神は町内一の良い男で、上背もあれば顔も精悍、その上酷く正直な人であった。ただ一つ、パナマ帽を被り夕方水菓子屋の前で道行く人々を眺めている、そんな道楽があった。店先に腰を掛けて、右から左へ、左から右へ動く人々を何もせず見詰めているのだった。その時彼はその赤い瞳を見張り、何やら感心した様に何度か瞬いて見せることもある。余り人が通らない時には往来から視線を外し、並ぶ水菓子を見ている。水菓子には色々ある。水蜜桃、林檎、琵琶、バナナ。綺麗に籠へと盛られたそれらは直ぐに客に渡せるよう、二列に並べてあった。火神はその籠を見ては綺麗だと云っている。酷く食べることが好きな男だから、日がな一日水菓子を眺めているのかもしれなかった。もし商売をするなら水菓子屋がいい、と何時も云う癖に、パナマ帽を被って遊び呆けている。この色は良い色だ、などと無駄に美しいその顔で夏みかんを品評してみせることもあった。けれども火神は決して水菓子を買わない。何故か、信念でもあるのか、それとも単に気分なのか。わからないけれど、火神はただ一向に色ばかりを褒めていた。

ある夕方一人の男が、不意に店先に立った。落とされた陰にふ、と顔を上げれば余程身分のある人なのだろうか、上等な質の着物を着ていた。けれどその着方は酷くだらしが無く、どこぞかの家の坊ちゃんか酷ければ囲われ者に見える。肌蹴た着物の袷から除く胸板は火神のものと比べて遜色なく、むしろ己のものより幾分か引き締まって見えた。そしてその上、男の顔は酷く火神の心を揺さぶった。切れ長の眦、その奥に潜む瞳は深海の青。吸い付きたくなる様な肌は浅黒く、落ちていく西日を浴びてきらきらと輝いている。火神は思わず立ち上がると、その大事なパナマ帽を脱いで丁寧に挨拶をした。そして顔を上げて曲げていた腰を伸ばすと、男がかなり大きいことに驚く。火神は今まで自分より大きな男を見たことは無かったが、目の前の男は自分と同じ、ともすれば自分より上背がありそうだった。そんな火神の様子など歯牙にもかけず、男は薄いその唇を開く。口の中だけ真っ赤で、一際赤黒く染まった舌がちろちろと覗いた。「あれを、くれ」ゆっくりとした動作で持ち上げられた腕、伸ばされた節の際立つ指先。つられてその先を見ればこの水菓子屋で一番大きな籠が鎮座していた。火神は弾かれた様にその籠を掴むと、男に手渡した。「案外重てぇな」男は一寸ばかりその籠を下げると誰に向けてでもなくぼそり、と呟いた。火神は元々暇人の上、親切な男だから、いや、この時はそれだけの理由では無かったが、兎に角反射の様に「お前の家まで、俺が持っていってやろうか」と言っていた。そうして火神は手に籠を提げた侭、男と一緒に水菓子屋を出た。それきり火神は七日間帰ってこなかった。いくら火神といえどもあまりにも呑気が過ぎる。只事では無いだろう、そう言って友人達が騒ぎ出していると七日目の晩、火神はふらり、と帰ってきた。出かけたままの姿その侭でやつれた様子などは一向にない。友人たちはよってたかって疑問を投げかけた。「どこへ行ってたんだよ」不安と安堵を存分に孕んだその声達に火神はまるで朝帰りの様な気楽さで、「電車に乗って山へ行っていた」と答えた。

何でもよほど長い電車に違いない。火神の云うところによると、電車を下りると直ぐ、野原へでたそうである。果ての見えない程に広く、青々とした草ばかりが生えていた。赤と黄と緑と紫の花はとりどりに開いた先から枯れていく。枯れた花片は地に消えて、再度芽吹く。目まぐるしく動く草は裏腹に静かなように見えた。たとえるなら、そうあるのが自然の様に。男はその野原を当然のように歩いていく。数歩遅れてその後ろをついていくと、急に絶壁の上に出た。男は徐にこちらを振り返り、唇の端を釣り上げて笑った。「ここから飛んでみろよ」火神はパナマの帽子を脱いで「いやだ」と言った。「いいから、飛べよ」「いやだってんだよ」頑なに固辞する火神に業を煮やしたのか、男ははぁ、と一つため息をついた。「もし思い切って飛び込まねぇなら、犬に舐められるが、テメェはそれでもいいのかよ」その言葉に火神はふるり、と震える。火神は犬がこの上なく嫌いだった。大の男が何を、とよく笑われたりはしたけれど、それでも怖いものは怖い。けれど、命の方が大事だと、そう思って飛び込むのを躊躇っていた。そこへ、わん、と犬が一匹吠えた。白と黒の模様の、瞳の青い犬だった。どことなく、見たことがある様な顔をしている。火神は仕方なしに、右腕に持っていた細い檳榔樹の洋杖ステッキで、犬の鼻頭を打った。犬はきゅん、と切なそうな声をあげて、絶壁の下へと落ちていった。火神はほう、と一息つくとまた一匹の犬がその花を火神に擦り付けにきた。火神はやむを得ず、再度その杖を振り上げた。犬はきゅん、と鳴いて、先ほどと同じ様にまっさかさまに真黒の穴の底へと落ちていった。そしてまた一匹。わん、と鳴くそれに目をむける。その時火神はふと気が付いて、向こうを見ると果てのない野原の其のさらに果てまで埋め尽くした黒白の犬の群れが真直ぐに火神の方へと歩いて来ていた。後ろは切り立った崖である。火神は心の底から恐怖した。群がってくる犬を、その鼻先を一つ一つ丁寧に杖で打っていく。不思議なことに、その鼻先に杖が掠りさえすれば、犬たちは何事も無かったかのように、それが当然の様に、ころり、と谷底へと転げ落ちていった。ちらり、と覗いた谷底には黒白の犬が列をなして落ちていく。恐ろしくなったけれど、火神は必至の勇をふるって、黒白の犬の頭を七日七晩たたき続けた。けれど、とうとう力尽きて、腕が痺れてきたころ、するりと脇の下を抜けてきた犬にぺろりと頬を舐められた。あ、と思う間もなく全身から一切の力が抜けて火神は真っ逆様に崖下へと落ちていった。

影の薄い少年は火神の話をここまで聞いて、今まで閉ざしていた口を開いた。「だからあまり、通りすがりの人を見るのは良いことではありません。女だけでなく、男も」俺も影の薄い少年の事は得体が知れなかったが、彼の言葉はもっともだと思った。影の薄い少年は色素の薄い瞳を一、二度ぱちりぱちりと瞬く。「どうせなら、貴方のその帽子を僕にくれませんか」
火神は助からないだろう。パナマ帽は影の薄い少年のものになった。


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