「生きていたくない。」

そう言ったのは今回が初めてであった。
生まれてこの方平凡の中の平凡を送ってきた人生でありはしたが、ここまで生き延びていると人間関係や仕事に振り回されるだけの毎日に過ぎなくなってくる。
普通である私にとってはそれは結構重荷であるのが一番の悩みであった。
特殊な能力を身に付けたお陰で大統領直属の秘密部隊である刺客の中に入れられた辺りから私の人生の歯車は既に狂い出していたのだ。
やりたくもない書類整理や人殺しを毎日のようにやりこなした挙句、紙詰まりと血で錆び付いてしまったその歯車はギチギチと鈍い音を巻き込みながらもまだ動いている。
過酷な事も長らく続けていれば呼吸をするのと同様に当たり前になってくるのだと、依然なにかの書物で読んだことを思い出す。
しかし私の場合それは無意味であった。
いくら山ほどある書類の整理をしようとも、誤字脱字、簡略な文章、報告することが少しでも外れてしまえば呼び出しを食い、一から真っ白に薄暗く光る羊皮紙の上へ書かねばならない。
人を殺すのだって容易ではない。
とある人は「鉛一つで人は死ぬのだから楽なものだ。」とそれこそ息をするように言い放っていたのだが、それは私には理解し難く、困難であり、何度も言うようであるが簡単な事ではなかったのだ。
殺さねばならない人物に近付いて話を聞くことも多々ある暗殺業は苦痛で仕方がない。
ほんの短い会話の中にはやはり人間味を帯びている標的の言葉には揺らぎ、殺すことを躊躇してしまう。
だから武器を持ち、いざ相手と対面すればそれだけで固まるか、逃げ出すか、悲鳴を上げるか、地へへたり込むか、それだけで私の元からなかった殺意が更にないものへと淀むのだ。
底無し沼に引きずり込まれるかのような感覚。
生きていてもじっとそこにとどまるだけで寿命が来るのを待つか、殺されるか。
それとも一層のこと舌を噛み切り死んでしまおうか、そんな想いを只管に毎日に抱えていたのだが、もうそれもやめてしまおうと目の前に悠々自適にも厳かに椅子に座る軍人の格好をした同僚へと言葉を発したのはこれが初めてであった。
私はあまり人と話をするのが得意ではない。
だから話しかけられればそれに見合った応えをを投げ返すだけの日々を送って来たために、話をした事のない人などちらほらといる。
私が唯一話が出来て頷けると言えば大統領か、ブラックモアだけであった。
大統領の事は尊敬し、敬愛している。
国の為に国を良く見て国に献上する姿勢は正に国民の父であるように思う。
私を刺客として迎え入れたのも大統領であったのは今でも感謝しているつもりだ。
確かに私の平穏を断ち切ったのは大統領本人であるものの、誰かに頼られていると言う事実は拭っても抜かり落ちない喜びが胸中を犇めき合う。
それもアメリカと言う大国の下で働けるのは、どこにもある偶然などではなく、これは必然であるのではないだろうか。
そう考えてしまうのはなにも私だけではないだろう。
だから大統領に深く忠誠を誓っているブラックモアとは気が合った。
彼は私を友人だと思っていないのかもしれないが、それでも私にとって彼は類であり、友であった。
会話こそ長続きしないもののそこはかとなく仲は良好であったように思う。
それと言うのも私とブラックモアには共通の趣味が存在しており、それを二言、三言話すだけの会話を一日に数度は交わしていた。
こんな話が出来るのは彼ぐらいであり、私はそれを重宝し、楽しみにしていたのだが、それも長くは続かない程に私の心は衰弱仕切っていたのだ。
だから、私がなんの関係もない目の前の軍人に助けを求めるのは酷く滑稽にすぎない現実を帯びている。
私はこの、軍人の格好を模したアクセルと言う男とは一切話をしたことがない。
皆無に等しい。
それは、我々刺客の中でも彼は浮き足立った存在であったからだ。
一際に陰鬱としており、酒を煽ったかと思うとどこか虚ろな視線を虚空へと向けるその姿勢は過去に重大ななにかを仕出かしたことを意味しているようで近づけなかった。
しかし、今ではそんな事はどうでも良い。
一人死ぬ事が出来ないのならば、誰かの協力を得れば良いのだ。
それが例え、素性の知れぬ男であろうともだ。

「だからどうした。」

「殺してください。」

「誰をだ。」

「私を。」

背もたれへ預けた体を一度離しながらまた沈むアクセルを眺めながらこれは駄目かもしれないと、そう感じてしまった。
それは一重に動かない彼なりの返事であるかのようで、私が勝手に絶望したに過ぎないのだが、それでも本を片手に文字を追うアクセルは依然として私のことを視界に止めようとはしないのだ。
嫌われているのではない。
無関心そのものである。
なんの取り柄もない私は彼にとっては赤の他人も同然であり、また私も彼の事は素知らぬ職場の同僚と言った印象しか持てていない。
しかし、だからこそこの関係が殺してもらうという状況下では好都合なのだ。
仲の良い人物に殺されるよりも、お互い知りもしない人物に絶命を与えられる方がよっぽど幸せである。
それは隣人に復讐されるよりも、無差別に人を殺しまくる通り魔に刺された方が良いと言った具合には脳内を拗らせていた。
恨みなどない。
安心且つ安全である方を選ぶことこそが必要なのだ。

「死ぬと言った行動に関して考えたことはあるか。」

話の筋を折られそんなことを急に話し始めたアクセルに怪奇な顔を送る。
生や死について疎ましそうな人物であると思っていたのだが、それは単なる私の勘違いに他ならなかったようだ、と彼と未だ交わらない視線の最中その唇を読む。
彼の唇は恐ろしい程に無機質で感情を露わにしない。
その声質に怖気付いてしまい、一歩後ずさってしまうのは仕方のないことだ。
しかし私は死ななければならない。
死んでこの苦しみから解放されなくては私の平安は一生訪れないだろう。

「私は生きていたい側の人間だ。
お前のように命を投げ出す静物のような輩の気持ちは分からない。」

「・・・酷いことを仰る。
でも、これは真実です。
生きていたくないとはそれ即ち現世に愛想をついてしまっただけのこと。
だから私は貴方に依頼をしているのです。
自分で死ぬとは殺生極まりない。」

ちらり。
漸くかち合う目は私を捉えて離さず、本を閉じる音が遅れて聞こえて来た。
栞もなにも挟んでいないその本を、立ち上がって空白の残る椅子の上へと置き去ったアクセルは両の手で私の頬を包み込む。
硬い皮膚の下に血が通っているとは思えない程に冷たい彼の手はそれだけで人を殺せそうで冷や汗がたらりと流れ落ちてしまう。
静物であるのは貴方の方ではないのか。
言葉に出来ない声は腹の中を行ったり来たりして気持ちが悪くなった。
ヘテロのように錯誤するその黒々とした声はそれこそ銃弾に使われる鉛の如く蓄積されていく。
私は鉛で死ぬのではない。
それこそストレスと言う名の鬱気で死ぬ、最も楽に人を殺せる代物だ。
これが標的ならば泣いて喜ぶのではないだろうか。
奇しくも、もう私には関係のない事柄である訳なのだが。

「私は仕事以外では殺さない主義なんだ。
労力を使うからな。
それと、なんと言っても罪が増えるのはいただけない。
夢見が悪いんだ。
だから依頼されようが私はお前を殺すことは出来ないが、一つ手伝ってやる事にしよう。」

見下されるこの姿勢はまるで蛇と蛙の関係に似ているが、そうではない。
彼は創造主なのだとはっきり感じた。
作曲家でも画家でも作家でもいい。
彼はそれに類なる者であると直感が肺の間を通り、血管へヘモグロビンと共に脳へ伝達する。
静物などでは決してなかったのだ、と物見える眼球の目の前に親指が当てがわれる。
徐々に強まっていくその力は私の光彩を傷付け、ものの見事に赤黒く染まっていくのだ。
今までに味わったことのない苦痛は完全に私を支配していき、慌てふためく手はアクセルの力む手を抑え付けるがビクともしない。
今までに発した事のない醜い、ギャアァッという花が萎れていくような声が辺りへ響き、いずれそれらは消えてなくなった。
たらり、だらりと恐らく血液であろうものが流れ落ちて行く感覚に震えが増す。
見えない。
ぽっかり空いた穴から指を抜かれ、靴音が私から離れて遠退いていくようである。
呼吸が苦しい。
痛みが蝕む。
垂れた汗と血が混ざってどこからともなく吹いてくる風の冷たさに直面して身体が冷える。
助けを求めなければ、と引き伸ばした手を床へ付き、這いずり回った。
扉へ行着かねば。
風が吹き付ける空間へと手を当てると重心をそちらへ傾けた、その時だ。
ぽっかり空いたその空間は私を包み込む。
謎の浮遊感と、身体になにか硬いものが衝突するぐしゃっ、とした音が耳元へ入って来るなり、動かさない身体はそのまま放り投げ出されている。
なにが起きたのかは分からない。
ただ、私は急激にも眠くなって来たのだ。
奥へ押し込まれた眼はもう機能しないが、それでも瞼は閉じるようになっているらしい。
眠い、寝てしまおうか。
私はもう疲れてしまったのだ、といつ覚ますかも知れずそっと、生暖かい湖へ身体を預けた。


オマケ

他殺された死体が出て来たらしいその現場へ足を運ぶと、珍しい客に出会した。
あまり話したことはないものの仕事仲間であるアクセルへ挨拶を施す。
アクセルは私に少々の返事を返すと、その死体を見物しに行くと言いだした。
彼も物好きなものだ、となんの変わりもない両手をぶらぶらと垂れ落としながら歩く姿をやや後方より眺めつつ私もその死体の元へと悠長に歩みを進めた。
検事やらなにやらで群がる人々の間を通り抜けながらも目を落とす先にはなんと同僚の姿があったのだ。
別段驚きはしないものの、これは報告書を提出するだけの無駄な仕事が増えてしまった、などと頭の片隅で思い浮かべながら静かに息を吐き出した。
隣の男はなにも言わずただじっ、とその死体へ目を向けたままだ。
なにをしたいのか分からないが、本当に単なる死体を拝みに来ただけなのかもしれないと思えば私にとってはどうでも良い。
取り敢えず、目が空白になっており、飛び出した眼球が惨めの塊であるその他殺には悪意は感じられない。
なにせ、死体の口角は上がったままだからである。

「仲が良かったんだろう?
何回かアイツがアンタと話しているのを見掛けたが。」

感情のない声で私へと投げ掛けてくるアクセルはどういうつもりなのであろうか。
果たしてそれを聞いてなんの得があるのであろうか、と思ったりもするが応えない訳ではない。
世間話には相槌なりとも送るものだ、と口を広げた。

「仲が良かった訳ではありませんよ。
ただの世迷言が過ぎなかっただけです。
ただ彼女が死んで仕事が増えたな、と思うだけですね。」

私の応えを聞いても表情も性質も変わらない無機質な男は寒空が覆う空の下で確かに息をしていた。
彼女は死んでいると言うのに、死んでおかしくもない男が生きているなどと、これこそ皮肉である。

「生はモラトリアムだ。
死に付きまとわれているが、それでも私は平和に暮らしたい。
愚かな静物と違ってな。」

口に出していなかったが、そう割れた唇からそんなセリフを繰り出すこの男は一体誰に向けての言葉だったのだろうか。
背を向けて立ち去っていくその姿を見ると、袖口に赤色を灯した物を見付けてしまった。
あぁ、そういう事なのか。
今や死人に口なしの彼女から真実が語られることはないが、私の見解が正しければ彼女は自殺したに過ぎない。
なんでもない世の常だった。





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