さらっ、と水の音が聞こえたのは晴れの日の午後のことであった。
上等な丸いテーブルの上へと頬を擦りつけながら数時間前に差し出された書類の数々を踏み躙っていれば傍を軽い音響が鳴り響く。
彼女か、と目を閉じながらも未だ流れ落ちる色の付いた水が音色を奏でている。
耳に心地良いが、きっと彼女はこの音は嫌いであるだろう。
書類に付着する汚れが気に入らないのだ、と重くなってきた瞼を力尽くで上へ持ち上げた。
起き上がって姿勢正しく座り直しながらも彼女を見れば案の定顰めた顔を晒している。
そんな顔をしていても、やはり彼女は美人であった。

「書類を汚すな。」

「これは失敬。
しかしこうしなければ私は生きている気がしないのだよ。」

「生よりも死よりも仕事を選べ。」

どろりどろりとテーブルを巡回していく赤い血液はまるで私の体内を彩っているかのように巡り巡っている。
だから赤い染みが紙の上を走ると更に彼女の顔は曇る一方であり、私は私の仕出かした過ちにより彼女を困らせているのだと、そう考えるだけで諾々とした嬉々が、土の下から水が湧くように浸していくのだ。
彼女の表情を見たい。
鬱々とする歓喜に身を捩らせてふらふらとする千鳥足のまま彼女へ近寄る。
私にとって、仕事は二の次だ。
私の最優先は彼女から始まるのだ。

「仕事一途な君が私は大好きさ。」

「私はそんなお前が一番に嫌いな世界だ。」

私よりも高い彼女の身長に合わせて言うことのきかない足を上へと引伸ばす。
無理矢理引き伸ばした腱が引きちぎれそうな程にギチギチと軋みを発しているが気にすることはない。
しかし、と、そのまま切れてしまえば果たして彼女は私を看病してくれるだろうか。
いいや、彼女の事だ。
私の怪我への始末書の製作に取り掛かるのだろう。
彼女にとって私はのけ者に過ぎないのだ。
あぁ、そうであったならば、私は更に彼女に欲情してしまう。
蔑みを、嫌悪を、浅はかで外道でも見るような視線を私へと向けてくれ。
その要望に私はそれら全てを叶えてみせよう。
私はこの世の汚物よりも更に汚いハイカラさを身に纏って、貴女の付属品として人生を全うしたい。

べちゃり。
生暖かな水が敷かれた絨毯を滑っていく。
堕ちていく左手を彼女の艶かしいふっくらとした唇を濡らしていく。
赤に塗れていく彼女はまるで死化粧を施した花嫁のようだと、そう思った。

「君はそれでいてくれ。
私を恨んでいる姿が、とても美しい。」

彼女の左手を持ち上げて耳元へ当てる。
私の音とは違い、彼女の血の流れる音は無機質そのものだった。





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