夫が女と駆け落ちした。
その女は私の知らない、美しい女性であった。
夫は長年連れ添った妻の事など、跡形も綺麗に、さっぱりと捨て置き、その艶美溢れる彼女と何処かへ行ってしまったのだ。
その事に気付いた私は夫の書き残していった駆け落ちを目に止めながら放心状態であり、また、私への未練がまだあるのではなかろうかと焦燥の念が募っていくばかりだ。
そうなるといてもたってもいられず夫を当ても無く捜しに両脚を、それは只管に動かした。
普段走り慣れしていない身体を動かしつついつもの背中を思い浮かべ、東奔西走して街中を這いずっていたが、それでも見つからない夫の姿に両目からとうとう涙がたらり、たらりと一つ一つ落ちていく。
視界が濁ってきたその瞬間に、私の右半身に当たる凄まじい衝撃は痛みを伴うものであり、動かなくなった私の身体はぽーん、と宙へ放り出された後に酷く地面へ叩きつけられてしまったのだった。
滲む視界の先は、去って行く車の跡が残っていた。
力も尽きかけた私の体力は泥沼と共に沈んでいく他なかった。



次に目を覚ました時には包帯で覆われた頭やら腕やらが横たわっている場面に行き着く。
まっすぐに捕らえられた視線の先には白色が広がっているばかりで、ここが病院だと気付いた頃には痛みが全身を覆っていた。
そう言えば車に跳ねられたのだ、と思い起こしてみれば更に涙が溢れて来る。
何故私は死ななかったのだろうか、そういう疑問が私を支配し、どうしようもなくなり、動けず仕舞いの四肢になんとか力を入れて窓の縁まで惨めにあんよしていた所をいつの間にか部屋に入ってきていた看護師に止められてしまい、死ぬことは許されなかった。
辛い現実に夫の容姿が浮かぶ。
何故人生を共に歩んできた伴侶に裏切られなければならないのか、と精神が気が気でなくなった頃に私の治療を担当したドクターが「君を見舞いに来てくれる方もおられるのだから死のうだなんて考えるんじゃあないよ。」と諭してくれたところではた、と病室に飾られた花束に気付く。
一瞬夫が私を心配してくれたのかと思っていたがどうも周りの看護師達の口に出す情報によると、見舞い客は女性らしい。
それにその女性は見舞いをしに花を添えてくれるだけでは無く、私の入院費も払ってくれているのだと言う。
自分の知り合いの女性を思い浮かべるものの、該当する人はいない。
私は元より友人が少ないのだ。
そして夫と此処へ訪れたのは最近の事であり、友人は何千キロも離れた遠くの土地にいるのだからわざわざ見舞いに来ることもなければ、金銭をドブに捨てることもしない。
だから、そんな女性がいるとなれば会っておきたいと、心の底から思うようになり、自殺をする日数は日毎に伸びていく。
早くこのお礼とお詫びをしたくてたまらないと言う程であった。



とうとう退院する日も訪れた。
例の女性の居場所はあっさりとドクターから明かせられ、その住所を頼りに恩人の元までの道のりを歩んで行く。
緩やかに並ぶ街並みの中には暖かさもあり、あの人と過ごした記憶が蘇ってきそうで顔を伏せたくなってしまう。
私の目的は今は恩人捜しなのだから夫のことは関係がないと、出来るだけ目線を下に向けて足を運んでいった。
紙上に浮かんだその人が住む家まで辿り着くのにそれほど時間は要しなかった。
息も上がらずの距離に位置したその扉をノックする。
そうすれば間髪入れずに開かれた先にはやはり、と私の知らない人であり、陰のある未亡人と言った風貌のある人物であった。
思わず見惚れて固まってしまった私にその女性は表情一つ変えず、「名前さんですね?」と語りかけて来た辺りで緊張がやんわりと解かれる。
何故この人が赤の他人である私なんかにここまで尽くしてくれるのだろうか。
親切な人である、世の中そう上手く出来ていない事など分かっているハズなのに、私はこの初めて対面した女性を信頼しようとしている。

「怪我はもう大丈夫みたいですね。」

「えぇ、貴女のお陰でもうすっかり。」

微笑みの一つもないその女性は私を屋内へ導くと共に、まるで、私が今日来ることなど分かっていたかのようにお茶やお茶菓子などをすっ、と出しては優美に言葉を連ねる。
言葉が交わる度に彼女の人生も囁きに似て私の耳に入ってくる。
彼女もまた、私と同じく夫が駆け落ちして独り身なのだと言う。
そこまでの経緯を詳しくは教えてくれはしなかったものの、私はそれだけの共通点で彼女の家に少しの間居候させてもらう事になった。
彼女とは話も合い、毎日が楽しくなっていくようで、以前なくしてしまった笑顔もしっとりと取り戻せるようにもなった。
それでいても、やはり私の胸にはあの人がいて、どうにもやるせない気持ちになり夜は泣いて更けていく。
それでも隣には彼女がいて私を慰めてくるのだ。
ベットの縁に腰掛けてくる彼女は、月に映る女神よりも美しく、陰鬱に輝いているように思う。
耽美だ、と歪む視界の端で「男と言う生き物は本当にどうしようもなく愚かで、女を亡き者にするんですよ。あさはかで、厭な下等生物なのだと、そう思いませんか。きっと、貴女を轢いた輩は旦那だった男でしょうね。」なんて言うものだからすっかりその気になってしまった私の夜は今日も寝かせてくれやしない。
そのまま朝を迎えてしまった暗闇のまま、彼女は私のことなぞどこ吹く風で、何処かへ出掛ける準備をしている。
いつの日か見た、見覚えのある服を見に纏い、「遠出してきます。」の一言を添えて、彼女はつい10日程、私の側から離れて行った。

彼女がいなくなると身体の内側がもぞもぞと悲鳴を私に押し付けてくるのが難点で、手にはナイフを持つのが日課になるようであった。
夫を奪ったあの女を恨めば良いのか、それとも私を見放した夫を憎めば良いのか、私には分からない。
だからじ地面に落ちた葉っぱを只管にひた刺していくしか術はないのだ。
一人の時間は心が荒む。
考えることが増え、それに自問自答を重ねる彼女のいない日数の分だけ、誰かを殺す私のおぞましさを、誰も知らないのでしょう。
怒りの湧き出る湖に脚を沈める私の姿は誰の目にも止まることはない。
心の節目のなんでもない憎悪を空想の中の相手に押し付けることが酷く私を癒して止まないのだ。
安らぎに飢え、あの人と、あの人の隣に今もいるだろう女性を殺してはまたあの人を想う日常に戻ってしまう。
それを繰り返すだけの、一人に悲哀が拘束してくる息苦しさに溺れる。
しかしその一人の生活も今日で終わりを告げるのだ。
彼女が帰って来る10日は明日の朝らしい。
朝にはまた彼女との二人の刻を過ごせるのだと思えば心は軽やかにもなることだろう。



夜半、やはりと言える程に眠れず、夜が過ぎていくのを待つばかりである。
寝苦しく、胸に抱いたナイフを弄り、汗で張り付く髪の毛を頬から退けて、何もない空間をじっとりと見つめた。
夫は帰って来ない。
これからも、ずっと後にも、彼は私の事など片時も離れなかったあの日の事さえ忘れ去って、新しい女と蜜時を共にするのだろう。
眠れない。
瞼の裏側の言い知れぬ闇だけが纏って来て気持ちが悪くなった。
水を一杯飲みに行こう、そう決めてベッドから足を下ろすのと同時に明るくなるカーテンの向こう側。
ちらりと覗いてみる。
そこには私の身体を跳ねた、あの日の車がこの家のガレージに滑り込んで来ていた。



「おや、起きていらっしゃったのですか。」

「えぇ、貴女のお陰で。」

おめかしの取れた彼女のすっぴんでも、やはり美しく、私が底へ落とされる感覚に陥る。
血色の悪い不健康そうな唇がまた色気の一つを曝け出しているのが恭しく、力を込めてしまう指先に握られる柄のふてぶてしさに足が震えた。
後手に隠してあるから、きっと彼女からは見えないだろう。
私の嫉妬の具現化した存在である鋭利な刃物は私以外を映していないのだ。

「貴女が、私の夫を奪ったのよね。」

震える声で突き刺してみても、傷は浅く、彼女の漆黒の目からは動揺の一つもない。
一つに結った髪を下ろし、綺麗な艶を施した金糸の髪をその細い指に絡めながらふぅ、と一つため息を溢していた。
悪びれた雰囲気もなく、また、それが当然であるとでも言うかのようにいつもの彼女は私に迫り寄って来る。

「ええ。奪りました。でも、それがなにか。」

「私は貴女が憎くなりました。
私は夫の事が今でも好きなんです。
それなのに、貴女は私の夫を奪い、私を轢いて、同棲生活に舌鼓を打っていた貴女を許すなんて、到底出来ません。」

隠していたナイフを彼女に突き付ける。
緊張と憎さで照準が定まらないナイフの先を彼女は一目たりとも見ずに、壁に掛けられた鏡に自分を照らして手櫛で髪を整え始めた。
私の気持ちを知らないでなにを仕出かすのだろうか、その社会不適合な振る舞いに思わず、カッと頭に血が昇る。
呼吸もままならず、怒りしか顔を覗かせないそのナイフの先端を見せ付け、彼女に向かい振り翳すと、彼女は避けるでもなく、また焦りも驚きもしない。
ただ淡々と言葉を口にするだけだった。

「本当に私が憎いのですか。」

「えぇ、えぇ、そうです。その通りです。」

「旦那を奪った女よりも、貴女を信頼せずに裏切ったその男の方が憎くないのですか。
人生を共にすると誓い合った仲であるのに、あっさりと他の女に着いていった、そんな男を許せると言うのですか。」

「本当に殺すべき相手は、貴女の旦那でしょう。」と動きの止んだ私の身体にすらりと伸びる腕を絡める彼女の体温がないこと。
人間であるのか疑わしい彼女はもしかすると悪魔であるのかもしれないと、冷や汗が流れる皮膚を撫で上げられ更に硬直してしまった。
耳に囁きかけられる「貴女の夫、今、外にいらっしゃいますよ。」の羅列に頭が揺れ動き始める。
貴女はきっと、私を躍らせて楽しんでいるに違いないのだわ。
そう言えたらどんなに楽な事であるのか、心が救われず、緩む事のない指先が外を向いた。



「お気分はどうですか。」

そう尋ねて来る彼女の声が発せられたのは、服にべたりと付着した血に塗れた私に向かってであった。
愛する人をナイフで何度も横刺しで貫いた結果の末路である。
助けを求めて来る夫の声はそれはもう久しく聞いていないもので、一瞬、誰のものであるのか頭が追い付かない程であった。
呆然とその死体を見つめ続ける私の肩にブランケットを掛けて来る彼女は、私の元夫を軽く蹴り上げて漸く、この三ヶ月間見せもしなかった笑みを浮かべ、私の目を見て、こう侍らせるのだった。

「貴女ももうこちら側ですね。」

彼女は恐ろしい悪魔であった。
血に塗れた私を風呂へ入れている間に、私が殺した男の死体を跡形もなく消し去ってしまった。
男の行方は今も知れず、その後も私はこの女と共に生活を続けている。
机上に置かれた赤黒く染まったビーフシチューはまるで、私の罪であるかのようにみせしめながら彼女は今日も表情を硬く変えず、冷たいシチューを、まるで血の気のない唇で啜るのであった。





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