エジプトがいつものように晴れているのが最早日常と化し、そして私が屋敷内の清掃に励んでいるのも当たり前になって来た頃。
床に落ちている塵を拾って、水を含んだモップで磨いていると、私を呼ぶ声に顔を上げた。

「テレンス様。」

手を止めて身なりを整える。
なんのお話だろうか。
ゆっくりとした行為から急ぎではないことが伺える。
普通に話していても聞こえる距離にまで近くなった。
耳を傾ける。

「リーシャ、少しよろしいですか?」

「はい。
どこか不具合でも?」

「いいえ、違いますよ。」

ふふっ、と軽やかに笑い否定を述べたテレンス様に小首を傾げる。
では一体なんなのだろうか。
部屋に磨き残しがないわけでもない。
お風呂にはまだ時間がある。
ケトルへの火は止めた。
他になにが残っているだろう。
思い浮かべてあっ、となった。

「街へ行って買い足ししてきてくれませんか?」

やっぱり、と首が成る。
でもこの間買ったばかりではなかったかな、とまた唸るが考えても仕方が無い。
きっと他の買い出しなのだ。
野菜や、肉とか。
はたまた雑巾や洗剤などの日用品かもしれない。
そう考えるとまだ足りないものがあったような気がして表情が強張る。
あぁ、気が利いていなかった。
内心反省していたつもりが表に出ていたようでテレンス様が苦笑いを浮かべている。
すいません、そういうつもりではないんです。
声に思わず出すのは長所か短所か・・・。

「では今から言うものを買ってきていただきたいのですが、口頭で構いませんか?」

「はい、本当すいません・・・。」

「いえ貴女の責任ではないですし、なにより急なものなので。」

そう言って買う品物を次々と言い出していく様はどこかのまじない師のように長く、聞いた限りでは4、50個はあるのではないかと思う程の数の量だった。
お金を渡された瞬間に一人で持てる量ではないからどういうルートで買っていくかに迷う。
ぼやぼやしていたらスリに遭う危険性もある。
気を付けて計画を立てなければ、そう悩んでいたらテレンス様が思い出したように声を出される。
言い忘れかなと覚える準備をしていたのが間違いだった。
聞きたくなかった言葉が耳をまっすぐに通る。

「一人では大変でしょうから誰か連れて行くと良いでしょう。
そうですね・・・。
ヴァニラはどうでしょう?
いや、ヴァニラが良いですね。
そうですね、ヴァニラにしましょう!」

「あのっ!?」

「では早速呼んで来ますので支度をしておいてください。」

早口で伝えられた私は呆然と立ち尽くす。
今日は厄日だ。
不機嫌なヴァニラ様が脳裏にちらつく。
お金が入った財布を握り締めてため息を吐いては心臓が早く動く音が耳元まで届いた。
深呼吸を何度か繰り返して取り敢えずは、とモップを片付ける。
手を洗い、再度身なりを正して顔を上げて前を見た。
最低1日一回。
顔を合わせるヴァニラ様と今日街中を歩き回る為に一緒にいなければならない窮屈さに私が耐えられるかが試される。
多分無理だ、と指を組んで力を込めた。
落ち着いて無心になれば人間どうとでもなると誰かが言っていた気がする。
壁と向き合って幾度となくため息が漏れるのは仕方が無い事だと思いたい。

「なにをやっている。」

響く声は後ろから。
気配もなにも感じず、反射的に肩が上がった。
そろりと振り返れば仏頂面なヴァニラ様がかなりの至近距離で立っており、声にならない声が喉まで出かかる。
我慢をしてそれを飲み込み、頭を下げた。
この時点で心臓ははち切れそうな勢いだ。

「き、今日は大変ご足労をお掛けします。」

「そんなのはいい。
早く行くぞ。」

短く簡潔に言われ、前を歩くヴァニラ様の後を慌てて追いかける。
息が詰まりそうな重い空気をひしひしと体に受け止めながらも歩いていく私を自分で褒めたい。
清々しい天気なのに私の心は気が気でないからだ。
息苦しくなってきたように気もするから非常に冗談でもなんでもない。
早くこの時間が終わればいい、と暗示を掛けていく程に私は追い詰められていたといっても過言ではなかった。
目線だけを上へやれば広い背中は随分前へと突き進んでいた。
あぁ、はぐれてしまう。
瞬時に足を早めてみても今は昼時。
人口は多く、中々進めない。
漸く指も解いて人中を掻き分けるよう進んでみてもまるで進まず、人々へ当たっていってしまう。
もう間に合わない、伸ばしかけた腕を下ろそうとした。
すると、瞬時に誰かに手を取られる。
大きな手が優しく包むようにやんわりと、私の手を掴んでいるのだ。
はっとして見てみれば目の前にヴァニラ様がいた。
いつの間に、と思ったのと同時に腕を引かれる。
それもやはり優しく感じた。

「はぐれるな。」

一言呟けば先へどんどん進んでいく。
それから目的の場所に着いても手は繋いだままで移動を繰り返しながら頼まれた物を買っていく。
荷物も店員さんから受け取ろうと腕を伸ばせばヴァニラ様が横から何も言わずに取っていった。
さすがにそれはまずい。
私は急いで口を開く。

「ヴァニラ様、恐れ多いです!
荷物は私が持ちま、」

「黙れ。」

そう言われ結局荷物は私の手に下りる事はなく、ヴァニラ様が全て持っている状況に陥ってしまった。
何度私が言葉を零してもヴァニラ様は聞く耳を持たずだ。
行く先々の店で購入した物はヴァニラ様の手に収まっている。
私の手を握りながら大量に荷物を抱えるヴァニラ様は凄く器用で、私は感心してしまった。
スリに遭うことも、もたついてしまい定期時刻を過ぎることも何事もなく屋敷へと辿り着いた私たちは依然として手だけはそのままだ。
買ったものは机に下ろしてもうお使いも終わったというのに、私は捕まったままだった。
もう何時間も前から羞恥に耐えきれなかった私の顔は真っ赤であり、治っていない。
早く仕事に戻らなければ。
どうにかなってしまいそうな胸を空いた手で抑えた。
恥ずかしさから下を向いた際に髪がぱらりと横を掠める。
結い方が甘かっただろうか。
ふとそんな事を考えた。

「あの、ヴァニラ様、今日は大変ありがとうございました。
なにも手伝っていなかった私がこう言うのもなんですが、凄く、助かりました。
本当に、ありがとうございました。」

深々と頭を下げて感謝の意を込める。
見下ろされる感覚にどぎまぎするが、これだけを言えて満足する自分もいる。
ほっ、と息を吐けた。
それで充分だった。

「後ろを向け。」

「えっ?」

突然言われた言葉に勢いよく頭を上げて聞き返してしまった。
ヴァニラ様の表情はやはりいつも通りで変わらない。
それで息を飲む。

「後ろを向けと言ったんだ。」

「はっ、い!」

低い声に体が震えて慌てて背中をヴァニラ様へ向けた。
視線が刺さるのを気にしない為に目を瞑る。
不安と緊張が私を支配する中で、ヴァニラ様は私の髪をおもむろにすくい取り髪留めをも外す。
髪が横に広がる感覚を味わい、肩に力が篭った。
頭のてっぺんから髪先までを指で軽く梳かれるのは人生で初めてだけれど、それが凄く心地良い。
肩の力は弱まり、リラックスまで出来るほどに安心した。
一通りその行為が終わると次は髪を束ねられる。
丁寧にゆっくりと動作は行われ、実質数分間しか経っていないのが数時間にも感じられた。
それ程の心地良さだったのだ。
目を開けてみても緊張も不安も取り除かれていた。
既にその頃には手の暖かさはなく、その代わりに束ねられた髪がいつもより綺麗に出来上がっていた。
そっと髪に手を伸ばしてみれば、自分が使っていた髪留めではなく、真新しいリボンになっており驚いて後ろを振り返りヴァニラ様を見る。
平然としたヴァニラ様が瞳に映った。

「ヴァニラ様、これは・・・。」

「お前にやる。」

一言しか返事は返ってこなかったが、素直に嬉しかった。
本当は使用人が物を貰ってはならないが、こればかりは拒否したくなかった。
口元が緩んでいくのをどうか今だけは許してほしい。

「ヴァニラ様ありがとうございます。
私、本当に嬉しくて・・・。
あの、この髪留めをこれからも使い続ける事を許していただけますか?」

もう一度髪留めに触れる。
もう我慢出来ずに嬉しさが全面へ押し出された。
マヌケな顔になっていても今は気にしない。
私はそこまで舞い上がっていたのだ。

「好きにすればいい。」

「っ、ありがとうございます!」

ヴァニラ様は背を向けてその場からいなくなった。
私は早速鏡の前に立ち、自分の髪を見つめた。
濃い青をしたリボンは綺麗で、思わず魅入ってしまう。
時間をかけて結われた髪も手に取ってみながらヴァニラ様の手つきを思い出しながら一人顔を赤くする。
もう一度だけ、叶うならまた結っていただきたい。
心に零せばカツンと響く音。
鏡越しに見れば本日初めてのマライア様を見る。
マライア様は私に近付きながら髪留めを一瞬ちらりと見て、私を後ろから抱擁する。
体が固まりながらも抵抗はせずにいれば、やがてマライア様は口を開いた。

「誰から貰ったの?」

「ヴァニラ様から・・・。」

照れながら名前を口に出す。
マライア様はにやりと、したり顔のまま言葉を続けた。

「バレンタインで貰えるなんて羨ましいわね。」

マライア様の一文が脳内を駆け巡った。
バレンタイン・・・。
そうマライア様は仰った。
カレンダーに目を向けつつ、今日がなんの日かを思い出す。
2月14日。
一気に熱が全身を襲う。
たまたま、ヴァニラ様からプレゼントを貰ったに違いない。
そうだ、きっとそうだ。
今日の買い出しにしろ全て偶然だったのだ。
そうに違いない。
そう言い聞かせるのがやっとで、よく回らない頭でどうにかこうにかマライア様から離れる。
マライア様は相変わらず楽しそうに微笑んでいる。

「し、ししし失礼しままままっす!!!」

バタンと部屋を飛び出して小走りに自室を目指した。
気のせいだとしても、恥ずかしい。
顔の赤みは取れず、熱さも引かない。
落ち着くまで部屋で休ませてもらおう。
そうやって自室前。
あとはドアノブを捻ればいいだけ。
本当にそれだけだったのに、ドアを開けることを突然現れた手によって阻まれた。
その手は素早く私の肩に置き、自室と反対の方へ体を向き直される。
そしてしなやかに肩から頬へ移るのを肌で感じた。
目の前の相手は変わらず仏頂面だ。

「忘れものをした。」

近付いてくる顔に急いで目を閉じた。
優しく触れる唇は角度を変えながらも私のを食んでいく。
何度も何度も、それを繰り返し、たまに口を吸われ、を長い間されていたように思う。
漸く唇が離れたと思うと最後に瞼に熱が降って来る。
恐る恐る目を開く。
頭を一撫でされた。

「よく似合っている。」

これで本当に、最後と言わんばかりに髪を一房手に取り口付けされてヴァニラ様は去って行く。
放心状態から我に返り、自室へと入っては寝具に横たわる。
先ほどの事を思い出し、唇へ触れた。
感触が未だ残る。
あぁ、寝れそうにない。
火照る熱は冷めないまま、両手で顔を覆った。
恐怖心がなくなったのは今ばかりか。
暫くヴァニラ様の事しか考えられないかもしれない、と自分の心に覚悟して瞼を閉じた。





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