『桜の下に死体が埋まっていると聞いたことがある』 「そんなものでたらめだ」 『その血を啜っているから桜は綺麗なのだと、ね』 「そんなわけあるか。桜が人の血を啜る?馬鹿が」 有名な話を冬雨は話始めた 桜の下の、死体の話 まったく現実味のない話に、私は呆れる 『その下の死体は幸せ者だね。ああ、もう死んでいるのか』 「何故そう思う」 『自分の血を啜られて、桜が綺麗になるんだよ?』 「この上なく不快ではないか」 『三成は馬鹿だねぇ。自分で桜が綺麗になるなら、嬉しいじゃないか。人に綺麗な桜を見せてあげられる。死してなお、人の役に立っているのだよ?』 こいつの感性はよく分からない というか、分かりたくない 死してなお人の役に立つ必要がどこにある 死人は死人らしく、あの世でニコニコと笑っていればいい 笑えない奴など知らないが 『まあ、僕が下に埋まったら、その桜は間違いなく枯れるだろうけどね』 「人の血を啜るのだろう?枯れはしない」 『僕のような病持ちの血を啜ってもみたまえ。その桜も可哀想にねぇ』 「なら貴様の死体は桜に埋めてやる」 『ふふっ………それは断らせてもらおう。折角育った桜が可哀想だ』 どうせなら、最後まで美しくいたいだろうしね 桜はいつまでも綺麗だから人に愛でられるのだ 美しく、綺麗でない桜を誰も愛ではしない だからこそ、冬雨は桜をこうも愛で、羨むのだろう 何百年も、生きていられるから もう消える自分と違い、生きる 一度咲いた花弁は散ればそこで終わる 冬雨は、それとまったく、同じなのだ |