暇さえあれば近所の公園に遊びに行っていた。
そこに居ればその内シゲくんや律くんがやって来て、そこにツボミちゃんも加わって皆で遊ぶのが日常だった。


--「……何だろアレ」


いつもの公園に一番乗りした私は、見慣れない遊具に足を止めた。
遊具、だと私は思った。
タイヤに似た黒いゴムのような大きな塊が、鉄棒の横に鎮座している。
昨日まではなかったそれに興味を持った私は首を傾げて近付く。

溝のない表面で、ぶにぶにとした不思議な弾力に掌が返ってくるのが面白くて、体重を掛けてそれに飛び乗ってみた。
ばいん!と見た目以上に反発して私の体が浮き上がる。
まるでトランポリンのようで、数度繰り返してぴょんぴょんと跳ねるのを繰り返した私は「何コレ楽しい〜!」とキャハキャハ笑った。

その途端、ゴム毬のようだった表面が急に水のように変化して私の体を飲み込んだ。
突然私の体を跳ね返していた物体に沈み込んだ私はパニックになって、必死に腕を振り上げ藻掻く。

声が出ない。
息が苦しい。

縋る物を手探る指は虚しく水を掻くばかり。
私が腕を伸ばすとその分私が沈んでいくようで、黒い水越しの光が遠のいた。
ゴポリと水音が不吉に響いて、私の肺を冷たく満たす。
指先から力が抜ける。
視界が霞んで、意識に靄がかかった時、キラリと強い光が遠くで見えた。


--「ゲホッ!!ゲホッ、ケホッ……ッハァ"……!」
--「おなまえちゃん!」
--「……ィゲ、…く……っ、ゴホッゴホッ」


急に視界が明るくなって、篭っていた聴覚が近付いてくる砂を踏みしめる音を鮮明に拾う。
温かな日の下に投げ出された体がふよりと宙に浮いて、緩やかに地面に降ろされる。

水を吐いて解放された気管が必死に酸素を取り込んだ。
自分に何が起こったのか訳もわからないまま、恐怖からなのか安堵からなのか勝手に溢れてくる涙が、私の側に駆け寄ってくれたシゲくんを歪めてしまう。
泣き喚く私の背中を、「大丈夫、もう大丈夫だよ」と戸惑いながらも泣き止むまでずっと摩り続けてくれる手が、声が、凄く優しくて。


それ以来、シゲくんはずっと私の中でたった一人のヒーローだった。
この気持ちは、律くんが彼に向けているような憧れの感情だと思っていたけれど。


--「え……。シゲくん、ツボミちゃんが好きなの?」
--「う、うん……内緒に、しててね」
--「好き…………そう…、そっか…。…"好き"だったんだ……」


彼がツボミちゃんを好きだとその口から聞いた時、今まで幸せに高鳴っていた私の胸が急に痛み出した。
その時ようやく私はこの気持ちが恋慕だったことに気付いて。

私の恋は、自覚したと同時に儚く散った。


---


「ねえおなまえー!最近上の空だぞー」
「うん……」
「なぁに?模試でC判定でも出た?」
「うん……」
「ねえってばー。……あ、影山君だ」
「何処!?」


ぼんやりと教室の外を眺めて物思いに耽っていた私の耳に"影山君"というワードが鮮烈に飛び込んで来て、クラスメイトのランの方を向く。
けれどそこにあったのは私が求めている方ではなくて--こういうと律くんには申し訳ないんだけど--、たまたま反対側の校舎の廊下を歩いている律くんだった。
明白あからさまに肩を落とした私に、ランは「間違ってないじゃん」と揶揄うように私の背を叩いて笑う。


「そうだけど」
「ごめんごめん。…まだ告ってないの?」
「…………」


への字に口を曲げた私にランは「拗らせるの良くないけどなー」と事も無げに言ってみせた。
生憎と、この気持ちはもう拗らせているのでランの助言は役に立たない。


「言えばフラれるのがわかってるのに、言えるわけないじゃん…」
「……何事にも順序ってのがあってね。フラれたら辛いけど、その内諦められるもんなんだって」
「やめてよ」
「さっさと当たって砕けた方が楽になれるのに」


「辛くて苦しい時間が長引くだけだよ」と頬杖をつくランに、悪気はないのはわかっている。
けれど私は、楽になりたいんじゃない。


「……諦めたく、ないんだもん……」


言えばきっと、シゲくんは"私の気持ちには応えられない"と答えるだろう。
そうしたら、私がシゲくんを好きで居続けることは彼の負担になってしまう。

彼を好きでいたい。
今の親しさ以上を求めればそれが叶わなくなるんなら、私は今のままでいい。
現状維持なら、誰の迷惑にもならないんだから。

小さく呟いた私の声はランに届いたろうか、彼女は溜息をひとつ吐いて首を横に振った。


---


受験だ進路だ、と限り有る青春の中で日に日に鬱屈していく私を見かねて、ランが「連れて行きたい所があるの」と、わざわざ放課後に着替えてから待ち合わせをした。

着替えてまで行くような場所って何処なんだろう。
プリクラでも撮るのかな、確かに制服でゲーセンは指導されちゃうし。
でも今プリ撮る気分じゃないんだけどな。

そう私がうだうだ考えている間にもランはずんずん進んで行って、「此処ー」とひとつのビルを指差す。
何の変哲もないビルなんかに何の用だろう、と見上げる私の目に"霊とか相談所"という看板の文字が入り込んだ。
思わずその文字を口にすると、ランに手を引かれる。


「恋愛も相談できるってよ。ミキが先輩の相談乗って貰って、上手くいったんだって」
「え"。マジ?入るの?」
「私の言葉じゃその気にならなくても、第三者の視点なら何かしら進展するかもじゃん」
「えぇ……」


--進展、かぁ……


まさか私の用事になるとは思っていなかった。
迷いない足取りで階段を登るランにつられて、例の相談所の扉をくぐる。
狭い玄関口で立ち止まり、「すみませーん」というランの声が未だに踏み切れないでいる私の頭の遠くで聞こえた。


「はい。すみません、師匠今マッサー…除霊中で……」
「あれ?影山君?」
「!?」


不意に蟠っていた意識が耳に集中する。

私が、この声を聞き間違える訳ない。

つい反射的に、ランの背中から顔を出して前を見た。
私の思った通り、シゲくんが学ランのまま此方に向いて立っていて、「知り合いでしたか?」とランに首を傾げていた視線が私に向けられた。


「あ、おなまえちゃん。そっか、おなまえちゃんの友達だったんだね」
「初めまして!色々聞いてて一方的に知ってました、ランでーす」
「ちょっと、余計なこと言わないで!」
「? 初めまして」


ランの言葉に冷や汗をかきながらランの服を引っ張る。
ゆさゆさと私が引く度に揺れる体を気にもしないで、「何で影山君はここに?」とシゲくんに話し掛けた。
それは私も気になるので、揺さぶる手を止めてシゲくんを見る。


「えっと……アルバイト……?」
「へえー………うちらってバイトいいんだっけ?」
「色々あって、師匠の助手…でいいのかな。やってるんだ」
「ふーん」
「あ。じゃあ、師匠ってことはその人も不思議な力を持ってるの?」


霊とか相談所って掲げているし、今除霊中だそうだし。
シゲくんが師匠って呼んでいるってことはきっとそうなんだろうと思ったのに、私の質問にシゲくんは「うーん…」と言い淀んでいる。
心做しかその顔に猜疑心の様な物が見える気がして、一抹の不安を覚えた。


「でも力の使い方を教えてくれたし、相談相手としては良い人だよ」
「…そうなんだ」


シゲくんが言うなら、信用できる人なんだろう。
そこにはホッとしてランを窺った。


「どうする?……か、帰る?」
「まさか。ねぇ影山君、その除霊終わるまで待ってても良い?」
「や…やめようよ……」


食い下がるランに必死に目配せをする。
だって、もしその師匠という人が除霊を終えたとして、恋愛相談をしてもその脇にはシゲくんがいるのだ。
そんな、本人の前で悩みを打ち明けるなんて出来ない。心臓が足りない。

私の必死の祈りが届いたのか、シゲくんからは「でも師匠、ついさっき除霊に入った所だから……あと30分は待つと思うよ」と、何やら価格表のようなものを片手に時計を見上げながら声が上がる。


「んー。じゃあ適当に時間潰してから後で来るね」
「えぇっ、やめないの…」
「腹括りなって。じゃあ影山君、また後でー」


ポンポンと私の左肩を叩いて、ランはシゲくんに「また来る」と告げて出入口に向かう。
また30分後に此処に来るのか…と気が重くなる私に、シゲくんが心配そうな顔をして私を呼んだ。


「おなまえちゃん」
「はっ、はいっ!なな何…?」
「……特に、悪霊とかは憑いてなさそうだけど…大丈夫?具合悪い?」
「悪霊……あっ、ううん。大丈夫、何か変なのにはもう遭ってないし」
「そっか。何だか元気が無さそうに見えたから」


「気のせいなら良かった」と微笑んでくれるシゲくんに、きゅうと胸がいっぱいになる。
心配されたのが嬉しくて、つい顔が緩んでしまう。
そのまま憂鬱だったことも忘れて「また後でね」なんて私まで言ってしまって、閉まるドアの音で我に返った。


「……約束してしまった……ッ、行くつもりなかったのに……」
「青くなったり赤くなったり忙しいねー。良かったじゃん、少しでも喋れて」
「それは……そう、だけど」


思いがけず心配までして貰えた。
寧ろ得だったような気までしてくる。


「言ってやりゃー良かったのに。"アナタが好きすぎて元気が出ないんです"ってさ」
「そんな、シゲくんのせいみたいに思ってない。これは……私の問題なの」


ほんの一瞬の会話で、トクトクと早く脈打った鼓動を抑えるように胸に手を当てる。
私が勝手に苦しく思ってるだけ。それをシゲくんのせいだなんて思いたくない。
勝手に喜んでしまうのも。

一喜一憂とは正にこのこと、と言うようにコロコロと顔色が変わる私の手をまた引いて、ランは「ソイゼにでも行くー?」と中途半端な時間潰しの候補を挙げてくる。
そんな所に行ったら、夕飯が入らなくなってお母さんに悪い。
「食べ物系じゃない所にしよう」と私が近くの本屋や雑貨屋を示していると、ランが「ゲーセンにしよう!」と急に大声を上げた。


「私服プリ久し振りじゃん?撮ろう!相談する記念も兼ねて」
「相談記念って何それ…」


言われて見れば最近は休日は塾だし、久し振りかもしれない。
変な記念を作り始めたランに失笑して、いつの間にかプリクラの気分に寄っているのに気が付く。
足取りも少しだけ、軽い気がする。


「何かちょっとだけ、元気出てきたかも」
「じゃあその記念だ。そうしよう」
「何でもいいんじゃん」
「だって30分もあるからさー、落書きのネタはいっぱいないと」
「どんだけ撮るつもりなの」


どうせそんなに沢山書き込める程ラクガキ時間も長くは無いのに。
なのにランはまるでサインの練習を空に描くように手を振り動かして「そりゃあ、一番盛れるのが撮れるまでよ」と意気揚々と笑った。


---


「なるほど、恋愛相談ね。アンケートによると……告白する気はないみたいだが、どうして?」
「それは……えっと……」


30分と少し後、舞い戻って来た私たちはソファーに腰掛けながら霊幻師匠と向かい合っていた。
その間にもシゲくんは受付の席に座っていて、私はチラリとそっちを窺ってから俯く。

やっぱり、言えない。シゲくんの前でなんて、とても。

私の仕草に、霊幻師匠は「ん?……あぁ」と一瞬考えてから席を立った。


「奥の部屋に場所を移そう。その方がアドバイスしやすい」
「あ、ありがとうございます」
「行っといでー。ちゃんと全部話すんだよ」
「わ、かった」


ランは残るようで、私と霊幻師匠だけが奥の部屋に入る。
病院の診察室にあるような台みたいな簡易ベッドと、たくさんの書類や何がしかのアイテムたちが入った棚だけのシンプルな部屋だった。
脇にあったパイプ椅子を霊幻師匠が広げてくれて、私はそれに腰掛けた。


「モブとは幼馴染なんだっけか。アイツの前じゃ言い難かったよな」
「気を遣ってくださって、ありがとうございます」
「こっちの部屋なら、大声でもなけりゃ聞こえん。……で、相談内容だが…」
「あ、あの……実は…」


再びアンケートに目を落とした霊幻師匠に、私は意を決して口を開いた。
シゲくんが師匠と呼ぶ人だ。
すぐに私の気まずさに配慮してくれる程気が付く人でもあるし、信用して良いはず。


「シゲくんに、片思い……してるんです。小学校の頃から」
「……片思い、っていうのは」
「シゲくんがツボミちゃんを好きなのは、知っています。小さい頃からの仲ですから……お互いに」
「それで"告白する気はない"、ね。なるほど」


霊幻師匠はまるで私の心を読んでもいるかのように、"今の関係を無くしたくない"だとか、"好意を重荷に取られたくない"という私の気持ちを当ててきた。
ピタリと言い当てるその手腕に「すごい……」とつい呟いてしまう。


「でも此処に来た、ということは何かしら変わらないといけないと思ったんだろう?来年は受験だ。高校だって別になるかもしれない」
「それは……でも……、それでも、好きって思っていたいから…」
「…少し未来を想像してみろ。今のまま、仮にモブと同じ高校に進学出来たとする。そこでモブに恋人が出来て、毎日その二人を見続けることになっても、それで良いって本心から思えるか?」
「……っ」


霊幻師匠の言う通り想像してみる。
このままひっそり想い続けて、それで良いと思っていた。

もしシゲくんに、恋人が出来たら。
それをすぐ側で、見続けることができるだろうか。
恋心を抱いたまま、少しの悲しみもおくびに出さずに過ごせるだろうか。

そう考えただけなのに、まるで現実のことのように鼓動が胸の内を蹴り上げ始めて、痛みに顔を顰めた。
こんな気持ち、一体どう処理すればいいんだろう。


「それが嫌なら俺から言える答えはひとつだ」
「……告白、するべきですか」
「言わないと一人で苦しみ続けることになる。そんな悶々としてる内にあっという間に別れは来ちまうぞ」
「別れ……」


進路という大きな分かれ道が迫っている私たちにとって、その言葉は重く現実を突きつけてくる。
もし同じ高校に行けたとしても、ただ別れが先延ばしになっただけでその先にあるのは霊幻師匠の予想した通りのシナリオだ。


「フラれるのがわかってても…言うべきでしょうか……」
「フラれたからって嫌いにならなきゃならん道理はないし、アイツが好意を重荷に捉えるような薄情な奴じゃないのは知ってるだろ。俺が言わなくても」
「…!」
「一人じゃ重たすぎちまう感情なんだから、相手に半分持ってもらえば良いんだよ。その為にも言うべきだ」


「岩の上にも、なんて言葉があるみたいに、粘ってる内に向こうが好意を持つかもしれん。やらない後悔とやった後悔、どちらが良いかは任せるけどな」と霊幻師匠は手にしていたアンケート用紙を伏せた。

シゲくんは、薄情な人なんかじゃない。
寧ろその逆。私は充分その為人ひととなりを知っている。
なのに、霊幻師匠に言われるまで忘れてしまっていたみたいで、その言葉の衝撃に頭を打たれたように呆けてしまった。


--この気持ちを、シゲくんに打ち明ける……?


何度ランにそう勧められても、ぴくりともそんな気にならなかった。
今のままで良いと、本心からそう思っていたのに。
たった数分霊幻師匠と話しただけで、今では"告白した方が良い気がする"と何年もの思い込みが崩れ始めた。
目の覚めるような思いでパイプ椅子から立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げる。
霊幻師匠は「ま、気負いすぎるなよ」と最後に言うと、シゲくんたちのいる部屋への扉を開けた。


「おかえりー。どう?スッキリした?」
「……うん。目が覚めた気分」
「それは良かった!」


お茶とお菓子を摘みながら待っていたランが私を窺ってくる。
再三ランに言われたことなのに、全く意見を変えなかった私が少し申し訳ないのと、気恥ずかしさに頬をかいた。


「もう予約もないし、時間も時間だ。今日はここまでにしよう。モブ、昔馴染みなら送ってやれ」
「はい」
「えっ」


腕時計を確認してから霊幻師匠が窓のブラインドを閉めた。
引き出しから取り出したダイヤル式のボックスから「今日の分な」とシゲくんにお給金らしきものを渡している。
平然とシゲくんが返事をしたのに、私はピシリと体を固くした。


「私は近所なんで大丈夫でーす」
「万が一があったら困る。この子は俺が送ってくから」
「優しー!じゃ、おなまえ、影山君バイバーイ」
「バイバイ」
「え……」


事務所の鍵をかけた霊幻師匠はランについていって、「頼んだぞ」とシゲくんに言い渡す。
ランがヒラヒラと手を振り、シゲくんもそれに返すと「じゃあ僕たちも帰ろう、おなまえちゃん」と声を掛けられた。


--「気負いすぎるなよ」


数分前に霊幻師匠に言われた言葉が頭の中で反芻される。

こんなの無茶だよ師匠……。


---


二人きりで並んで帰るなんて、どれくらい振りのことだろう。
シゲくんが立っている側の腕や耳が熱を持って、触れてもいないのに勝手に汗ばむ指を誤魔化すようにスカートの表面を均した。

小学校の頃だって、シゲくんがいればそこには律くんもいたから、正真正銘の二人きりという状況は片手で数える程度だったはず。
緊張で張り付く喉は「何年振りかなぁ」と指折るシゲくんに生返事をするので精一杯だ。


--落ち、落ち着くんだ……何も今言うって決めた訳じゃないんだし……


必死に自分に言い聞かせて、何とか不自然にならないように話題を探す。
"これはチャンスだ"と逸る胸が思考の邪魔をしてしょうがなかった。


「い、意外だったなあ、シゲくんがアルバイトしてたなんて…」


驚いちゃったよ、と続ける。
まさかあんな所でシゲくんに会うとは思っていなかったから、驚きも一入だった。


「いつから師匠さんのお手伝いしてるの?」
「3…4年?くらい前からになるかなぁ」
「結構長いんだね」
「そうだね。…超能力のことで悩んでた時に、この力の使い方を教えてくれたんだ」
「そう………悩、んでたんだね」


まさか、シゲくんが悩んでいたなんて。
それも超能力のことで。
私にとっては"危機を救ってくれたすごい力"だけど、シゲくんはそう思えなかったのかな。

ずっと見てたのに、気付かなかった。

私が見ていたのはただの一面だけだったんだ。
このまま、何も変わらなければ。
私はシゲくんの一面しか見続けることは叶わない。


「……シゲくん」
「なに?」
「わ たし……私ね」


ゆっくり歩いていた足を止めた。
夕暮れに伴って点いた公園の電灯が私たちを照らす。
足元に出来た濃い影に視線を落として、深呼吸をした。


「シゲくん」
「う、ん」


顔を上げて再度名前を呼んだ私にシゲくんが首を傾げる。
その返事は意を決した私の強い視線にたじろぐように何処か不安げだった。
それでも私に向き直って足を止めてくれるのが、彼の人の好さを表していてまた胸が締め付けられる。


「私ね、シゲくんのその力…凄く優しいって思うよ」


だって、落ちそうになったり転びそうになったりする度、何度も私はシゲくんに助けて貰ったから。
私の記憶の中ではずっと、その光る輪郭は優しさの象徴だった。


「悩んでたの、知らなかったけど……私はシゲくんがその力の持ち主で良かったと思う。シゲくんだから、良かったってそう思うよ」


「今更こんな私の言葉なんか、必要ないかもしれないけど…」と、本当は悩んでる当時のシゲくんに言ってあげたかった言葉を伝える。
シゲくんは気恥ずかしそうに少しだけ頬を染めて、口許を綻ばせた。


「あ、ありがとうおなまえちゃん」


僅かに見開かれた目が嬉しそうに輝く。
無邪気なその眼差しは、私が恋心を抱く前から好きだった幼い記憶と変わってなくて。


「……私、シゲくんが好き」


嗚呼、好きだなと思った瞬間、溢れ出すように唇が想いを告げていた。
私の言葉に一瞬ビクリと体を固くしたシゲくんは、「す……、えっ」と明らかに戸惑い始めている。

すぐ喉元から心臓が出そうな程の緊張と、シゲくんを困らせてしまった申し訳なさ。
その後を引くように滲む"やっぱり"という諦めに似た感情。

胸に渦巻くいろんな気持ちに負けて、「…送るの、此処までで大丈夫だよ」とシゲくんの言葉を待たずに、私は家の方へと数歩進み出した。


「…、おなまえちゃ……」
「シゲくんも気を付けて帰ってね。それじゃあね」


俯いたまま、声だけは元気に聞こえるように努めて明るくした。
顔は上げられなかった。
泣いちゃったら、もっとシゲくんを困らせてしまうから。

別れを告げてから、文字通り逃げる様に私は家まで駆け出して、一度も後ろを振り返らなかった。


--「さっさと当たって砕けた方が楽になれるのに」
--「……諦めたく、ないんだもん」


違った。
私はただ、砕ける勇気も持てないだけだった。
シゲくんの口から答えを聞くのが怖くて、逃げ出した意気地なしだ。


「……やらない後悔の方が…良かったかも……師匠ぉ……」


後先を考えずに、正しく口をついて出てしまった自分の言葉を、なかったことに出来たら良かったのに。
自分の部屋のベッドにボサリと顔を沈めて、言葉にし難い後悔の感情を布団に向かって唸ることでしか発散する方法が見つからなかった。


---


「……で。何かあった?兄さん」
「な、何かって?」
「何か悩みがあるから僕のとこ来たんじゃないのかなって思ったんだけど…違った?」


夕食を終え自室で寛いでいた律の部屋にモブが尋ねてきたのはもう1時間も前のことだ。
その間特にコレといった話題が挙がることもなく、只管自室から持ってきた漫画のページを繰り返し捲り続けている兄の姿にいよいよ律は"自分から聞いた方が早い"と判断して踏み込んでみる。
案の定ギクリと音が聞こえそうな程モブはギクシャクとした動作で漫画から顔を上げて、視線を泳がせた。
その傍らで重く溜息を吐いたエクボに、律は目を向ける。


『シゲオのやつ、告られて固まってる内に相手が逃げちまって、何からすりゃあいいのかパニックになってんだよ』
「エッ、エクボ……!」
「告白されたの…!?だ、誰に」
『こんくらいの背の、髪こんな感じの。えーっと誰ちゃんだっけか』
「……おなまえちゃん、に」
「あ…あぁ、みょうじさんか……」


思わずガタリと椅子から立ち上がってしまった律はおなまえの名前を聞いて腰を下ろした。
接点がなくなった為薄くなりつつはあるが、律の記憶の中でもおなまえがモブを慕っている姿はよく印象に残っている。
よく兄を褒めてくれるから、自分も誇らしい気持ちになったものだと思い返していると、そんな律の耳に「でも」というモブの声が届く。


「僕の考えすぎ、かも。友達としての"好き"だったかもしれないし…」
「『それは無い』」
「な、無い……のかな……?」
「無いよ。それは断言出来る」


意外にも律の口から強く否定されてモブは面食らった。
聡い律はおなまえ自身が想いを自覚する前から”兄さんが好きなんだろうな”と思っていたし、どちらかと言えば”やっと言ったんだな”とも思っていた。


『感情が高まり過ぎて勢いで言った感はあったが、友愛の意思表示だったんならあんな顔はしねぇ』
「あんな…顔……そ…っか…」


帰り道のやり取りと、その後にモブからどういう関係値なのかを聞きかじっただけのエクボでさえ『顔見りゃわかる』と言い切っていて、どうやら彼女の本心がわからないままなのは自分だけのようだとモブは視線を落とす。


--おなまえちゃんの、顔……


「好き」と言われた時、彼女はどんな表情だったろうか。

突然のことで頭が真っ白になって、見ていたはずなのによく、思い返せない。
それまでは普通に、笑い合って話をしていた。


--相談所に来た時は、何か元気がなさそうだったんだよな…。


思い詰めている、という程だったかはわからない。
けれど顔色が悪かったのは覚えている。
それで”何かに憑かれているのかも”と思ったが、そうではなかった。


--…師匠と話をした後はいつものおなまえちゃんに見えたし…


「……あ…」


--「なるほど、恋愛相談ね。…――」


あの時おなまえちゃんは、師匠に恋愛相談をしてた。
すぐに奥の部屋に行ってしまったけど、聞き間違いじゃなかったはずだ。


--「私、シゲくんが好き」
--「…送るの、此処までで大丈夫だよ」

--「それじゃあね」


彼女の様子が脳内でフラッシュバックする。

林檎みたいに赤い頬で、熱に浮いた目が自分を映して潤んでいた。
言葉に詰まっている内に一瞬だけ、伏せる間際の唇が何かを堪えるように噛み締められて背を向けられた。
走り出す直前に告げられた別れの声は、震えていた気がする。

一度も振り返らずに段々遠のいていく小さな背中が、瞬きをしてもまだそこにあるみたいで。


「…律の、言う通りだった」
『俺様も言ったんだが』
「返事、早い方が良いと思うよ」
『オイ』


小言を呟きながら脇の方で自分を指差し続ける人魂を視界の端に、「返事…」とモブはまた考え込み始める。
そんな兄の横顔を見て律は机に向き直りながらまるで独り言のように口を開いた。


「受けるのも断るのも兄さんの自由だけど、委員長会議で僕会うんだから気まずくするのはやめてね」
「う、うん…気を付けるよ」


相変わらずエクボを無視し続ける兄弟に諦めたように溜息を吐くと、『…もう半ば脅しみてーなモンじゃねぇかソレ』と小さくエクボは呟いた。


---


小さい頃。
超能力で物を浮かせたり曲げて見せたりすると皆が楽しんでくれたし、僕もそれが嬉しかった。
いつしか見せびらかすようなことはやめて、親しい人にだけは自分から見せるようにした。
"特別だ"と思って欲しかったし、"特別だよ"って伝えたかった。

最初は喜んでくれてた--と思う--ツボミちゃんも、次第に見慣れてしまってか興味をなくしてしまって。
こんなのじゃ気を引くことも出来ないって、気づいてしまった。
自然と使わなくなった超能力も、時々感情の起伏で牙を剥くように暴れだしたりして。


--「おなまえちゃん!!」


公園で真っ黒な何かに覆われる瞬間を見てしまった僕は、思わず手を伸ばして彼女を包んだ黒い何かを吹き飛ばした。
弾かれたように吐き出されたおなまえちゃんの体が空中に放り出されるのがすごくゆっくり見えて。

急いでその体が落ちるのを超能力で受け止めてそっと地面に下した。
おなまえちゃんの顔色が真っ白で、死んでしまったんだと思った。

僕が、もう少し早く来ていれば。
どうしよう。
必死に呼びかける。
どうしよう。
どうしたら。

ゾクリと自分の体内に冷たいものが流れるのがわかった。
危険を伝えるように早く打つ心臓と、心が乖離していきそうだった。

冷たいおなまえちゃんの肩を揺さぶった。
名前を呼び続けることしか思いつかなくて、あったかくなれと夢中で彼女の濡れた体を抱き締めた。
その内におなまえちゃんが咳き込むように水を吐き出して、掠れた声と薄く開いた瞳が僕を呼んだ。


--「…ィゲ、…く……っ、ゴホッゴホッ」
--「おなまえちゃん!…良かった…、僕…」


生きてた。
無事だった。

そうホッとする気持ちと裏腹に、一度ザワついた波が引かないで胸の内を渦巻く。


--「ごわ"がっ"だよ"ぉぉおお…う"わぁ"ぁああ!」


すぐ目の前で鼻まで真っ赤にして泣き叫び始めたおなまえちゃんの声に、まるでスイッチが切り替わったみたいに意識が注がれた。
ボロボロと大粒の涙を流しながらぐしゃぐしゃと泣き続けるおなまえちゃんを、何とか泣き止ませないとと慌ててその背中をポンポンと撫でる。


--「もう…もう、大丈夫だよ」


そう言い聞かせている内に、段々と自分の中の大きな流れが収まっていく。
もう大丈夫だ。おなまえちゃんは生きてる。元気だ。
撫でる手から伝わる彼女の体温が、全力で恐怖を訴える声が、徐々に落ち着きを取り戻していった。


--「グスッ…、ごめんねシゲくん…」
--「…落ち着いた?」
--「うん…、ありがとう…っ…ありがとうぅぅぅ」


お礼を口にしてまた怖さが込み上がってきたのか、くしゃりと顔を歪めたおなまえちゃん。
すっかり水浸しになってしまったハンカチをおなまえちゃんの泣き腫れた瞼に宛てて、「僕も、ありがとう」と小さく口にした。

生きててくれてありがとう。
"僕"を、引き留めてくれてありがとう。
ありがとうって言ってくれてありがとう。

たくさん言いたかったけど、全部を言語化できる程僕は口上手じゃなくて。
ただそう、言うしかできなかった。


---


「モブ。モーーブ。…何だよ上の空か?」
「…あっ、すみません。…何ですか、師匠」
「…別に。気もそぞろだなと思ったから呼んだだけだ」
「そうですか…」


霊幻に声を掛けられてモブは我に返った。
ただ受付の机の一点を見つめ続けていた視線を上げて霊幻に向けると、湯飲みを握った霊幻が訝しむように此方を見ていた。

つい今朝見た夢が頭に残っていて、あんなに昔のことを思い出したのは勿論昨日のことがあったからだろうと自分でもわかっている。
子供ながらに--今も子供だという声もあるだろうが--ヒヤリとした記憶のひとつとして印象深い出来事だった。
今にして思えば、初めての除霊行為だったかもしれない。


「…師匠、昨日…」


昨日おなまえの相談に乗った霊幻は、彼女から何を聞いて、どう答えたのだろう。
ふと抱いた疑問を、けれどモブは口にせず「何でもないです」と胸にしまった。

聞いた所で、自分の気持ちがそれで揺らぐとも思えなかった。
彼女と師匠が、自分の耳に入らない方が良いと判断したことだ。

「そうか」と返事をした霊幻は残った茶を飲み下して空になった湯飲みを流し台に持っていく。
その傍らで浮かんでいるエクボと目を合わせてモブの様子を互いに盗み見るように窺った。

先程呼び掛けたにも関わらずモブはまた遠くを見ているような目で窓の外を見つめている。
元より喜怒哀楽が表に出ない質ではあるが、その横顔からは思考が読み取れない。
かと思えば徐に立ち上がって、自分の鞄を肩に掛け始めたモブに霊幻は「どうした」と湯呑みを洗う手を止めて尋ねる。


「今日、もう帰ってもいいですか」
「お前急に…理由は。…と聞きたい所だが、いいぞ。注意散漫みたいだし」


「気を付けて帰れよ」と濡れた手を拭きながら言う霊幻の声にモブは一度ピクリと反応し、それから「お先に失礼します」と事務所を後にした。
モブに目配せされたエクボは彼の後を追うことはせず、そのまま事務所に留まる。
自分の代わりに働けということなのだろうと察して『俺様のことぞんざいに扱いすぎだろ』と毒づく人魂に、霊幻は「昨日何かあったのか?」と尋ねた。


『お前が相談乗ったヤツいたろ』
「……大体わかった」


薄々そうではないかと予想していたことだ。
窓から見送るモブの背中が何処に向かうのかはわからないが、霊幻はその背中が見えなくなるまで心配げに見つめていた。


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なるべく騒がしい所にいたい気分だった。
少しでも落ち着いた所にいると、絶えず後悔が頭を占めてしまいそうだったから。
私が急に誘ったのに、ランは嫌な顔ひとつしないで「いいじゃん。遊ぼ!」と商店街を一緒に回ってくれる。
この溌剌とした性格がたまに合わないと思うこともあるけれど、今はとても有難かった。


「ボーリングでもする?たまにやると楽しいよ」
「良いけど…二人だよ?」
「誰か呼んでもいいけど……何かしんどそうだから他のにしよっか」
「…しんどく見える?」


出来るだけ平温を装っているつもりだったけど、やっぱりランには違和感があったんだろうか。
尋ねる私にランは「んー。寝不足って感じしてる」と私の目の下のクマを指差した。
…確かにあまり、眠れてはいない。


「眠い時ってそんな仲良くない人の相手めんどくない?余計に」
「うん…わかる」
「でしょ!茶でもしばくかー」


二人ともコーヒーフロートを頼み、仲良く肩を並べて2階席のカウンターに座る。
上に乗ったソフトクリームを豪快に崩してアイスコーヒーに混ぜ込むランの姿に「アイスなくなるの早」と思わず突っ込んでしまう。


「私甘くないコーヒー無理」
「じゃあ他の飲めば良いのに」
「気分優先なの」
「拘り強いなあ」


変な拘りだと思ってつい笑えば、ランはストローを噛むようにして咥えたまま頷いた。
そのまま他愛もない話をしてからふと、幾分か重たく感じていた気持ちが楽になっていることに気が付いて。

今なら、泣かずに報告できると思った。


「……あのね、ラン。私…シゲくんと帰ってる時にね」
「ん」


窓の外に視線を向けたまま、ランはストローを咥えた姿勢を変えないで相槌を打つ。
話しても良いし、話すのを止めても構わなそうなどっちつかずの態度が、"構えて話さなくて良い"と表しているように見えた。


「告白、したの。好きって言った」
「おー。頑張ったじゃん」
「うん…でも、返事……聞くの怖くて、言い逃げ、しちゃった」
「ふーん……でも伝えただけ前進だと思うけど?」


クルリとカウンター席を此方に向けて、「偉いよ」と私の頭がぐしぐし乱暴に撫でつけられる。
その腕の力に揺さぶられるまま頭を任せながら「だけどシゲくん…絶対困ってたよ」と、果たして本当に前進出来たのか疑問に思っていることを伝えた。


「困っちゃった態度とられたから、逃げちゃったのね」
「………」
「んまあ…告られる経験少なくてビックリしたのかもね、影山君。弟はモテるの知ってるけど、兄はそうでもないじゃん?」
「律くん、モテるんだ…?」
「アンタは兄に夢中だもんね」
「む………うん…」


揶揄うような口振りに言い返したかったけど、事実だなと頷く。
ランは私の頭からようやく手を除けて、「で、今も影山兄は困ってる訳だ。返事したくても相手がいないんじゃね」と咥えていたストローをプラコップに差し戻す。
"返事"と聞くや否や私の胸の底辺りがぐんと重くなった気がした。


「…フラれるんだあ……」
「最初からわかってたじゃん、相手が別の女好きなのはさ」
「そうだけど…」
「でも敢えてそこで返事聞かなかったのは"アリ"かもしれないよ」
「あり……?」


気持ちが萎み始めてきた私と反比例して、ランは得意げに歯を見せて笑った。


「だって一日置いたじゃん。その間ずっと相手はおなまえのこと考えてるかも。…そう思うとさ、ずっと片思いだった身としては少し胸がすく思いしない?」
「ん……、…ちょっと、は」
「まったく意識されてないよりは、マシだと思うんだよねソレ」
「そっ…か」


言われてみると、そうなのかもしれない。
残り少なくなったコーヒーを吸い上げれば、そこに乗っていたソフトクリームがカラリと音を立てた氷の上に落ちてくる。
最初に比べるとコーヒーに溶けて緩くなった残りのクリームを掬って食べ切ると、ランも勢い良く残りのカフェオレと化したフロートを飲み切った。


「こっぴどくフラれたらすぐ電話頂戴ね。ブサイクな泣き顔笑ってあげるからさ」
「そこは慰めてよ」
「ケケケ」


女子とは思えないほど意地の悪い笑い声を上げるランと別れて帰宅すると、私の声を聞き付けたお母さんがリビングから顔を出して来た。


「あぁおなまえ、おかえり。遅かったのねえ。さっきね、シゲくん来たわよ」
「え"っ!……な、何か言ってた…?」


お母さんの口から久し振りに飛び出したその名前に、脱ぎ掛けたローファーの踵を潰しかける。
中途半端に踵だけを上げた姿勢のまま尋ねると、お母さんはエプロンで濡れた手を拭きながら「"公園に来て欲しい"って。帰って来たら伝えてって」と言う声を聞き付けてすぐにローファーを履き直した。
そのまま「ちょっと!」と呼び止めてくるお母さんの声を無視して「行ってきます!」とドアを開け放つ。

きっと、昨日の返事だ。
きっと、断られてしまうのだろう。

お母さんの言うさっきがどれくらい前のことかはわからないけれど、シゲくんが待っていると思ったら急がずにはいられなかった。
どの公園なのかなんて疑問も抱かずに、足はまっすぐに皆で小さい頃遊んでいたあの公園に向かう。
走り続けた体を、入口の車止めに手を掛けて息を整えた。

嗚呼、馬鹿だな私…もっと早く走るのを止めてたら良かった。
汗だくの姿でシゲくんに会うことになってしまう。

ハンカチで汗を拭い、深呼吸をしてから公園に踏み入る。
すぐにベンチに腰掛けている背中が見えて、心臓が跳ねるように脈打ち始めた。


「シ…シゲくん」


私が声を掛けるのと、足音にシゲくんが振り返るタイミングが同時で、ついその場で足を止めてしまった。


「おなまえちゃん…こ、こんばんは、かな?もう」
「あ…こんばんは…そう、だね。もう6時だし……ごめんね、今日帰るの、遅くて…」
「う、ううん。そんなに待ってないよ」


「肉改部の後だと大体これくらいになるから」と立ち上がって此方を気遣ってくれる優しさにきゅうと胸が締め付けられた。
すぐ側を見ればシゲくんが座っていたベンチに、スクールバッグが乗っているのを見て彼がまだ帰宅してないことを悟る。

家に帰る前に私を訪ねたのにこうして待ち惚けを食らってしまって、シゲくんのお母さんは心配してしまってないだろうか。
もっと早くランとの話を切り上げていたら待たせなかったかも…でもあのお陰で大分元気になれたし…。

ぐるぐると連想ゲームのように思考が乱立していく中、「座る…?」とシゲくんが勧めてくれた声で我に返った。


「いいの…?、…あ!でもあんまりゆっくりするとお母さん心配するよね?大丈夫だよ、このままで」
「僕の方は大丈夫。さっき伝言頼んだから…律から遅くなるって言って貰うよ」
「そ、う…なんだ。……じゃあ、失礼します」
「うん、どうぞ」


シゲくんが鞄を退かしてくれて、空いたスペースに腰を下ろす。
当たり前だけどすぐ隣にシゲくんがそのまま座って、走って上がった体温が再燃した。
落ち着け、と思考を外に向けようと顔を上げた先に、鉄棒が目に入る。

シゲくんがよく、ふにゃふにゃにして見せてくれた鉄棒。
シゲくんが中々逆上がりが出来なくて、一緒に練習した鉄棒。
シゲくんが私を、得体の知れない何かから助けてくれたのも、この鉄棒の側だった。


「……懐かしい、ね」
「此処でよく遊んだもんね」
「うん。…楽しかった」


この公園の思い出の、全部の中心がシゲくんで。
一晩、"言わなければ良かったかも"と悩んでも、彼を好きな気持ちに変わりはなかったなと再認識した。


「あの、さ……昨日、言ってくれたこと、なんだけど」
「…うん」
「一日…考えてみたんだ。おなまえちゃんの気持ちとか、…僕の気持ちとか…正直な話、まだ、考えてるんだけど…」
「……」


ぐらぐらと大きく揺れる脆いロープの橋の上に立っているみたいだ。
シゲくんの言葉の結末が読めなくて、つい不安げに眉を寄せた。
でも、考えてくれてるってことは、私にもまだ、希望があるって思ってもいいんだろうか。

シゲくんが徐ろに鉄棒を指差して、私の視線もそこに向く。


「昔、あそこで変なのにおなまえちゃんが捕まったよね」
「うん……死に掛けた所を、シゲくんが助けてくれた」
「あの時、おなまえちゃんが死んじゃったと思って、僕も…多分パニックになり掛けてたんだ」


指差した人差し指がキラキラと光を纏う。
その手を広げて、シゲくんが掌に視線を落とした。
夜へと染まりつつある暗がりの中で、シゲくんの光が一層綺麗に見える。


「だけど、おなまえちゃんが意識を取り戻してくれたから、あの時はなんとか出来た」
「……」
「おなまえちゃんの声が僕を引き留めてくれたんだ。…だからあの時、僕もおなまえちゃんに助けて貰ったんだ」
「私…、泣き喚いてただけだったと思う…」
「泣いてるおなまえちゃんを放っておけないでしょ」


気恥ずかしさに熱い両頬を押さえた。
それに反してシゲくんはそんな私を宥めるように微笑んだ。

あの時の私は必死だった。
絶対に可愛い顔なんか取り繕えていなかったし、野太い声でわんわん泣いた記憶しかない。
涙に塗れていたからシゲくんがその時どんな顔をしていたのかも覚えていない。
覚えているのは、優しい声と手の温度だけだ。
でもきっと、今のシゲくんと同じ表情だったんじゃないかと思う。


「…、好きって、言ってくれてありがとう。……僕も、おなまえちゃんが好きです」
「………へ…、…そ、れは。Like、の…」
「…おなまえちゃんの好き、と…同じだと思うん、だけど…多分…」
「えっえっ…、だって私の好きって、アレだよ?手繋ぎたいとか、チューしたいとか、そ、そういう好きだよ?」


私は驚いて思わず隣のシゲくんに向き合うように体勢を変える。
自分の左手を指差して見たり口許を指差してみたりして「Loveだよ?」と確認するように聞くと、私の指を目で追ったシゲくんも両頬を赤く染めて「うん」と小さく答えた。


「ま、まだ、そんな、そこまでは急には出来ない…けど」
「ホント…?う、嘘とか気遣いとかだったらやめて、本気なんだ、か…ら」


糠喜びだったらと予防線を張ってしまう私の体が、不意に引き寄せられてシゲくんの腕の中に収まる。
夏服のシャツ越しに、シゲくんの鼓動が聞こえてその速さに息を呑んだ。


「こ、これで本気って、伝わった…?」


頭上から不安そうなシゲくんの声が降ってくる。
トクトクと伝わる互いの鼓動が触れた場所から同調するみたいだ。
胸の満ちる思いで、悲しくないのに涙が込み上げてきた。
震え声が伝わらないようにコクコクと頷きながら目元を隠したのに、ズビと鼻を啜る音で「な、泣いてる…!?」と気付かれてしまった。


「だって…りょ、両思いに…なれるって、思ってなかったから…ぁ…」


嬉しくても涙って本当に出るんだ。
今更自覚したけれど、もしかして私は泣き虫だったのかもしれない。
こんなんじゃあ良い報告をしてもまたランに「ブサイク」と揶揄われてしまう。
シゲくんだって、まるでシゲくんに泣かされたように見られて気まずいだろう。
そう思って「すぐ…引っ込めるね」と泣き止む努力をしたのに、シゲくんはいつかの時のように「大丈夫だよ」と言って優しく背中を撫でてくれた。


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