しとしとと細かな雨が降りしきる夕方。
昼から降り続けている雨は雨足こそ強くはないが横風が吹いていて、普段は談話室代わりに使う老人たちや飛び入りの客を遠のかせるだろう。
今日はもう店仕舞いかな、と院長は予約票を整理しながら思った。

そんな中、静かな院内にカラリと入口のドアベルが控えめな音を立てたのに気が付き院長が顔を上げる。
長身の男が「こんばんは」と穏やかな声音で挨拶をしてきて、院長は「あぁ、こんばんは」とそれに返した。


「今呼んでこよう、少し待っててね」
「お願いします」


待合室の椅子に座るよう促すが、男は入口脇の壁に背を預けている。
以前にもそう声を掛けたのだが「客ではないので」と彼は腰を降ろさなかった。
院長はその律儀さを後目に奥で作業をしているおなまえを呼びに向かう。


「みょうじさん、お迎えきたよ」
「え?来たって、今ですか?」
「うん、雨だから早めに来たんじゃないかな。今待合室で待って貰ってるよ。予約もないし、早く帰れる時は早く帰りな」
「わかりました」


どうせ客が来なければ後は事務仕事しかすることもないしね、と院長がペンを器用に回して見せた。
指の運動になると思って、最近会得したらしい小技を得意気に披露する院長におなまえは笑うと、「お先に失礼します」と挨拶をし上着を羽織り鞄を肩にかけ迎えの待つ待合室に向かう。


「亮、お待たせ」
「お疲れ様です」


おなまえの足音に島崎が壁から背を引き姿勢を正す。
島崎のすぐ隣におなまえが立つと、院長の姿がないのを確認してから肩を抱かれて、直後2人の姿は待合室から消えた。

その数分後、締め作業をするべく院長が奥から出て来る。


「うーん。明日はもっと雨強そうだなあ」


入口の立札を終業に変えながら空を見上げ、暗いながらも確認できる厚い雲に独りごちた。
ウェルカムマットを店内にしまい込み鍵を掛けると、ただマットを引き入れるだけなのに濡れてしまった作業着を軽く叩く。
そこでふと思い、手を止めた。


--あの人、濡れてなかったような…


つい先程見た姿を思い出せば、傘さえ持っていなかったように思う。
少し前はおなまえの迎えといえば目の前の通りに車が停まっていて、誰かが直接来るということはなかったのだが。
ここ数日は車の代わりに--いつもと違う場所に停めているのかもしれないけれど--あの男性が来るようになっていた。
スモークガラスの黒塗り車に比べれば威圧感はないが、どこか不思議な雰囲気を纏った人という第一印象だったのは記憶に新しい。


「……気のせいかもしれないな、うん」


暗い色の服だったし、濡れてないように見えただけだろう、と自分を納得させた。
おなまえの出自を知りながらも雇用している院長だが、こういう時に抱いた違和感には深く考えない方が良いと自身の経験が警告をしている。
ギシリと受付の椅子に腰を降ろして、自分も早く帰るべく残り少ない未記入の書類に手を付け始めた。


---


転移の音と共に玄関に足を降ろすと、「ただいま」とおなまえが呟いた。
島崎のお陰で通勤時間が大幅に短縮出来るのは勿論、こんな雨の日でも濡れることなく家と職場を行き来できるのはとても便利で、「今日もありがとう」とおなまえは島崎を労る。


「どういたしまして。……今日は此方も暇でしたし」
「そうだったんだ。忙しいよりは良いよ、特にそっちは」
「一昨日は楽しかったんですけどねえ〜」


一昨日、というのは駿雅会の縄張で陰ながら違法薬物を持ち込み流していた組織を根絶やしにする騒動に島崎も呼ばれた一件で、それを思い出したおなまえは「ああ…」と苦々しい表情を浮かべた。

おなまえたちが匡哉と話し合ってからもうひと月が経とうとしている。

アダチからの折衷案として、島崎とおなまえは組の管理下にある不動産の内のひとつであるマンションに暮らすことになった。
おなまえの職場からも通える範囲で、尚且つ管理人含めた組員も何人か此処からみょうじ家に通ってるのもあり、匡哉としても生活態度を把握しやすいという点で--なんなら毎週のようにアダチが勝手に家事をしに来訪してくる--渋々ながら同棲が認められた。

そして島崎は構成員としてではなくおなまえのボディガードとして匡哉が個人的に雇ったという名目で他の組員には通していて、人手が必要な荒事の際には時々声が掛けられるようになった。
そんな荒事など滅多にあることではないのでおなまえは油断していたが、どうやらおなまえが勤務中の間暇を持て余している島崎は自分から揉め事の気配のする方へ首を突っ込みにいっているらしい。


「本当に…程々にしてよ。危ないこと」
「何もしてませんよ、危ないことなんて」
「亮の感覚と私の感覚に違いがありすぎたね…」


確かに一昨日の騒動の後、島崎は擦り傷ひとつ負ってはいなかった。
夕飯の支度をしようと冷蔵庫を開けるおなまえ。
すると中に自分が作った覚えのない作り置きのおかずが入ったタッパーをいくつか見つけて取り出してみる。


「アダチ来たー?」
「ああ、来てましたね。…彼も暇してたんでしょう」
「そんな訳ないと思うけど」


仮にも若頭だというのに、過保護というかマメというか。
几帳面に食べ切る日付まで書いた付箋が貼られているタッパーを作業台に置いて、おなまえはアダチにお礼のメッセージを送る。
朝にセットしていた炊飯器から炊飯完了のメロディが鳴り響き、おなまえはパタパタとキッチンを移動した。


---


「そういえば、皆の様子どうだった?」
「みんな?」


食事とお風呂を終えて、就寝前のストレッチをしながらおなまえは島崎に尋ねた。


「皆っていうか、今日会ったのはアダチだから、アダチの様子?疲れてそうだったとか、元気そうだったとかそういうの」
「彼は平気そうにしてましたけど、左肩をかばいながら料理してたのでいつもより手際は悪かったですかね」
「え!……怪我してたの!?」
「一昨日に」
「聞いてないんだけど」
「言ってませんから」


肩回しの途中の姿勢で固まったままおなまえは島崎を叱るように振り返る。
「そういうとこあるよね」と島崎を指差すと島崎は笑顔のまま眉だけを困ったように寄せる。


「だって言ったら絶対"治しに行く"って言うでしょう?」
「言うよ!行くよ!連れてって」
「ホラ。……あんまり気乗りしないんですよねえ」
「どうして」
「んんー…なんとなくなんですけど。いい予感がしません」


勘としか言いようがないけれど、今みょうじ家に行くのは良くない気がすると島崎は躊躇う。
そんな島崎におなまえは「亮だってアダチにお世話になってるでしょ」と諭した。


「今日のご飯だってアダチが作ってくれたのだし。それにお昼も、アダチ来たんなら亮の分作ってくれたんじゃない?」
「…………」
「ほら!連れてって!」


そう言って島崎の腕を引いて転移するように促す。
仕事の送り迎えの時は遠慮する癖にこういう時は自分の能力を活かそうとしてくるおなまえに、矢張りお人好しだなと思うと同時に自分の使い方が上手くなってきているなとも思って満更でもない溜息を吐き出した。


「仕方ないですね」


存外頼られて悪い気もしないのも事実。
根負けした島崎がおなまえの手を取り言われるがままテレポートすると、いつの間にか懐かしく感じるようになったみょうじ家の廊下に降り立った。


「あ」
「ん?」


2人が手を離すよりも早く誰かに声を掛けられる。
おなまえが声のした方を見ると同時に島崎は顔を顰めて自分の勘が伝えていたのはコレだと確信を持った。


「おなまえチャンじゃん。お久ァ〜」
「あ"」
「わ。可愛くない顔。そりゃそうだよねェ」
「近付くな」


湯上がりなのか、乾きかけの髪を降ろした烏間が3人の組員と共に移動中だった。
此方に向かってくる烏間に咄嗟におなまえを背に庇うように島崎が立つ。


「何もしないよ。部屋に戻るだけだし……見てよこんなに警戒されてんのに下手なことする訳ないって〜」
「……」


ホラホラと言わんばかりに烏間が縛られている手首を掲げてみせた。
腰にも付き添いの組員と繋がれたベルトが巻かれていて、逃走や暴行が出来ないように制限されているらしい。
まるで囚人のようなその扱いにおなまえは僅かに唇を噛んだ。


「仲良いんだねェ、2人」
「! ボディガード、だから」
「フーン」


烏間に言われてサッと烏間についている組員たちの様子を窺う。
島崎との交際は一部の構成員しか知らない。
アダチの立場を考えてなるべく組員に知られない方が良いだろうという匡哉の意見でそうなったのだが、烏間の一言で緊張したのが伝わったのかどうなのか、烏間は間延びした相槌を打った。
するとそこにタイミング良く部屋から出て来たアダチがやって来る。


「何ダべってんだ……お嬢!」


烏間の喋り声を聞き付けたらしいアダチはおなまえに気付くと駆け寄って来た。


「こんな時間にどうしたんです?」
「アダチが怪我してるみたいって聞いたから」
「……」
「聞かれちゃったので」


"お前話したのか"と視線で島崎に訴えかけるように見てくるアダチを気配で察して、島崎は肩を竦めてみせた。


「エー。若頭が怪我ァ?余っ程のお祭りだったんスねぇ〜。俺も行きたかったなァ、体鈍っちゃって〜」
「テメェは大人しくしてろ」
「残念です。キミがあの場にいたらどさくさに紛れて始末できたのに」
「亮」


アダチが烏間を、おなまえが島崎を諌めるも、2人は言い合いを止めない。


「アンタ行ったんだ?ヘェー、おなまえチャンのボディガードなのに?その間お姫様はガラ空きか?良かったなァ、俺がこんなんでさ!」
「勿論彼女の安全は確保した上で行きましたよ。私が行った方が早く片付きますから。仕事の遅い誰かさんとは違うんですよ」
「廊下で騒ぐな」


ピシャリと襖が勢い良く開いて、奥から匡哉が出て来た。
烏間と島崎の姿を認めると一層険しく表情を顰めて、「さっさと部屋に連れてけ」と顎で組員に示す。
まだ睨み続ける烏間を引き摺るようにして3人がかりで廊下を去っていくのを見届けると、「で」と匡哉はおなまえを見た。


「何か用か」
「あ。アダチを治療しに」
「…なら、それが済んだらすぐ戻れ」
「は、はい…」


そう言うと匡哉はフイ、と背を向けて部屋の奥に引いていく。
1ヶ月前の話し合いで見せた姿がまるで夢だったかのように、元の--少なくともおなまえが知る上では--ように冷たい態度の父におなまえは萎縮しながらもアダチの左肩に手を添えて治療を始めた。
薄緑の温かな光が廊下を照らす中、アダチはお礼を言いつつおなまえを気遣うように声を掛ける。


「気を悪くしないでください。親父はお嬢の目にアイツを入れさせたくなかったんです」
「え……もう、見ちゃったよ」
「そうですね…それでもなるべく、考えもしないように離しておきたいんですよ。アレでもお嬢のこと心配してるんですから」
「……うん、ありがとう」
「それは此方の台詞です。ありがとうございます」


治療が終わって手を離したおなまえに、アダチは左腕を高く上げてみせた。
それから島崎に向かって「お嬢を頼むな」と告げる。


「勿論。其方も間違ってもアレを逃がしたりしないで下さいよ」
「……足枷でも増やしておこう」
「口枷がいいと思います。あの減らず口を利けなくしてやるといい」
「言い過ぎだよ」
「言い過ぎじゃありません」
「ハイハイ!もう終わったから帰ろう!ね?」


おやすみアダチ、とおなまえが手を振り島崎の腕にしがみつく。
"帰ろう"と言われて毒を吐き散らそうとしていた島崎は口を噤み、言われた通りに転移してみょうじ家を後にした。
もっと帰るまで時間がかかるかもしれないと島崎の苛立ち様を見てアダチは思っていたのに案外すんなり帰ったのを見て、何だかんだ上手く噛み合ってる2人なんだなと安堵の息を吐いた。


---


「やっぱり勘に従っていれば良かったんです」


家についてからも島崎は「私を信じてくれていれば」とおなまえに小言を言っていた。
それを謝りながらおなまえはなだめている。


「亮の言う通りだったね」
「……」
「今度こういうことがあったら亮の予感をちゃんと信じるから、許して」
「……なら、態度で示してくれます?」
「え?」


腕を組んでいた島崎がそれを解き、広げてみせた。
向き合っているおなまえはその手を見てから島崎の顔を見つめる。


「許して下さいってお願い、ちゃんとしてくれたら許せると思うんですよね」
「ゆ、許して下さい……」
「ホラ、態度で示して下さいよ」
「……っ」
「じゃないと許せないかもしれません。あー、おなまえに背中を向けて寝るなんて心苦しいです」
「わかった、……わかりました」


心底辛いと言いたげな口振りでおなまえを揺さぶる島崎に、意を決しておなまえはその胸元に身を寄せた。
背中に腕を回して抱き着くと、そのまま顔を近付けて自らキスをする。
軽く触れ合うだけで離すつもりだったのに、唇が触れた瞬間項を抑えられて舌を割り入れられた。


「ん、……ぅ…っ」


くちゅ、と粘膜が触れ合う音と合間に唇を吸われる音が部屋に響く。
口内を荒らされる内に体から力が抜けて、背に回した手が弱々しく島崎の服を掴んだ。
唇の端から溢れた唾液がおなまえの顎を伝い胸元を濡らす頃にはすっかり息も絶え絶えになり、解放した島崎は耳まで熱を持ったおなまえの様子に口端を上げる。


「お願いは?」
「ハァ…、…っ……許して、くださぃ……」
「いいですよ。こんなに可愛くお願いされたらしょうがないですから」
「う……っ、」


自分でやらせておいて、と言い返したいが、そう言ってまた島崎が機嫌を損ねたら要求がエスカレートするのが目に見えていておなまえは言葉を呑み込んだ。


「次は」
「……つ、次…って?」
「私のこと、アイツにボディガードだって言いましたよね」
「…………」
「傷つきましたねぇ、私はこんなにおなまえを想ってるのに。おなまえは違うんですか…」
「ち、ちが……他の人もいたから!だから言えなくて…」
「たった3人だったのに」
「…ご…ごめ……」


謝罪を口にしようとしたおなまえの唇に、島崎の人差し指が触れて続きを制する。
「言葉より、行動で示して欲しいんです」と低く囁かれて。


「……出来ますよね?」


薄く開かれた瞳に誘われるように、おなまえは再び唇を寄せた。
Back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -