なんて様だ。

額に滲んだ血を雑に腕で拭って、島崎は毒吐いた。
自分自身に。
この組織に。

もう爪は終わりだ。
世界転覆が出来うる組織だったのに、こんな町なんかにまさかボスの野望を阻む能力者がいたとは。

逃げ出した島崎は慣れ親しんだ拠点の一室に足を運ぶ。
幾重にも鍵が掛けられている部屋だったが、島崎は一度もその部屋の鍵を開けたことはなかった。
部屋の主は突然現れた島崎に「またか」と言いたげに暇潰しに持たされていた本から視線を上げる。


「……いつもいつも…、」
「やあ、おなまえ。調子はどうです?」
「"やあ"、じゃないわよ!どうしたのその怪我…!」


傷だらけの島崎に気が付いて、おなまえは思わず駆け寄った。
おなまえが出血している額に手を翳すと痛みが徐々に和らいでいく。


「少し遊んでたら、意外と骨が折れまして」
「……あと何処怪我してるのよ。ちゃんと出して」
「軟禁されてるのに、おなまえってお人好しですね」
「目の前の怪我人放っておく程腐ってないの。怪我の理由が言えないんなら黙ってなさいよ、もう」


軽口を吐き出す島崎に問答は無用と判断しておなまえは目に見える怪我をどんどん治癒させていく。
今までこの部屋に幾人もの組員が洗脳や負傷で運び込まれて来たが、島崎が出血する程深い傷を負って此処に来たのは初めてだ。
おなまえの掌から伝わる光の温かさを感じながら島崎は暫くそのまま黙っていたが、腕の治療が終わった所で口を開いた。


「キミを元の場所に帰します」
「……え…?」
「もう、組織はお終いですから」


お終い。

おなまえは驚きで目を見開いたまま島崎の言葉を繰り返した。
あんまりにもそれを口にする島崎の様子が普段のものと変わらないように見えて、その所為でか現実味が感じられない。


「え……ボスが逮捕された…とか?」
「まあ、そうなるでしょうね」
「アナタはどうなるの?」


家に帰れるというのに、そんなことよりも目の前の島崎のことを心配するおなまえに島崎は苦笑した。


「私は捕まりませんよ」
「そうじゃなくて」
「うん?」
「この先どうするの?帰る場所、あるの?」
「どうにかやりますよ」


不安そうなおなまえの声に、島崎は肩を竦めてみせた。
おなまえのお陰で随分と楽になった身体。
肉体さえどうにかできたら後は適当に過ごせる場所を見つけて、都合が悪ければ他の場所へと移るだけだ。
「私の事より」と島崎は抱いた疑念を投げかける。


「嬉しくないんですか?帰れるんですよ」
「そんなことはないけど……。一応、安心はするよ」


おなまえは望んで爪に来たのでは無い。
治癒能力という珍しい力に目を付けて、鈴木の命令で1年程前に島崎が攫って来た。

厳密に言うと大人しくついてはきたが爪の活動には非協力的で、いつ気が変わって脱走されないか警戒されていたからこの部屋に隔離されていた。
おなまえ自身は世界征服だなんだという爪の目的に興じるつもりはなかったが、怪我人を連れ込まれる度にお人好し故それを無視できずに治癒し続けていた。

約1年間、外界から遮断された空間で過ごすことを強制されていた身。
それから解放されるというのにおなまえの声音は不安に染まったままで、それが島崎の気に掛かった。


「では何故、そんなに不安そうなんです?」
「……ううん。大丈夫。…島崎が帰してくれるんだよね」


口ごもったおなまえが島崎を見つめる。
攫った本人がまさかこんな形で送り届けることになるとは、連れ出した当時は思っていなかったなと考えながら島崎は「勿論」とまるでエスコートするようにおなまえに肘を差し出した。
気障なその仕草についおなまえは息を抜くように笑みを浮かべ、島崎の腕に手を回す。
直後簡素な部屋から重厚な木の門が目の前に広がった。


「……」


1年ぶりに見る閉ざされたその門をおなまえは見上げる。
外はそろそろ夜を迎えそうな時間だったんだな、と瞳に写った空に深呼吸をした。


「それでは、お元気で」


隣で島崎がそう言うと腕にかかったおなまえの手に触れる。
解かれる、その前におなまえはぎゅう、と島崎の服を掴んだ。


「しま、ざき」
「はい」
「お願いがあるの」
「……何だかあまり良い予感がしませんねえ」


おなまえが何を言い出すのか耳を傾けていると、彼女が意を決した様に口を開いた。


「私と一緒に暮らして欲しいの」
「……それは、この家で?それとも私と逃避行に興じてくれるって意味です?」
「この家で」
「それはそれは」


島崎はおなまえがそうしたようにまるで門を見上げるように顔を上げる。
約1年前に鈴木から告げられたおなまえのデータを思い返した。

みょうじおなまえ。25歳。当時の職業は整復師。
生まれながらの治癒能力の持ち主。
そして……。


「此処で何をしている」
「!」


不意に黒塗りの車が止まり、門前に立ち止まったままの島崎たちに向かって車の中から長身の男が出て来る。
柴田に劣らぬ程の体躯の持ち主が島崎を視線に捉えると威嚇するように目を細めた。
その強面に怯むことなくおなまえが「アダチ」と警戒を顕にしている男に向かって声を掛けると、呼ばれた男はその声に反応する。


「その声……お嬢ですか!?」
「久し振り」
「今まで一体何処にいたんですか!…隣の方は……?」


腕を組んでいる2人の姿を見て、アダチは訝しむように島崎を見た。
しかしアダチの疑問に答える前に車がパッシングをして、ハッとしたアダチは「詳しい事は中で聞きましょう」と門を開ける。

ギギギと低く軋む様な音を立てて開かれた門の中に車が入る間際、脇に避けた島崎とおなまえの前を通り過ぎ様に車中から圧力を感じて島崎は背に走った寒気に似た感覚に笑みを浮かべた。

みょうじ匡哉。駿雅会7代目会長。
おなまえの実の父親であり、東海道一帯を纏めている暴力団のトップ。

ひと睨みされただけでコレか、と島崎は「私、殺されたりしません?」と冗談めいた口調で聞いてみる。
すると腕を掴んだままのおなまえが首を強く横に振った。


「絶対そんなことさせないから」


ああなんてスリリングな状況だろう。
この治外法権の様な場所に足を踏み入れて、無事でいられるかどうかも甚だ怪しいのにその上"此処で共に暮らせ"だなんて。


「頼みますよ」


背後で再び門が閉まる音を聞きながら、促されるまま島崎は屋敷の中へと歩を踏み出した。
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