あーあ。やっぱり断れば良かったわ。
金につられて受けるんじゃなかった。


あーあ。来るんじゃなかった。
黒きなんちゃらとか意味わかんねーし。



コイツと一緒とか最悪だわ。



---


暗闇の中、革靴の低い足音とヒールの高い足音が反響する。
懐中電灯に照らされた僅かな視界を頼りに、霊幻は前を歩く天草の背中を睨んだ。
当の本人は周囲を警戒しながら進む最中、急に感じた刺さるような視線に「…ムッ!妖の気配か……っ!?」と懐中電灯を左右に揺らす。
その拍子に天草が背負っている剣の鞘がすぐ後ろを歩いていたおなまえにぶつかり、「痛っ!気を付けてくださいよ」と悪態が洩れた。


「あっ!すまん!"邪悪な気配"を感じてな…」
「ああそうですか……。あの、天草さん。コレどこまでいくんです?」


天草に連れられた場所は解体中の廃病院。
天草の両親が買い取った土地のひとつだそうで、「"陰のものたち"の気配がする……!しかもそれは…解体業者を襲い、力をつけている…!このままでは……っ!」と一人では太刀打ち出来そうになく霊幻たちに助力を頼み込んできたのだった。


--……俺らだけじゃないのか、声掛けたの…。ったく何でコイツまで来てんだ……


"闇の軍勢"の気配が強い場所はまだ奥らしく、未だ瓦礫が落ちている暗い悪路を進みながら霊幻は天草の後ろを歩いているおなまえに視線を移した。

みょうじおなまえ。一度だけ、霊能特集のTV番組に出演する際同じ現場で共演したことがある。
イタコの祖母と一緒に霊能者として除霊をするが、彼女に霊能力はなく--公にはしていなかったが--祖母のマネージャーのような立ち位置で仕事を請けたり除霊のサポートをしているらしい。

霊幻の苦い記憶として重たく残っている"怪奇探偵スペシャル"。
あの場に彼女も居て、浄堂によって大恥をかいた霊幻を苦々しい面持ちで見ていた。
それどころか収録終わりに「詐欺めいたことするの、辞めた方がいいんじゃないですか」と吐き捨てたのだ。

その後虚ろになりながら荷物を取りに行った楽屋で祖母と話しているおなまえの声を盗み聞き、彼女も0能力者なのに霊能事務所を経営している立場だと知ってから、霊幻の中では"自分を棚上げして死体蹴りして来た女"という認識でいる。


「……お待ち」


不意にしわがれた声が響いて一行は足を止める。
おなまえに同行していた祖母が芹沢に手を引かれて後方から天草たちを呼び止めていた。
ライトに浮かぶ祖母の手を引いている芹沢の顔も心做しか強ばっている。


「急に嫌な感じがして来ました。あんまり離れない方がいいです」
「おなまえ、此方に」
「う、うん。今行く……っ!?」
『ォォオオンナァオ』
『オンナダァァ』


突然おなまえの身体が浮かび上がり、暗闇から赤や紫に光る眼が露わになった。
直後大きな腕が宙のおなまえを鷲掴んでドシンと重い足音と共に部屋が揺れる。
巨大な鬼のような姿をした妖が2体。それより小さい似た姿のものたちがゾロリと2体の後ろから現れた。


『ケ、ケケケッ!ワカァイゾォォォ』
『ヒサシイナァ、ヒヒヒ、キキッ』
「この悪鬼、喋れるのか……っ!」
「ぐ、ぅ……ッ」
「囲まれてる…いつの間に…!」


霊幻たちの周りを小鬼が取り囲み、数多の目が今まさに襲いかからんとギラギラ輝いている。
赤い鬼は掴んだおなまえを物珍しそうに掲げて反対の手でその髪を一筋摘むと、傍らの紫の鬼に見せ付けるように掴んだおなまえを差し出した。
まるで綺麗な蝶や花を見つけた時のように2体の鬼はその隻眼を細め口を歪めている。

天草は新調した聖剣を鞘から抜き構えるが、数も力量も鬼たちの方が上であることは肌からひしひしと感じていた。
するとジャラリと数珠同士が擦れる音がする。


「受け身取りな」
「う、わ!」
『グォォオアアア!!』


祖母が懐から出した大数珠が弾け、おなまえを掴んでいる赤鬼の眼に直撃する。
その衝撃で緩んだ拘束におなまえは赤鬼の手を抜け出して飛び降りた。
紫鬼がそれを掬い取ろうと腕を伸ばすが、その指を芹沢が投げた名刺が切り落とす。
赤鬼の叫びを皮切りに周りを囲んでいた小鬼が一斉に霊幻たちに雪崩かかってきた。


「聖剣!驚天動地天叢雲剣ーーーッ!!」
「逃げろっ!こっちだ!!」
「道を拓く。先に行きな!」
「ここは俺たちがなんとかします!」


天草が声を上げて剣を振るうと刀身が白く光り押し掛けていた小鬼が焼け切れるように崩れていく。
そうして出来た隙間が埋まる前におなまえの腕を霊幻が引いて駆け抜けた。


「おばあちゃん!!」


来た道を走りながらおなまえが振り返る。


「こんな老いぼれ、うまかないよ!」


霊幻の行く手を阻むように湧き出た小鬼を正確に捉えた数珠の玉が弾き飛ばしていく。


「スナイパーかお前の婆さん……ぅおっ!?」
「こんの……離せ!」


霊幻がそう零すとガシリと足元の影から小鬼がわいて霊幻の足を掴んだ。
急に固まった足につんのめると、おなまえが靴のヒールで容赦なく小鬼を踏み潰し、鬼が踵に刺さったままの靴を投げ捨て「走って!」と霊幻の腕を掴む。
「あ。物理でも良いのね」、「触ってくるんなら、触れるでしょ」と零しながら2人は瓦礫の隙間から差し込む月明かりを頼りに元来た道を辿って行った。


---


行けども行けども出口がない。
我武者羅に走り続けたおなまえは荒く上下する肩と擦り切れそうな喉に耐えきれず足を止めた。


「……っ、ハァ、ハァ……こんな、に、廊下……続いて……た?」
「ハァッ、……ハ、……んな訳、ねぇだろ……」


懐中電灯は道中の小鬼に投げ付けて2人とも手ぶらになってしまった。
霊幻はポケットから携帯を取り出し携帯のライトで周囲を照らしてみる。

天草の後に続いていたとはいえ、粗方の通り道は覚えている。
しかし登ったはずの階段が見当たらない。
徒歩で奥まで進んだのだ、こんなに走って廊下端の階段に辿り着けないはずがない。


「これも……あの鬼の術かなんか、ってところか…?」
「……、言っておくけど、私…お婆ちゃんみたいに、役立つ力なんかないからね」


ふう、と息を落ち着かせながら顎に流れる汗を腕で拭う霊幻に、おなまえはバツが悪そうに打ち明けた。
打つ手なしだ、と項垂れたおなまえに向かって霊幻はニヒルに笑ってみせる。


「お前もこれを機に詐欺まがいなことやめれば?……なぁんてな。ま、どうにかなるだろ」
「……ごめんなさい」
「やめろよ、らしくねぇ。まずは出る方法探そうぜ。そーいうのは皆で助かってからだ」


俯くおなまえの肩をポンと軽く叩くと、霊幻は壁にあったボロボロの館内案内図を見つけて「ふむ」と考え込んだ。
鬼と遭遇した部屋は広かった。
そこを出てひたすら廊下を走り続けてきたルート的に、やはりこの付近に階下に続く階段があるはずなのだが。


「……部屋の配置はそのままで、階段だけないっぽいな…」
「ココは……ナースステーション?本来ならこの隣に階段とエレベーターか……」


別の階に続くはずの空間には反対側と同じく病室と廊下が並んでいる。
鬼のいた大部屋に戻ってはいないことを考えると、この廊下だけが延々繰り返されているのだろうか。


「お婆ちゃんたち、大丈夫かな……」


砂埃でザラついたカウンターに手を着いておなまえがふと声を落とした。
霊幻たちを追ってくるのが小鬼ばかりということは、芹沢たちが大きい方の鬼たちを足止めしてくれているからだろう。
しかし天井を覆うほどの巨躯がふたつ。
それらと対峙しているにしてはこの廃墟は静かすぎる。


「平気だろ。天草はともかく……芹沢はマジモンの能力者だし。そっちの婆さんだって歳の割にしっかりしてたろ」
「それもそう、なんだけど…静かすぎて……ううん、気にしすぎだね」


おなまえは嫌な想像を振り払うように首を左右に振った。
小鬼たちの襲来への応酬で精一杯だったお陰で気付かなかったがアドレナリンが切れた今、薄いストッキング一枚のほぼ素足で瓦礫を踏み小鬼に爪や牙を立てられた足は血が滲み痛みを脳に伝え始めている。
痛みを感じ始めたせいで余計にマイナス思考になっているんだと自分に言い聞かせて奮い立てるようにぐっと拳を握り、顔を上げた。


「窓、試してみよう。もしかしたら外に出られるかも」
「窓…って言ったって、ここ少なくとも3階以上上だろ?」
「見て見なきゃわかんないでしょ」
「……このまま缶詰めよりマシか」


そう言って再び廊下に戻ろうと2人が踵を返した途端、バチバチと電気が走るような喧ましい音が空間に響いた。
突然の騒音にビクリと身を固くすると同時にズシ、と重たい何かが床を踏みしめる音が耳に届く。

あの鬼だ、と霊幻は動けずにいるおなまえの手を引いてナースステーションの奥に身を潜めた。
なるべく小さくなるように隅の物影に隠れながら、耳に意識を集中し音のする方を窺う。


『…グゥオォ…コォコニモォォイナァァイィィ……』


低く間延びした声。
ドシン、ドシン、と確実に近付いてくる足音。
まだ距離はあるが、分かれ道もないこの場所にやってくるのは時間の問題だ。


『アァニジャノォジュツゥゥ……ビィリビリスルグォォ……』


ゆっくりとした足取りで床を震わせながら鬼が進んでくる。


「……ハッ……ハァッ……」


--私を掴んでた鬼だ…
--もう一匹は?すぐ来る?
--お婆ちゃんたちは…もしかして……やっぱり……


おなまえの呼吸が浅くなる。
なんとか抑えようと自分の両手で口を覆い蹲って耐えるが、震える手の隙間から吐息が漏れた。
そんなおなまえに気づいて霊幻は小声で「みょうじ」と呼び肩を抱き寄せて自分の方を向かせると震えている手に自分の掌を重ねる。


「大丈夫だ。血の臭いがしない。きっと婆さんたちも逃げられたんだ」
「ふ……、ッ……」
「アイツは一匹だ。もう一匹と手分けしてるんだろう。信じろ、絶対大丈夫だから。ゆっくり息を吐け。深呼吸、できるか?」
「……、……でき る。…………ありがとう…」


肺が震えて息苦しかったのが、霊幻の言葉を聞いている内に徐々に落ち着きを取り戻すのがわかった。
おなまえがゆっくりと息を吐き出して返事をすると、霊幻は「アイツを何とかやり過ごして出ないとな」とこの危機的状況の中勝算でもあるのかニヤリと笑う。


「……何か案でもあるの?」
「ない。…が、だ。幸い頭の鈍い方だ。なんとかなるだろ」
「鈍いなんて何処でわかるの」
「紫のヤツの方が言葉が流暢だった。動きもこっちのがのろい。あとは俺の勘だ」


「案外ここに隠れてるだけで見落とされるかもだぞ」と軽口を叩く霊幻を「そんなバカな」とおなまえは目を細めて視線で伝える。
しかし霊幻の言った通り鬼の腰下程度の位置にあるからか、ナースステーションの入口から中を覗き込むことすらせずに鬼はノシノシと廊下を突き進んで行った。
緊張の面持ちで物影からその様子を見届けると、霊幻が目と眉の動きだけで「ホラな」と伝えてくる。

再びバチバチと火花が立つような音を立てた後、少しづつ鬼の足音が離れていくのを充分に待ってから2人はカウンターから抜け出た。


「……嘘、杜撰…」
「往々にしてああいうヤツは詰めが甘いもんだ」
「ああ、そう……。! 霊幻、見て」


「紫の方でなくて助かったな」と赤鬼の消えた方角を見ている霊幻の上着の裾を引いておなまえが示した先は、先程赤鬼がビリビリと音を立てた道の先だった。
延々と続く廊下の景色に薄膜が見える。
それはオーロラのような僅かな光で揺らめいて、赤鬼が爪で割いたのだろう切れ目があった。
切れ目の先には通路ひとつ隔てた場所に霊幻たちのいる場所と同じくカウンターが見える。
その脇に階下に続く階段も。


「窓から脱出、試さなくていいかも」
「地に足つけられて助かるわ」


この階から出られる。
そう思って少しだけ緊張を緩めると霊幻が「お前」と何かを言いかけた。
しかしその先を続ける前におなまえたちのすぐ頭上から氷のように冷たい吐息が吐き出される。


『ミィイイツケタァ』
「!? どっから戻ってきてんだよ!!」
『ケケゲケッ、ヒトノニオォイ、ズウゥットシテタァア』


一体どうやったのか、巨体の気配を消しながら戻って来ていたらしい赤鬼が霊幻たちを見下ろしていた。
赤鬼はおなまえを目で捉えるとにんまりと目を細め、『アァニジャトォオ、ハァンブンコ。キキキ』と牙から涎を滴らせる。
おなまえがそれを見て背筋を凍らせると同時に、霊幻が突然おなまえを抱え上げてその場から走り出した。
回転した視界におなまえが驚くと「掴まってろ、走り難い」とおなまえの背に回された腕が引き寄せてきて、言われた通りしっかりと霊幻に掴まる。


「なっ、何で抱えてるの」
「その足で走れねーだろ!黙ってないと舌噛む、ぞっ!」


赤鬼が振り降ろした拳を何とか避けながら霊幻は階段に向かって走り続けた。
力こそ強いがやはり体が重いのか赤鬼の動きは俊敏とは言えない。
抱えられているおなまえが鬼の動きを見て霊幻に伝えるのでこのまま階段を下り外まで逃げ仰そうと駆け込む。


『ガァアアァアアッ!!』
「はっ。負け惜しみ、か……って……うぐ!?」


階段を目前に「イケる」と霊幻が確信した瞬間。
突然足が動かなくなり視線を落とした。
そこには影から湧き出た数体の小鬼が霊幻の足にしがみつき、逃すまいと深く爪を立てている。


「ぐ……ってめぇら…今更出てきやが…っって!!」
「ひっ、れ……霊幻!!」
「先に行け!!狙いはお前だ!逃げろ!!」
「霊、幻……」


霊幻は抱えていたおなまえを放り投げた。
足を掴んでいる小鬼を飛び越えて着地したおなまえは焦ったように振り返るが、それを一喝するとおなまえは意を決したように唇を噛み締める。


「オイ馬鹿鬼ども!!私はこっちだ捕まえてみな!!!」
「ハ!?何してんだお前!!」


急に声を張り出し鬼たちの視線がおなまえに集中した。
霊幻の足を掴んでいた小鬼らも手を離しておなまえに向かってくる。
それを検めるとおなまえは階段の手摺を跳び越えて一目散に走り出した。

足なんかどうなったって知るもんか。
目の前であの詐欺師が痛めつけられるくらいなら、きっと清々しただろう。
「だから言ったでしょ、さっさとこんな商売辞めれば良かったのに」って笑ってやれたかも。
だけど。


--「信じろ、絶対大丈夫だから」


アンタの言う絶対を、信じたいと思ったから。


「ハァッ、……ハァッ……」


小鬼に体力の限界は無いんだろうか。
おなまえが地上階に辿り着いてだだっ広いエントランスを駆け抜ける合間も、すぐ後ろから飛び掛ってきた一匹の小鬼を何とか振り払う。
赤鬼は狭い階段の中に難儀している。
今の内に外まで逃げられれば、その間に他の皆も脱出できるだろうと信じておなまえは悲鳴を上げる自身に鞭打った。

もうすぐ出られる。
あと少し。


『ハジメカラコウスレバヨカッタンダァ』


地面が揺れる程低い声が響く。
カランカランと玉が幾つも転がる様な音が後に続いて、その軽快な音色におなまえはハッとした。
小鬼たちがキィキィと喚いた声を潜め、脇へと避けていく。
そうやって出来た道を紫の鬼がズシ、と床を踏み締めて進み、おなまえに見せ付けるように腕を伸ばした。
現れた当初は2本だった腕がよっつに増え、それらが祖母と芹沢、天草を掴んでいる。
手中の3人はぐったりとしているが、辛うじて息はしているのがわかる程おなまえにそれらを近付けてから、紫鬼は自分の顔程の高さまで持ち上げて見せた。


『オンナノ血肉ニハ陰ノ気ガタクサンアルンダァ。ワカケレバワカイ程イイ…』
「……その人たちをどうするつもり」
『交渉シヨウ。オマエ一人ト、コイツラ。ドチラガ私タチニクワレルカ』
「…………」


霊幻の言った通り、紫の方がよりタチが悪いなとおなまえは顔を顰めた。
けれど問答無用で捕まえて4人丸々食べることだって今出来たのに、そうはしないでいてくれることに感謝するべきか。


「……その人たちを離して。大人しくするから」


おなまえが紫鬼の前まで自ら歩を進めてそう言うと、紫鬼は空いている1本の手をおなまえのすぐ側に置いてから3人を床に降ろし開放した。
本当に3人は助けてくれるのかと目を見開くおなまえを、傍らの大きな掌が包む。
その力は潰さない程度に弱められてはいるがしっかりと握り込められていて、擦り傷だらけの体に走る痛みにおなまえが顔を歪めた。


「本当に、他の人は見逃してくれるんでしょうね?」
『開放シテミセタロウ』
「私を食べて、じゃあ次はこいつらをってされたら交渉の意味がないわ」
『キキキ……私ハナ、泣ナキ叫ンデ命ゴイスル人間ハタクサン食ベタンダァ』


紫鬼が増えた腕で指折り数えてみせる。


『二人デタクサン食ベタヨ。妖術ダッテ使エルシ、言葉ダッテ聞キ取レルダロ?』
「……」
『デモミィンナ同ジナンダ。"食ベナイデクレ"、"殺サナイデクレ"。ソレバッカリ』


『ダケド』と紫鬼はギラついた隻眼を細めてねっとりとおなまえを見つめた。


『人質ノタメナラ自分カラ"食ベテクレ"ッテネガッテクレルダロウ?私ハソウシテ君ヲ食べタインダァ…』
「悪趣味」
「……ぐっ、あ"ぁ!」
「! お婆ちゃん!!」


おなまえがそう吐き捨てると、紫鬼は視線を変えないまま脇の祖母を再び持ち上げる。
すると一瞬でおなまえの顔から恐怖の色が増した。
強く握られた拍子に意識を取り戻したのか、祖母が目を開きおなまえに気が付く。
状況を悟って、祖母は「……グズな子だね…こんな耄碌捨てて行きな」とおなまえを叱る。


「ごめんなさいお婆ちゃん…捨てられないよ」
「…………く、っぐぅう」


その様を愉快そうに観察していた紫鬼が、祖母が身じろいだのを察知して強く握り締めた。


『余計ナコトハスルナ』
「や、やめて!食べたいのは私でしょ!?」
『……』
「お願い…、します。だから……っ!」
「……おなまえっ!」


ぐい、とおなまえを握った手を持ち上げて、紫鬼は口をあぐりと開いた。
大きな牙と舌、虚のような喉が見えてこれから飲まれるのだという実感が急速に身を占めていく。
おなまえの足から滴る血が紫鬼の舌に落ち、鬼はうっそりとした表情で涎を溢れさせた。


「ソルトスプラーーーーーッシュ!!!!」
『グホッ!!』


飲み込まれると観念した瞬間、おなまえを握っている鬼の手がカクンと加わった重さ分沈む。
大口を開けた喉目掛けて霊幻は持ち得る塩全てをぶち撒けた。
突然大量の塩分を口に含まされて、紫鬼は盛大に噎せ返る。
その隙に霊幻はおなまえに「今だ!」と声を掛けると祖母に絡んでいた鬼の指が内側から弾かれ、2人は拘束を抜け出した。


「霊幻お婆ちゃんお願い!…お婆ちゃん、この人使って!お婆ちゃんの手引っ張ってくれてた方!」
「任せな」


おなまえに言われて祖母をおぶると、そのままの状態で祖母は数珠を持ったまま印を結ぶように手を握り何かを呟く。
すると数珠がバラバラに散らばって倒れている芹沢の体を囲んだ。
ぐるぐると数珠玉が回ると不意に芹沢が体を起こし徐ろに立ち上がる。
しかしその目は閉じたままで意識はないように見えた。
だと言うのに数珠に囲まれた芹沢はそのまま歩き出すと倒れている天草を持ち上げておなまえの後を追って走り始める。


「は?何だそれ!」
「アンタも走りな鬼が来るよ」
「霊幻!急いで!!」
『グオォ!マテ!!!』


おなまえの祖母に言われて霊幻も我に返り出口へと駆け出す。
紫鬼の声と共に再び動き出した小鬼たちを蹴り飛ばしながら一行は白み始めた空の下まで一心不乱に走り続けた。


---


鳥の囀りが聞こえる。
頬を撫でる風が温かく、草花の香りがして天草はパチリと目を開いた。
廃墟で"狂気の渦"を相手にしていたはずなのに、目に入ってきたのは爽やかに晴れ渡った青空で「おや」と首を傾げる。
直後「おや、じゃないんですけどっ!」と傾げた頭を横から蹴られてその痛みに天草は起き上がった。


「いだぁぁ!?貴様何をする!」
「アンタがあんなとこ連れてったせいで危うく皆死ぬ所だったじゃない!反省して下さい!!」


「蹴った私だって痛いんですよ!」というおなまえの足は相変わらず素足で、応急処置の絆創膏が張り巡らされている。
辺りを見回して、此処が廃墟から少し離れた空き地なことに天草は気が付いた。


「ハッ!そうだ、"まやかしの者共"は!?」
「ありゃ手に負えん。触らぬ神に祟りなしだ」
「流石にあれを退治するのは骨が折れると思います」
「親の買った土地だったっけ?悪いことは言わないからちゃんとしたモン揃えて計画立てな。それかこの兄さんの言う通り触らないことさね」


いくら天草に取っては身内の危機と言っても、あの土地に暮らさないといけない訳でもなし無理をしてまで関わらないでも良いんじゃ、と霊幻はボロボロになったシャツについた砂埃を払った。
「陽が昇ったから逃げ切れただけで、そうじゃなかったら危なかったろうね」とおなまえの祖母は日向ぼっこをしながら言う。


「芹沢大丈夫か?出る間際お前意識ないまま天草担いで走ってたけど…」
「そうなんですか?……すみません、覚えてなくて…」


あんまり役に立てなかったなと芹沢が頬をかくと、何かを思い出したのか「あ」と声を上げた。


「でも何か、ムキムキのお爺さんを見た気がします」
「……どこで?」
「どこ、だろう。さっきの病院で…なのかな?」
「は?」
「それウチのお爺ちゃん」
「「お爺ちゃん?」」


おなまえの言葉を霊幻と芹沢が口を揃えて復唱する。
それに頷いておなまえは祖母を示して「ウチ、口寄せで死んだお爺ちゃんを私に憑依させて除霊するのが主なの」と説明した。


「お前0感なんじゃねえの?」
「おなまえは見えないけど霊体に馴染みやすいんだよ。常人よりずっと負荷がないから、交霊する時はおなまえを器にするんだ」
「何か私の方が制御しやすくなるんだって。お婆ちゃんが言うにはね」


「私はその間寝てるようなもんだから覚えてないけど」と続けて、それを聞いた芹沢は「ああ、じゃあ俺も憑依?状態だったんだ」と頷く。


「能力者は抵抗が強いんだけど、あの坊ちゃんよりアンタの方が体格良かったからね」
「そうだったんですね。大丈夫です、お陰でこうして助かりました」
「どんな人にだって降ろせるのよ、すごいでしょウチのお婆ちゃん!」


そう言って得意気に腰に手をつけて見せるおなまえに「お前は実質寝てるだけじゃねーか…」と霊幻は呆れた顔で突っ込む。
それに言い返そうと霊幻に向き直るとはた、と何かを思い出したようにおなまえは目を丸くした。


「そういえば霊幻、何処からやって来たの?何か上から降ってきたよね?」
「ん?……ああ、あの時か」


紫鬼に今正に喰われんとしていた時、突如霊幻が天井の方から降ってきた様におなまえは感じていた。
視線は鬼の口に注視していたから気付かなかっただけかもしれないが、上方から来たのは確かなはずと確認する。


「お前が鬼共を連れて降りてった後、俺も後を追ったんだが…」


自分の顎に手をやり思い出しながら霊幻は説明した。

おなまえを追い階段を降りている途中で、何階部分かは忘れたが赤鬼が崩れかけている天井と狭まった通路に嵌って身動きが取れなくなっているのが階下の手摺越しに見えた。
恐らくその鬼よりも先におなまえは逃げたのだろうが、鬼で塞がれてこの階段から降りることはできなそうだった。
だから鬼の手前の階で別の道を探していたところ、吹き抜けになっているエントランスの側まで辿り着いた。


--「まだ高ぇな。流石に此処から降りたら怪我する……ん?」


階下を窺うと紫鬼が芹沢たちをダシにおなまえと交渉している所だった。
あれはヤベェと後先考えるのも忘れ飛び出した所、丁度鬼がおなまえを掲げたお陰で無事に着地できありったけの塩をお見舞いしてみせた。


「……と、言う訳だ」
「行き当たりばったりすぎる……よくそんなんでこんな仕事できてるわね」
「なんとかなったろうが。助けられといてなんだその言い草は」


まるで子供のように口をすぼませて「ありがとうくらい言えよ」と霊幻はジト目でおなまえを見る。


「…こんな人と仕事してて命の危険とか感じたことない?芹沢さん?だっけ」
「まあ……、でも本当にたまにですよ。それに危ない時は大体霊幻さんもですから。見捨てないっていうか、見捨てられないっていうか……ハハハ」


心当たりがあったのかおなまえの言葉に芹沢は「うーん」と言葉を慎重に選びながら答えた。

意外だった。
霊幻を知った時は彼一人だったし、その仕事ぶりなんかも収録の様子を見て「適当な人だな」と思った。
だから天草が「仲間にも来てもらった」と言って霊幻たちが来たのを見た時は今回ほど最悪な仕事はないだろうと確信したものだけど。

おなまえは鬼の主目的が自分だと知りながらそれでもおなまえの手を引いて走り続ける霊幻の姿を思い出す。
おなまえと別れて逃げれば、襲われるリスクはぐっと減っただろう。


--それでも置いて逃げてかなかったもんなぁ、この人。


それどころかこうして守られた。
その自覚があるから、余計に認識を改めてお礼を口にするのが憚られておなまえは「ふぅん」と気のない返事を芹沢にする。


「……ま。この人のとこ嫌になったらウチおいで芹沢さん。あなたみたいなよく気がつく人なら例え0感になっても雇ってあげますから」
「え"」
「アッハッハ、そりゃあ良い」
「オイうちの従業員だぞ!引き抜くな!!」


「お婆ちゃんの目が見えないの気付いたから着いててくれたんでしょ?」とこっそりと言うと、「あぁ」と芹沢は汗をかきながら頷いた。


「みょうじさんがずっとお婆さんに触れてたので。そうなのかなぁって思ってそうしたんですけど」
「アンタ爺さんに似てるよ。イイ男だね」
「あ、ありがとうございますっ」
「絆されんなよ」
「絆されてませんよ!」


そんなやり取りをしている内に天草が「近くの通りにタクシーを手配したが……歩けるか?」と様子を窺ってくる。
おなまえの足元に視線が集まって、おなまえは痛みを気取られないように足の指を握ったり伸ばしたりしてみせた。


「平気平気。タクシーありがとうございます」
「ならば行こう」
「はーい」


返事をして祖母を見ると芹沢が既にエスコートをしている所だった。
じゃあゆっくり歩く言い訳ができなくなったな、と痛みに堪える覚悟をして一歩踏み出そうとすると「みょうじ」と霊幻に呼ばれる。


「ん?どうしたの?」
「それで歩いたら悪化するだろ。……ホラおぶってやる」
「え。…………い、いいよゆっくり歩くから」


おなまえの前に霊幻が背を向けてかがみ込み、「早く乗れ」と言いたげに肩越しに見上げられた。
それを無視して進もうとするとズキリと足の裏から脳天まで痛みが走り、思わず身を固めて「いたい」と言いそうになった口を引き結んで空を見上げる。


「ほれ見ろ」
「空見てるだけだし」
「お前な……俺の靴履いて帰るのとおぶさられるのどっちがいい」
「……それ霊幻どうすんのよ」


どんな二択だとおなまえが顔を顰めると「俺は極厚靴下だからこんくらいの道なら訳無いぞ」と意味の分からない台詞を霊幻が吐く。


「やだ蒸れがヤバそう。……おぶって」
「一言余計なんだっての」
「お尻触ったら訴訟する」
「触んねーよ!」


大人しく腕を霊幻に伸ばすと、その手を掴んで霊幻がおなまえの膝裏を抱えた。
天草たちの後を追い始めた霊幻に、聞こえるか聞こえないかも分からないほど小さな声で「ありがとう」と零すと、霊幻はおなまえを抱え直す素振りで聞こえない振りをした。




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23.01.23 / 霊幻夢 同業他社ヒロイン
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